持つべきものの苦脳

P.sky

苦「脳」

とうとう雨が、降り出したようだ。

ポツポツとした小雨から、次第に雨粒は大きくなっていく。

(どこかに、雨宿りをするところはないだろうか)

一人、活気のない商店街の中を歩く。数多く並ぶシャッターはその息苦しい見た目以上に、私を拒否しているようで、とても居心地が悪かった。

やがて、一軒の店が空いているのを見つけた。あれは……喫茶店だろうか? そこは、どこか古ぼけている印象を受けた。まるでそこだけ時間が止まってしまった、というように。或いは、その空間だけこの時代まで取り残されてしまった、というように。

古ぼけた扉を開ける。カランコロン、という心地よい音色が響いた。辺りを見渡すと、暗いアンティーク等がずらっと並んでいて、なんだかちょっと不気味だった。

「いらっしゃいませ」

その店のマスターらしき人が出てきて、そう言った。この店の雰囲気からは想像できないような好青年だった。格好を変えれば、そのままバーテンダーやホストにもなれるのではないだろうか、と思ってしまうほどだった。

「ご注文はお決まりですか?」

「あ、えっと。じ、じゃあ珈琲ひとつください」

本当は、珈琲の苦味はあまり得意ではないのだけれど、喫茶店に必ずあるメニューといえば珈琲しか思いつかなかった。まあ、いざとなったら砂糖でもミルクでも入れれば良い。

私はそのまま椅子に腰掛けて、珈琲が来るのを待つ事にした。

調味料をなんとなく眺めていると、

「お客様、失礼ですが、この後の予定をお聞きしてもよろしいでしょうか?」

マスターはそう言った。『新手のナンパですか?』と聞きたい気持ちもあったが、とりあえず当たり障りのない言葉で返す。

「ええ、まあ、特にはありません」

すると、マスターはその返答に満足したかのようにうなずいた。そして、こう続けた。

「それなら、ひとつ話を聞いていただけないでしょうか。……何しろ、随分と長い間客が来ていなかったもので」

なるほど、そのようだ。注意深く見ると、他のテーブルの上は寸分違わず、全く同じ配置に整えられていた。使われていない証拠だ。

「少々暗い話なのですが、それでもよろしいでしょうか?」

「えっと、ああ、はい」

本当は珈琲と同じで、苦くて暗い話はあまり得意ではないのだけれど。まあ、マスターがミルクや砂糖を入れてくれるのを期待するとしよう。

そうしてマスターは、カップを磨きながら滔々と話し出した。





*   *   *





『サヴァン症候群』って、ご存知ですか?

いえ、知らないのも無理はありません。すごく患者数は少ないですから。簡単に説明するとですね、脳に何らかの障害を持っている人が、ごく一部の分野に限ってすごい力を発揮する事を言います。その一部の分野は人によって様々ですが、私の場合は、「一度見たものは、絶対に忘れない」能力でした。羨ましいと思いますか?

……そうですか。

私は、幼少期をほぼ一人きりで過ごしました。父は早死にしてしまい、母はずっと働き詰めでした。その時のがらんとした空間は、とても寂しいものだったのを覚えています。だからこの店には小物をたくさん置くようにしました。少しでも孤独感を和らげるためにね。おっと、話がそれました。とにかく、小学校を卒業するまで、私はずっと一人ぼっちだったのです。それが変化するのは、中学校に入ってからでした。中学校には、私なんかにも話しかけてくれる物好きが多かったのです。おかげで、私にも友達と呼べる人が何人か出来ました。もっとも、長続きはしませんでしたが……





*   *   *





そこでマスターは一度話を止め、珈琲を持ってきてくれた。その珈琲を一口啜る。……これはおいしい。でもやっぱり少し苦いなぁと思った。そんな私の顔を見てマスターは軽く微笑んだ後、再び話し出した。





*   *   *





私は、自分の顔が嫌いではありません。そのせいなのかはわかりませんが、女性に告白される、という機会がありました。しかし、当時の私には愛情という感情が欠落していました。誰かを好きになるということが出来なかったのです。告白は、全て断りました。その時の悲痛な表情は、私の脆い心を酷く痛めつけました。そしてある日、私はクラスの中心人物であった女性さえも傷つけました。次の日から、私に話しかけてくれる人はいなくなりました。所詮子供なんて、そんな物なのです。その代わりに待っていたのは、地獄のような日々でした。





*   *   *





「私はその辛い記憶を全て覚えています。いや、忘れられずにいます。今でも目を閉じると、黒板消しが飛んできます。筆箱が焼却炉に入れられます。『どうして?』という、責め立てるような甲高い声が聞こえます。あの忌まわしき学校の姿が纏わりついて消えません」

マスターの声が、それらの行為の凄惨さを物語っているような気がした。辛いことや、悲しいことを、忘れることができない。その苦しみが、どれほどのものなのか私には見当もつかなかった。ただ、恐ろしかった。

「失礼。また話が逸れました」

私は、黙っていることしかできなかった。なんとなく気を紛らわすために、珈琲をもう一口啜った。さっきより熱く、苦くなっているような錯覚に囚われた。

マスターは深呼吸を二つほどして落ち着いたのか、再び話し始めた。





*   *   *





 おかげさまで、随分と病院のお世話になることになりました。高校も自主的に退学しました。それでも母は、私のためにずっと働いていました。全てを知っているからこそ、たった一人の息子を守ってやりたかったのでしょう。今でも、母には感謝しています。……今ですか? とりあえず、田舎で悠々と暮らしている写真が年賀状に写っていました、とだけ言っておくことにします。

その病院で私は運命的な出会いをしました。あれは、病院に通い始めてから三カ月と一七日が経った頃のことでした。診察が終わり、待機しているときに、車いすに乗った女の子が前を横切るのが目に入ったのです。そして、彼女を見た瞬間、私はハッと目が醒めたような気がしました。体の奥に、電流が走りました。あの子には、私が持っていない何かがある。なぜかそう確信できたのです。そして、この機を逃すともう二度と私は立ち直れない気がしました。本能がそうしたのか、運命がそうさせたのか、私には見当もつきません。しかし、私の心は一瞬で彼女に奪われました。一目惚れ、というと少し違うような気もしますが。私は、いてもたってもいられなくなり、彼女の後をこっそりつけて行きました。今考えると、相当大胆な行動だと思います。そのまま病室のある別フロアまでついていき、最終的に病室の番号を目に焼き付けてから、その日は帰りました。

「あの子と話せば、何かが変わるかもしれない」

そんな甘美な響きの机上論は、やがて現実のものになっていくのです。





*   *   *





ここまで話したところで、マスターは珈琲をもう一杯注いでくれた。スティックシュガーを一袋入れて飲む。ほんのり甘い風味がした。

マスターはポットを置くと、更に続けた。





*   *   *





 その次の日、私は「お見舞い」と称してその病室へと向かいました。436という数字が書かれたその扉には、私の勢いを止める力など到底ありませんから、私はその奥へと入っていきました。そこは個室のようで、大きめのベッドが一つだけある簡素な部屋でした。そしてそのベッドの上には、あの少女が横たわりながらこちらを見ていました。

「誰?」

 彼女は訝しげな表情でそう言いました。無理もありません、急に知らない人がやってきたのですから、当然の反応でしょう。私が慌てて自己紹介をすると、彼女はベッドのそばにある棚から日記を取り出して、読み始めました。

「日記に載ってないんだけど」

彼女はつまらなさそうにそう言いました。それに対して私は、はぁという気の抜けた返事しかできませんでした。後に知ることとなるのですが、彼女は十二歳の時、交通事故で、脳に障害を負ったのです。そのせいで彼女は「記憶を一日間しか保持できない」体になってしまったのでした。





*   *   *





「それって、どういうことですか?」

私はスプーンで珈琲をかき混ぜながら、聞いた。今ひとつ言葉の意味が掴めなかった。

「そのままの意味です。一度寝たら、起きるときには記憶がなくなっているんです」

自分の体に置き換えて、想像してみる。起きたら、記憶は十二歳の時に戻っていて、見知らぬ天井が目に飛び込んできて……

 ブルブルっと寒気がした。そんな創作の世界でしかありえないようなことが、今この世界にも起こっているのだと思うと、自然と指が震えた。

「話を続けますね」

そう言った彼の目線には、冷めきった珈琲が写りこんでいたに違いないだろうと、私はぼんやりとした頭で考えた。





*   *   *





 彼女は、私に不信感を抱いていました。それもそうでしょう、だって彼女は日記以外の何も信じることができないのですから。しかし、彼女は私を強く拒むようなことはしませんでした。それに付け込んで、私は自分自身の体験を勝手に話し始めたのです。私の病気についても、迷いましたが包み隠さず話しました。案の定、彼女は表情を曇らせました。

「昨日のことを覚えているのって、どういう気持ちなの?」

私は言葉に詰まりました。彼女が納得できる答えを用意できる気がしなかったのです。私はわからない、と言ったあとに、誤魔化すように目線を逸らしました。


 私と彼女は、次第に仲良くなって行きました。私はいわずもがな、彼女も私を求めているような気がしました。狭い病室で長らく一人きりだったのですから、新鮮な感覚だったのでしょう。お互いに好きな珈琲の種類について語り合ったりもしました。毎日が、とても充実していました。

 しかし、彼女は決して私に笑顔を見せてくれませんでした。それが彼女の意思によるものか、ただ単に表情筋に乏しいだけなのかはわかりません。私はその事実に悲しくなりました。それでも、ただ彼女の隣にいるだけですごく幸せな気分でした。その関係は、恋と言うにはあまりにも歪な物でした。


 ある日、私はいつも通り面談の受付をしていました。が、何故かその日は面談を断られてしまいました。話を聞くと、どうやら体調が優れないため、本日の面談は拒否されているらしい、ということがわかりました。

 私は、言いようもなく、そこに立ちすくんでいました。夥しい数の負の感情が、私の心を侵食していきました。たった一日会えないだけで、これほどまでに不安になった辺り、あの頃の私は彼女に依存していたのでしょうね。

そして、私のその不安は的中しました。翌日も、またその次の日も、彼女とは会えませんでした。

結論から言いますと、彼女はその時、生死の狭間を彷徨っていたのです。しかし、懸命な治療が功を奏したのか、一命をとりとめました。私は面談が許可されたその日に、真っ先に四階まで走りました。エレベーターを使うのももどかしく、必死で階段を駆け上がりました。そして、彼女の顔を見た瞬間に、嬉しいという感情がはちきれんばかりに溢れました。それは、男とか女だとかいう以前の物でした。理解者を失わなくてすんだという自分勝手な感情です。





*   *   *





 マスターは、辛そうに俯いた。そんなマスターがいたたまれなくなって、私は必死に言葉を探した。コーヒーカップの底に、粉が溜まっていた。

 「そんなことないです。なんというか、そんな関係も、ありだと思います、私は……」

まとまりがない言葉になってしまった。でもマスターは静かに微笑んでくれた。

 「……ありがとうございます、励ましてくれた方は、お客さんが初めてですよ。

……最も、この話を誰かにする事自体が初めてなのですが」

「えっ?」

マスターに、私の驚きの声は聴こえなかったらしい。やがて、二杯目の珈琲が運ばれてきた。それと同時に、マスターの話も、終わりへと向かっていく。

 雨は、まだ止まないようだ。





*   *   *





 彼女は、それからも体調不良に悩まされました。しかし、どういった病気なのかは、頑なに教えようとはしてくれませんでした。だから、彼女の身に起こっていることも、何一つわかりませんでした。それにしびれを切らした私は、また禁忌を犯しました。彼女の母親に、彼女の病気の事を聞いたのです。知られたくない、隠している事を、暴こうとしたのです。もちろん、簡単には教えてくれませんでした。それでも、しつこく、何度も問いかけました。やがて根負けした彼女の母親から、私は真実を知りました。

 彼女は、脳腫瘍に冒されていました。

 覚悟はしていましたが、それを聞いた瞬間のショックは相当のものでした。自分で聞いておいて、身勝手な話です。

 彼女の脳腫瘍は、かなり早期に発見されたらしく、すぐに治療すればなんともなかったらしいのです。しかし、彼女は病院に恵まれませんでした。手術関連の様々な手続きで、彼女は病院をたらいまわしにされました。その瞬間にも、腫瘍は確かに彼女の脳を蝕んでいるのに。私は酷く憤慨しました。たらいまわしにされた全ての病院に、文句を言いつけてやりたかった。しかし、母親は病院側を憎むことを望んではいませんでした。頼まれたのは、ただひとつ。

 「あの子の友達でいてあげてください」

という、切なる願いでした。その言葉を聞いた瞬間、私の目から涙が溢れてきました。涙というものはこんなにも暖かかったのだと、思い出しました。私は号泣しながら、何度も何度も深く頷きました。





*   *   *





 マスターの感情のこもった語り草に、思わず涙がこぼれてしまいそうになる。マスターにも、口調に随分と余裕がなくなってきたように感じられた。私にも、珈琲を飲んでいる余裕などまるでなかった。ただただ、マスターの紡ぎだす言葉に思いを馳せることしか出来なかった。





*   *   *





 やがて、彼女の手術の時が近づいてきました。私には、黙って彼女の傍にいてやることしか出来ませんでした。

 手術の成功率は五割。コインの表裏を的中させる確率と同じでした。確率的には悪くありません。――コインが、彼女の命でさえなければの話ですが。だけど私にはどうすることも出来ません。過ぎた日々を悔やんでも、

成功率は上がらないのです。彼女がこの世を去るということを考えるだけで、全身が凍るような感覚に包まれました。そして、ある決意を固めました。


 「彼女が死んだら、僕も後を追うと」

 「……………………」


 しかし、彼女は聡明でした。私のその浅はかな考えも、全て見通されていました。

 彼女が、私を呼びました。私だけを。

 病室に、二人きり。沈黙。

 やがて彼女の方から口を開きました。

 「これ、あげる」

そう言って、彼女は日記帳の束を私に差し出しました。私は、酷く混乱しました。この日記帳は、彼女の記憶そのものでした。それを人にやるなど、自殺行為でしかありません。

彼女はそんな私に向かってこう言いました。

 「私がいなくなったら、あなたはきっと生きる理由を無くしてしまうから」

 どうしてそう言い切れるのですか。

 「だって、私も一緒だから」

彼女は、ニッコリと笑いました。その瞬間、私は彼女の事を優しく抱きしめました。彼女が、壊れてしまわないように、優しく。

 「明日から、もう来ないでね?」

彼女が耳元で囁いたその言葉の真意も、すぐに理解できました。ここで私が去れば、彼女の生死は一生わからないままです。しかし、この日記があればわかります。

 だって、彼女は私の中に生き続けるのですから。

 この日記こそが、彼女の全てなのです。

 彼女は、確かに生きた「自分」を、私に託したのです。

 それが、まるで当たり前であるかのように。





*   *   *





 私は、嗚咽を抑えることが出来なかった。

 「ほんと、詰めが甘いんですよ……あいつは。だって、そんな日記なんかなくても、俺はアイツの事、全部覚えてるって……っ! 忘れたりなんかしないって!」

 「……っ……ひっく……」

 しばらく、店の中には雫の滴る音だけが響いた。

 やがて、落ち着いた声でマスターが言った。

 「喫茶店を開いたのは、一種の願掛けのようなものです。こうすれば、彼女がふらっと珈琲を飲みに来る気がするんですよ」





*   *   *





 「いろいろ有り難うございました」

私は、珈琲代を財布から取り出しながらそう言った。その時、ふと一つの疑問が生じた。

 「その日記って、ここにありますか?」

「ええ。いつも肌身離さず持っていますよ」

「もし良かったら、それ、見せてもらえたりします?」

マスターは少し驚いた顔をしたが、すぐに微笑むと、近くに置いてあったバッグから一冊の分厚い本を取り出した。

「丁重に扱ってくださいね」

私はそれを受け取り、ぺらぺらとめくりだした。

「……これは」

それは、「普通の女の子」の日記だった。今日は病室でこんなことがあっただとか、誰々がお見舞いに来てくれただとか、土曜日にはあの人が来るだとか。そんなことが可愛らしい文字や顔文字で描かれていた。

「彼女の鼓動を感じますか?」

「……ええ、とても」

次第に読み進めていくと、どんどんその可愛らしかった文字が書き殴るような字になっていった。それが、彼女が何より闘っている証拠だった。やがて、最後のページにたどり着いた。そこには、こう書いてあった。

『私は、彼に会うために生まれてきたのだろう』

私も、これを読むために生まれてきたのだろうと思った。





*   *   *





ふう。雨宿りにしては長すぎたな。店を出ると、真っ赤な夕日がちょうど沈んでいく頃だった。駅までの道で、私はぼんやりと、「彼女」の事について考えていた。結局マスターは、最後まで彼女の見た目を言ってくれなかったのだ。これでは、もしすれ違ったとしてもわからないじゃないか。私はそのことに少しがっかりした。もうすぐ、駅だ。

 「すみません! この辺りに喫茶店ってありますか?」

 改札口に入る前に、車いすに乗った女性がそう聞いてきたので、少し迷った挙句、先ほどの店を紹介した。正直、他の人に紹介するのはあまりしたくなかったのだ。この話に関わっている人数は、少なければ少ない程良いなと思う。ただの我儘だけれど。


 それでも、再び二人が会える事を祈らずにはいられない。私は一番星に手を合わせた。

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