第3話
定跡書とはつまり実用書の類なのだから、ちゃんと中身を飲み込めないと、読んだとはいえないのである。そこを彼女は理解できているだろうか?
どうもあの娘の小動物じみた輝いた瞳を見ると不安になる。将棋を覚えたての頃、駒を動かすのが楽しくて楽しくて仕方なかった俺に似ているのだ。翌日になった途端後悔するぐらいなら手際よくメアドを聞き出して釘を刺しておけばよかった。昨日の俺の阿呆。
足早に部室へ急いで扉の前へ差し掛かる。人影があった。そこに立たれると部屋に入れないので声をかける。
「……うちに用か?」
胡乱な視線が俺を刺す。
見たところ下級生の翼人男子だった。背は高めで、黄金色の髪はさっぱりと切り揃えられている。いかにも日焼けしている感じなので運動部だろう。どう考えても将棋部には縁のない人材だった。案外、御藤さんの恋人かもしれない。
「……っ」
彼ははっと息を飲み、何もいわずにそそくさと立ち去って行った。
妙なヤツである。それにあの顔立ち……。どこかで見たような気がするが、世に聞くデジャヴだろうか?
疑惑がさんざん浮かんでいたが、部室に入ってみると途端に霧散した。例の二人が対局していたのである。それもだいぶ白熱しているようで、御藤さんは大きな羽を文字どおり教室いっぱいに広げていた。極度に集中するときの無意識の発露らしい。
つーかでけぇ。実際に目の当たりにすると本当に圧巻だ。以前喧嘩を売りに来たときは、ここまで広げる前に終わってしまったので。
盤面のほうはどうかと覗き込む。既に戦いは終了していた。後手を持っていたと思しき御藤さんの側は、玉将を守っている駒が金と桂のみで持ちこたえている。いっぽうで鷹取さんは尻から金を打たれて呆気なく詰まされていた。先日とは打って変わって、どうやらなかなかの殴り合いだったらしい。
と、そのままぼうっと眺めていると、鷹取さんが上目遣いに覗き上げて来た。
「負けてしまったわ。行けるかと思ったのだけれどね」
声色はともかく涼しい顔である。十中八九彼女が手加減したのだろう。もちろん御藤さんの目の前で、口には出さないが。人間誰しも勝負に勝ったら嬉しいし、やる気が出るものだ。全てはあの子をその気にさせるため。鷹取さんのそういうところを俺は信頼している。
「ふふふ、部長。約束どおり娘さんはあたしがもらいますよ」
「そんな約束してないでしょう」
冷たくあしらわれると、「やあん、つれないですよぅ」と冗談めかして返している。まるで旧知の仲のようだった。
「さ、それじゃあ感想戦やりましょうか」
「感想戦?」
「貴女、途中で何度か無意味な手を指したでしょう。それを復習していくの」
御藤さんはあからさまに、うへぇと顔をしかめている。
「でもあたし、手順なんか覚えてませんよ?」
「そうね。でもまあ、詰め上がり図を撮っておけば、割りかし近い動きはできるんじゃないかしら」
いって、鷹取さんは自分の携帯電話を取り出した。俺と対局するときもこうやってはいるが、携帯の写メでは解像度が低すぎてほとんど見えなくなる。実質、感想戦は鷹取さんの記憶力に委ねられただろう。
面白そうなので俺も椅子を寄せた。御藤さんを新たに加えて三人での研究である。
さっと盤面を手付かずの状態に戻す。そこから互いに歩を突き合い、まるでビデオの早送りのように対局が振り返られる。
しかし御藤さんだ。二日目にして、既に我が城のように振る舞えるのは、ある種の才能だと思う。……おっと、三日目だったか、そういえば。けれど自分の手駒を躍動させるのはまだまだ拙い。
序盤こそ好調だった。特に御藤さんは昨日覚えた手順を確かめたかったのだろう、終始にやにやしているのである。ここは覚えたとおりうまくいったわ、という感じ。
だが幾度か手を止め、主に鷹取さんによる「その歩は七段目じゃなくて、六段目から打つのよ」を始めとした指導が入る度、盤上は無限に変化していく。そうして「ほら一気に攻めやすくなった」「なるほど」「というか詰んでねえか」「どこが」「これをこうして」「あらほんとね」「なるほどなるほど」「というわけで今度からは三手先を見据えた攻めをするとよいわよ」「わかりましたっ」となり、再びもとの変化前、本来の道順に戻るのである。
対局をはじめから観戦していればよかったのだが、あいにく棋譜を覚えようとしていたのは鷹取さんだけだった。二回ほど分岐した辺りでお互い次に自分が指した手がわからなくなり、自然と感想戦は止まってしまった。
鷹取さんが額に手を当て嘆いている。
「……まったく、不甲斐ない限りだわ」
「初手からじゃなく、要所だけ見直せばよかっただろ」
「ずばりと再現できたら不自由はしないわよ」
「こういうときに限って棋譜つけてないんだよな」
「愚痴をいってもしょうがないでしょう。……今日の対局はここまでね」
わざわざ対戦で忙しい対局者の頭に頼らなくとも、誰かが転記していればそれを見返すだけですむ。次回は俺が書き手になっておいたほうがよさそうだ。
……ああ、そうか。部員が三人になればそういうこともできるのか。誰かが記録係になれる。
ところで鷹取さんは携帯電話をカメラから電話帳に戻し、御藤さんのアドレスを聞き出している。こういうときは便乗しておこう。電話帳が厚くなるな。
「部長って案外かわいいアドレスしてるんですね」
「アルファベットにかわいいも何もないでしょう」
「ちょこ好きなんですか?」
尋ねられた途端、鷹取さんは軽く頬を赤らめた。ちなみに鷹取さんのアドレスは甘いものでできている。
「ちょこの話はもういいから。……登録、できたわね?」
「あっ、はい」
「じゃあ、今度から部室に来るときはメールで相談して。準備するから。この倉田くんが」
「俺かよ」
すかさず突っ込み返すと、御藤さんは事務的な笑みを浮かべた。
「よろしくお願いします。今度はあたしも準備して来ますから」
「準備? 貴女は別にそんなことしなくていいのよ」
「そんなことありません。あたしこう見えて体育会系なんで。……もっと、強くならなきゃです。部長もさっきは本気ではなかったですよね。勝負の最中、ずっと悔しかったから」
ぽつりと呟いた声に、ぱっと鷹取さんが首を上げた。彼女は彼女なりに物いいたげな眼をしていたのだが、彼女から切り出そうとはしなかった。
相手を喜ばせるための接待プレイが必要なときもある。いまはきっとそのときだっただろう。だがひとたび気取られてしまえば、喜ばせるどころか逆効果だ。俺達は勧誘活動が苦手なのである。
ぐっと飲んだ部長の言葉を、俺が代わりに吐き出した。
「わかっていたのか」
「初心者のあたしがいきなり勝てるものではないでしょう」
「それはそうだが……」
俺の歯切れがわるくなると見るや、御藤さんは慌てて手を振った。
「あ、あの。嫌味とかじゃないですよ。単に、早く真剣に手合わせしてもらえるよう頑張りたいなーって……それだけっ」
「わかってしまうものね」
遮るように鷹取さんが囁く。御藤さんは驚くほど落ち着き払って答えた。
「翼人ですから」
秋の風に乗せたはずの彼女の意図は俺の耳に届かない。突然、ドアのノックが響いたのだ。荒々しい音。こちらが返事する間もなく、がらりと扉が引かれた。まるで数日前の繰り返しを見ているようだ。
入って来た人影は、やはり繰り返しのように先んじて叫ぶ。
「見間違えかと思ったら、本物だよっ」
「あらかすり」
素っ頓狂な声を返したのは、御藤さんだった。
「紹介します、弟のかすり」
と、続いてそつなく紹介されたのだが、俺と鷹取さんは互いに眼を見合わせてしまった。挨拶どころではない。……一年生の御藤さんが弟というからには、おそらく双子なのだろう。
というかよく見れば、さっき部室の前でうろうろしていたカレではないか。向こうも俺と眼が合い、バツがわるそうに視線を逸らす。その線の先にいた姉に、
「ちゃんといえっつの」
水を向けられた御藤さんは、何も気付いていない様子で微笑み返す。
「はいはい。……正真正銘、血統書付きの双子です」
「なんだよ血統書って」
「あるでしょ? 血っぽいやつ、ピンクっぽいやつ」
「ヒントが曖昧」
「んっと、役所でもらった」
「もらわねーって。ペットかおれらは」
「絶対もらってるよ。父親不在本」
「ははーんさては母子手帳だな」
ひとしきり姉弟漫才が続きそうだったので、見かねた鷹取さんがこほんと咳払いを打った。
「弟さんは何の用件かしら。いま、本物がどうとかいっていたけれど」
「あっ、そうっした。……ねーちゃん、こんなところで油売ってねーでさ。っていうかそれ何だよ」
「これ? 将棋だよ。地上人の戦い。ウチにあるシェフカ盤の二回りでっかいヤツだよ」
シェフカ盤とは翼人族の文化でいう将棋に近いボードゲームらしい。将棋とは異母兄弟にあたるだろう。とはいえあまり市民権を得ているとはいえない。俺も駒の名前ぐらいしか知らないし。
見るからに不機嫌そうな弟君は黄色い将棋盤にちらりと一瞥をくれた後、
「つまり遊びだろ。こんなとこで遊んでんのかよ」
部室でいってはならない一言だった。鷹取さんはまたも抑えられなかった。
「……君、聞き捨てならないわね」
詰め寄るようにいう。が、弟君は眉を軽く寄せただけで怯まなかった。
「わりーですけど、これは姉弟の問題っす。少し黙っててもらえませんか」
「いいえ、黙るのは貴方よ」
「……なんスか」
弟君の翼が不穏に態勢を整える。御藤さんが考えるときなどは最たるものだが、何かに立ち向かおうと意志を固めたとき、羽を開いて臨戦態勢になるようだ。
そしてきっと鷹取さんに羽があれば、彼女もまた凛々しく伸ばしていたに違いない。
「ちょ、ちょっと二人ともやめてください」
一触即発の空気になりかけたところへ、慌てて御藤さんが割って入る。
「今日はもう戻るから、ね」
「……ねーちゃんさえ来てくれれば、別にいいんだよ」
そういうと、弟君は彼女の手首を引き、ほぼ引きずるように立ち去ろうとした。鷹取さんとは眼を合わせようとせず、謝罪するつもりは毛頭ないようだった。
あの様子だと、本人には将棋部部室で失言を放った自覚すらなさそうである。
「じゃっ、じゃあ先輩がた、ありがとうございました。借りた本は、これっ」
自由なほうの腕でカバンから本を取り出すと俺に向かって投げつける。ぎりぎりキャッチ。
「もういいのか」
短めに俺が尋ねると、
「ええ、ひと通りは読みましたし……返せなかったら困るので……。あ……、いえ。では、今日は帰ります」
御藤さんは後ろ髪を引かれるように出て行った。つい先程までとは正反対、完全に悄気返った姿である。翼までなんだか縮こまっている。
後ろで鳴った椅子の引かれる音で、はっと現実に立ち戻った。鼻白んだ様子の鷹取さんが座り込み、思案げに駒を手繰っている。ぱちり、ぱちりと無心に盤に叩きつけているのだ。空打ちなんて滅多にしない人なのだが。歩とと金が交互に現れる。そうして唐突にこんなことを尋ねた。
「倉田くん。プロの将棋指しにどうして翼人がいないか知ってる?」
突然の質問に、少々面食らってしまう。
「ああっと、競技人口が少ないから……だっけ」
「そのとおりよ。根本的に彼らは身体を動かすのが好きだし、得意分野なのよ。あちらの持っているシェフカって将棋の親戚も、プロの世界があるわけではない。段位、級位すらないしね。所詮ボードゲームは外に出ない日の暇潰しでしかないのよ」
そうなのだ。たしかに、翼人である御藤弟君の主張はまさにそれだった。自分達にはもっと相応しい場所があるのだという。
「だから御藤さんは、どういうつもりでわたし達のところへ来たのかしら、……なんて。とても興味深いわよね。いえ、わたし自身の興味なんて、実際はどうでもいいのだわ」
彼女の瞳がどこか遠くの宙を見ていることに気付く。
「先約があったのね」
くぐもった声だった。
「あんな熱心な後輩が、フリーで転がってるわけないよな」
「そうねえ。けれど惜しいと思わない?」
会話になっていても、俺に同意を求める口調ではなかった。むしろ自分にいい聞かせているような、寂しい含みが滲んでいる。
す、と音もなく鷹取さんが席を立った。何をするのかと思いきや、つと身支度を整え始めている。
「帰るの」
「ちょっと、捜し物」
「手伝おうか」
「ありがとう。でも、わたし一人でじゅうぶんよ。倉田くんこそ帰ってもらって構わないわ」
なんだか取り付く島もない様子なのが気になる。そうこうしているうち、「あ、戸締りお願いね」とだけいい残し、鷹取さんはどこかへ去ってしまった。
「なんなんだよ、いったい……」
悪態をつきながら俺は掃除ロッカーへ向かう。むしろ俺が手伝って欲しいぐらいである。散乱した二人分の白い羽根は掃き集めるうちに埃を被って、見るも無惨な塵芥に変わる。くしゃみが出た。
*
《先輩、急にすみません。土曜日にお時間ありますか?》
見慣れない名前からメールが届いたので思わず二度見、三度見したのだが、まさしく御藤さんからのメールであった。どこからどう見てもお誘いであり、むしろ本気なのかを疑いたくなるレベルである。いつものテンションの高さが文面ではすっかり隠れていた。
いや、そんな些細なことはどうでもよい。女の子、しかも年下からのお誘いである。俺はしばらく小躍りして、ようやく脚が疲れた頃にメールの返信ボタンを押した。既に俺の前には、数手先の詰みを読み切った盤台が現れたようなものである。
指定されたハンバーガーショップの二階に時間どおりに足を運ぶ。夕飯前の微妙な時間なせいか空席が目立っていた。加えて、御藤さんの翼は種族の中でも群を抜いて白い。まさしく雪だ。人混みにいる背の高い人のように目印にはぴったりである。
案の定はっとさせるような後ろ姿があって、すぐにわかった。
「ごめん、待たせたかな」
考えうる限りイカしたセリフを用意しながら、彼女の肩を叩く。
「あっ、先輩もこんにちは」
「……なに倉田くん、やけに声なんかつくっちゃって。ヘリウム
含み笑いを腹に押し込めたような、ひどく意地のわるい声。驚いて目を向ける。器用に口元だけでにやついた鷹取さんだった。
……うん、そんなことだろうと思ったよ。対局すらしてない俺をご指名するはずがないものな。
「すみません、わざわざ呼んじゃって」
「いいのよ、かわいい後輩のためだわ」
「かわいいだなんてそんなあ。もっといってください」
身をくねくねとよじりながらいう。俺はほとんど冷めたフライドポテトを横からひったくり、咳払いをして先を促した。
「その、ちょっと相談ごとがありまして」
弾かれたように御藤さんは居住まいを正す。それから、ジュースのカップに手を伸ばした。刺さったストローを手持ち無沙汰に弄り出す。
「できれば同級生に相談すべきなんですけど……。話のわかる知り合いが、翼人しかいないんですよ」
ややあってから、もじもじと続ける。どうにも妙だ。余程いいにくいのだろうが、ならばどうして俺達に打ち明けようとするのだ。
「いいわよ、まずはいってみなさいな」
「……はあ。あ、ところで、これ、こないだの――」
いいながら、御藤さんは入部届を取り出した。俺の預かり知らぬところで鷹取さんが彼女に用紙を押し付けていたようである。ちらりと見えた感じでは、既に署名はされていた。これを顧問に出してしまえばついに彼女も正式な部員になれるわけだ。
だが彼女は取り出しただけで、鷹取さんに渡そうとはしなかった。鷹取さんは不思議そうに小首を傾げている。
「喜んで書いたはいいんですけど、悩んでるんです」
「もしかして、こないだの弟さん?」
「……はい」
御藤さんが身動ぎした拍子に、がたん、と床が鳴った。店の椅子は古くなっても取り替えられていない。田舎町の悲しさである。彼女はがたついた椅子にびっくりしたようだったが、かえって緊張が解けたようだった。
「あたし、実は陸上部に所属しているんです」
「……陸上部? あ、すると、もしかして」
「聞き覚えがあるのか」
鷹取さんに小声で耳打ち。すると見交わしてきただけで、何のフォローもなく話が続いた。
「夏はお疲れ様だったわね」
「あ、はい。ありがとうございます。全国は記念出場みたいな順位でしたけど」
「部門は何だったかしら」
「《滑空》です」
「《滑空》ね。羨ましい競技だわ」
「羽なし……じゃなくて、地上の人ってみんなそういいますね」
納得。運動部はインターハイの季節だったのか。謙遜こそしているが、上級生を押しのけて一年生の彼女が全国に出ているのだから、じゅうぶん凄いことだ。
そして彼女は将棋部の入部届を書いた。……ようやく話が見えてきた。
「貴女程の人が、運動部にいないわけがないと思ってたけど、やっぱりね。期待の新人じゃないの」
「こっちなら兼部でも大丈夫だろ。なあ部長」
肩を竦め、鷹取さんが俺を睨む。
「あのねぇ。わたし達は困らないわよ。どうせ週二回しか活動しないんだから。けど、陸上部はそうもいかないわ」
「そうなんですよ。週七で活動中ですしっ」
御藤さんまで口を尖らせるので、なんだかとんでもない失言をしたようになっている。いわれてみれば、御藤さんがわざわざセーラー服姿でいるのは、さっきまで学校にいたからなのだろう。
「籍だけでもいいわ。部員が増えれば、こちらも部費を要求する口実がつくれるし大助かり」
眼を逸らしつつ、つっけんどんにしゃべる。鷹取さんが部長として、本音を隠しているのはわかりきっていた。それでも、聞いた御藤さんは重々しげに口を開く。
「……あたし、そういうことはしたくないんです。翼人のことわざにあるんですけど、『高低、花取れず』っていうのがあって」
字面から察するに、二兎追うものはなんとやら、という類のことわざだろう。ああいうのは世界中にあるから、たぶん生き物の真理っぽい。
真理はさておき、御藤さんは中途半端が嫌いなようである。真面目だ。
「なら話は簡単だわ。貴女は陸上部を続けるべきよ。また弟さんに怒鳴りこまれても腹立つだけだし。将棋は部活動なんかじゃなく、趣味として続けておけばいいわ」
「おい、そんないいかたしなくたっていいだろう」
鷹取さんをたしなめようとすると、彼女は何らかのジュースを口に運びながら、ちょっとだけ俺のことを見てくれた。
「陸上と将棋を入れ替えても意味は通るわよね。……御藤さん、具体的に答える必要はないわ。病気か怪我でもしたの?」
訊かれた御藤さんの翼が、ぴくりと跳ねる。ぶんぶんと首を振った。
「いいえ、そういうのじゃありません。いたって健康です」
「だったら、人間関係?」
「そんなのでもありません」
御藤さんが、苦しげに吐き出す。
「……ただあたし、出会ってしまったんです。夢中なんです」
「何にかしら」
「将棋に!」
静かに強く、御藤さんはいい切った。
鷹取さんが満足気に喉を鳴らす。将棋部員まで嬉しくさせて来る台詞ではないか。満点、合格。入部資格ありだ。
「それなら歓迎するわよ。好きだから部活に入った、なんてとても自然じゃない。ねえ、倉田くん?」
「ああ、そうだな」
俺達が下手でも部活動の看板を掲げ続けているのは、将棋が好きだからだ。他に理由はいらない。ところが今度は、御藤さんがみるみるうちに顔をかげらせてしまった。
「あたしがどれだけ陸上部を辞めたくても、そういうわけにはいかないんです」
そこで、例の弟君というわけだ。
「あたし達翼人は運動が好きなんです。あたしももちろん好き。ただ弟は、双子のあたしが脱落するのが許せないらしくて。あいつあれでお姉ちゃんっ子だから」
「……ちなみに弟さん、夏の大会は」
「ぱっとしませんでしたね」
ぐさりと突き刺す。なんだか俺まで胸が痛い。
双子の弟が持つ嫉妬にも似た感情は、言葉にされずとも容易に想像ができた。誰だって、自分にない才能の持ち主がちからを活かしたがらないとなれば、心中穏やかではないだろう。嫉妬を越えて、ときには憎悪にも近付く。ましてや身内だ。
「所詮は弟ですから、無視したっていいんですけど。……ごめんなさい、うまくいえなくて」
「謝らなくたっていいわよ」
鷹取さんが柔らかくはにかんでいる。元から整った目元や鼻筋が、殊更美しい曲線を刻む。俺にそんな表情を見せたことはないのが軽く妬けそうだ。
「あたしは将棋盤にかじりついていてもいいんでしょうか。……熱中することを見つけたら、冷めるまでやれっていうのがうちの家訓です。たしかにすごく楽しいんです。まだ下手だけど」
でも、といい淀む御藤さんの話は、少し長引きそうだった。鷹取さんは一瞬、眠そうな眼で、深く頷くそぶりをした。
「わたしも無理に引っ張り込むつもりはないわよ」
「自分で決めろ、ってことですか」
「ええ」
流石に突き放し過ぎたと思ったのか、鷹取さんは何食わぬ顔で言葉を選ぶ。
「ただそれでも悩むのなら、学校の先輩として、多少お説教めいたことはいわしてもらうわ。ええとほら……、たとえば、倉田くん。ここでひとこと」
これには驚いた。会話に入って来られなかったのを哀れんで、やっかいな話題を投げてくれたものだ。尻拭いはいつも俺である。
俺は手を拭き懸命に考え、ゆっくりといった。
「腕前で悩んでいるのなら、俺達だってヘタクソだ。でも部長からしてこんな人間だしな」
「こんな人間とはどういう意味よ」
「そのまんま。……とにかく、御藤さん」
「あっ、はい」
名前を呼ばれて、驚いた風にこちらを見る。
「こっちとしては、特に拒む理由がない。でも君でなくてはいけない理由もない。全部御藤さん次第なんだよ。君がやりたいと思っていることを選べばいい」
要は普通のアドバイスだ。それでも我が意を得たりと、鷹取さんが壊れた人形のようにこくこく頷いている。
俺達ふたりをまじまじと見比べながら、御藤さんはやがて、ぱあっと花が芽吹くように笑った。
「あっ、ありがとうございます。心が決まりまくりました。早速――」
いって、一度はしまいかけた入部届を再び出そうとする。そこへ鷹取さんが手を挙げ押し留めた。御藤さんはもとより、俺までも眼を丸くして彼女を怪しむ。彼女は動じず風に撫でられた顔になった。
「ごめんなさい、まだ受け取れないわ」
「……どうしてですか?」
「簡単にいうと、貴女が陸上をすっぱり辞められるとは思ってないからよ」
超豪速球である。
「陸上を嫌になったわけじゃない、というのが気になってね。それ自体はわるいことじゃないのだけれど……。いまは楽しんでいるかもしれないけれど、将棋部に入ってみてから、やっぱり身体を動かしたい、となっても、わたし達は責任を取れないわ」
「……部長も、結局は弟と同じことをいうんですね」
「それだけよくある悩みだってことよ。……ねえ、いちおう聞いておきたいのだけれど、ちゃんと顧問の先生には相談しているのよね?」
突然水をぶっかけられたように、御藤さんは眼をぱちくりと、数回まばたきを重ねた。
……してないのか。
「してないのね」
「いやほら、こういうのって事後承諾のほうがすっぱり辞められるかなあって」
しどろもどろになって御藤さんは舌を回すが、俺達は全然聞いていない。鷹取さんは大きめの青息を吐き出して、彼女の弁が止まるまでこめかみの辺りをこすっていた。仕方なく俺が切り出す。
「とりあえず、いままでどおりにしよう。仮入部みたいな感じで、ちょくちょく顔を出せばいいんじゃないか」
「――そうですね。保留でも誰も困りませんし」
と、鷹取さんもすっと背筋を伸ばす。
「あと、ちゃんと顧問にも話付けておくのよ」
「……はぁい」
じゃっかん縮こまりつつ、御藤さんは小さく首を振った。
結局、返事は保留。そういうことになりそうだった。まあ、鷹取さんの慎重な意見は、おおむね間違っていないと思う。
散らかしたハンバーガーの包み紙にも現れているとおり、御藤さんはいささか豪快だ。その勢いで入部届を仕上げるのは勇み足ともいう。
……ハンバーガーの包み? こんな時間に? 俺が店に来るまで食べてたのか。食欲も旺盛だ。それとも翼人はみんなこうなのか。
「そうそう」
鷹取さんが口を開く。まるでいままでのやりとりなど、なかったかのようだ。
「この前、捜し物をしたっていう話覚えてる?」
「ああ、この間の」
御藤さんの弟君がやって来た日だ。
「結局見つからなかったのよ」
見つからなかったのか。口振りからして、いま持ってきているのかと思った。
「わたし一人じゃ無理かもしれないから、ちょっと手がかりが欲しいのよね」
「手がかり……ですか?」
蚊帳の外なのが我慢できずに、御藤さんが尋ねる。
「ええ。何代も前の先輩の残した棋譜がね、校舎のどこかにあるはずなの」
「棋譜……ですか」
そうよ、と小さく頷き、鷹取さんは改まって続けた。
「何か知らないかしら」
束の間、どんぐり眼の御藤さんと眼が合った。が、彼女はすぐに我に返った風に、首をぶんぶんと横へ振る。
「あたしが知ってるわけないじゃないですか」
「でしょうね。だから倉田くんに訊いているわ」
「俺だって、中途入部なのは覚えてるよな?」
「覚えているわよ」
「じゃあ聞くだけ無駄だな。だいいち先輩の顔すら知らないし」
「そう、残念」
あっさりと肩を竦めて引き下がる。いちおうは俺の耳にも入れておきたかったのだろう。釣り糸は多いほうがかかりやすい。ただ残念だが、俺が竿を持つことはなさそうだった。
先輩達の棋譜なら部室にも数ケースはある。……が、以前鷹取さんは棋譜を探すといいながら部室を出て行った。俺は部室以外の保管場所を知らない。彼女はどこを探したんだろう。
それでもなお鷹取さんは満足そうに濃厚なシェイクを飲み干す。ややもすれば豚の餌と表現されるピンク色のジャンクフードだが、彼女は上質なミネラルウォーターのように流し込んだ。茶色のトレイの上にとんと置く。
彼女を眺めていた御藤さんが、少し気恥ずかしそうに立ち上がる。場違いに明るい声で、
「ああ、なんか緊張しちゃいました。ちょっとトイレ行ってきます」
「ええ」
そそくさと席を去ると、残ったテーブルには俺と鷹取さんだけになる。賑やかしのようだったあの子が去ると、途端に客のまばらな店内が大きく広くなった。
柱の陰に翼が消えたのを眼で追ってから、鷹取さんが耳打ちをしてくる。
「……かわいらしい悩みよね」
もしかすると独り言だったのかもしれない。俺は反射的に返事をしていた。
「御藤さんのこと」
「ええ。いかにも青いのよね。こちらは困らないといっているのだから、気にせず来ればいいじゃない」
「それができないから悩んでるんだろう」
「難しいお年頃だわ」
トシは一年弱しか違わないだろ、といいたかったのだが、やけに黄昏れている彼女を冷やかすとどんな反撃があるかわからない。
「なんだかね、相手は翼人だから、ちょっと身構えていたのよ」
「身構える?」
殴り合いに備えていたのだろうか。
「もっとわたしが聞いたこともないような、扱い切れない相談をされるのかと怖かったのよ。翼人特有の情緒とか文化とか、ぶつけられても答えようがないじゃない。こっちは地上人なのよ。でも、羽のあるなしに関係のない話だったでしょう。わたしですら悩んだことのある、取るに足らない事情だったわ」
鷹取さんの言葉尻に、悪意は一切含まれていない。憎まれ口になっているのも、凝り固めた拳を解こうとしているからだった。
「倉田くんには伝えていいわよね」
「何のことだ?」
「先代将棋部の伝説よ。……うちには昔ね、翼人の将棋部がいたらしいの」
「えっ」
思わず聞き返してしまった。そんな重要なことをどうして黙っていたのだ。
「翼人というだけで珍しいのに、
「そんな珍しいひとがいるなら、俺だって知ってるはずだけどな」
「結構古い話よ。いまって、校舎の屋上は閉鎖されているじゃない? あすこがまだ開放されていた頃の話みたいだから」
「屋上……?」
相当前のことになるのはうっすらと想像できるのだが、大先輩とどう関係があるのかが繋がらなかった。
「聞くところによると、文化祭前日、学校中が作業に勤しむ衆人環視の中。あろうことか校舎の屋上から飛び降りたらしいのよ、そのひと」
なんでもないことのように話すが、かなりの大事件である。
「投身自殺。いじめか」
「あ、死なないわよ。翼人だから」
「それもそうだった」
「……ともあれ、そのひとは謹慎処分、おまけにわたし達の代まで続く屋上閉鎖」
「自殺じゃなかったら、何なんだ?」
「内情までは知らないわよ。わたしが伝え聞いているのはこれだけ」
彼女の声が萎んでいく。同じく項垂れながら、彼女は俯きがちな、本来の猫背姿勢に戻った。
「この話のおかげで、翼人はなんか……取っ付きづらいな、って偏見ができてた。少なくともわたし、そういうことができる馬鹿は信じられないから」
気の抜けた鷹取さんがぼつりという。そんなことをいわれると、彼女が気取った話しかたをするのも他人を見下しているからかと勘ぐってしまう。たまに俺のこと蔑んだ眼で見てるしな。
籠に入れられた鳥は自分がどんなところに押し込められているか、知ることができない。たとえ飛ぶ能力があっても檻を飛び出すことは叶わない。それでも鳥は、籠の中で羽ばたくことをやめないだろう。
彼女のトレイには、ハンバーガーのセットが二つあった。よくもまあ、どいつもこいつも食欲が有り余っているものだ。
「何も変わらないのだわ」
「ま、一歩進めたようでなによりだ」
「そうね。そうなのよね」
鷹取さんのガス抜きが終わった頃合いを見計らったかのように、御藤さんが席へ戻って来た。
そのままの流れで、誰とはなしに荷物をまとめ始めて解散となる。それぞれの事態に決着が付いたわけではない。それでもどこか明るい兆しを、ここにいる三人全員が感じていたのではないか。俺は断言できた。
少なくとも、このときはまだ。
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