第2話
珍しく水曜日にも部活動をするハメになっても面倒な気持ちはない。ここまで待ち焦がれた気になるのは、まるで恋する女子中学生のようである。
しかし待つ相手が翼人ともなると、むしろ初恋の苦々しさは消え、ヒトが共通に持つ知識としての太古の香りが漂ってくる。
読んで字のごとく、翼人は羽の生えた人間である。背丈と同じぐらいの大きな羽を背中に生やしている以外は、俺や鷹取さんらと変わらない。羽はたいていシルクを思わせる白色で、
俺達地上人のよき隣人として、いまや翼人と地上人とが仲良く文明を築いている時代である。ここ笹越高等学校も、生徒の三分の一は翼人であった。全校朝礼なんかをすると白い羽根が光って眩しい。
校舎の陰にさえなっていなければ、たいていの教室からはとある山が見える。あれこそ翼人誕生の地。切り立つ崖がくっついてできたような、まるで剣山のごとき連なりは、なるほど翼がなければ生きることすら難しいだろう。
海抜六千キロメートルを誇る《
その施設も、昔は宗教的な意味合いはなく、むしろ境界としての役目を持っていたらしい。霊峰に住まうヒトの隣人……すなわち翼人との唯一の連絡橋なのだ。
隔絶されていたはずの両者がこうも短期間で混じり合ったのは、見た目が全く一緒だったとか生殖可能だったとか以上に、文化が似ていたことが大きいだろう。古くから細々とした交流があったとはいえ、恐ろしいばかりの偶然の一致であった。
それでも将棋とかいう文化にまで手を出す娘がいたとは、どこの誰が想像しただろう。
俺はてっきり、そういう物珍しさから昨日の一年生に手間をかけているのだと考えていた。なにせ鷹取さんと来たら昨日の歴史的大勝利を経て、勝って兜の緒を締めよとばかり定跡書を徹底的に
「このまま振り飛車党にでも転向するか」
「まさか」
短く否定し、彼女は難しい顔で本をなぞっていた。おそらく紙に印字された駒を動かしているのだろう。
弱小の部活にも偉大なるOG・OBが雀の涙程の部費で購入した定跡書はひと通り揃っている。最新版でないのが惜しいところだが、素人が勉強する分には不便ない。
で、まばらな会話をしながら、ずっと中飛車の定跡を確かめていたのであった。御藤さんとやらは、いちばん初めに飛車を中央に振った。ならばおそらく中飛車がとっつき易いだろうというお節介な理由からだ。
鷹取さんはそのあたり何か考えがあるらしいのだが、俺にはどうも読めなかった。時刻は放課後十七時。もし再びやって来るのであればそろそろか。外は相変わらずかしましい。しかし屋外に感じる人気は別の運動部であったりするので、当てにならなかった。
「……あの一年、本当に来るのか」
「来るわ。必ずね」
「すごい自信だな」
「女のカンよ。……将棋部部長的には、読みといったほうが格好いいわね。……読みですわ」
「いまさら格好つけなくていい」
あらそう、と呟いて手首の腕時計を見やる。教室にも壁掛け時計はあるのだが、もう癖として染み付いている感じだった。
「女慣れしてない倉田くんには読めないだろうけれど、翼人の女は勝ち負けにはすごい厳しいわ」
「女慣れしてないは余計だ。……でも、そういうもんなの?」
「そうよ。小学校のときから、運動会で目立つのは全員羽ありだったでしょう。勝負ごとを前にするとものすごく直線的なのよ、あの人達」
「……運動で強いのは、単にそういう種族だからじゃないか」
祖先が生きた環境が環境だけに、彼らは運動神経がずば抜けている。そこに男も女もなく、身体のつくりが違うことを幼い頃から示していた。俺からすれば、みな動いていないと死ぬ、とでも思い込んでいるようにしか感じられない。翼を活かした陸上競技はどこの学校でも大所帯だ。中学のときも、もちろん高校だって、地味な文化部に所属する翼人は皆無なのである。
ふいに思考が遮られた。そろそろ気配がする、と鷹取さんが耳打ちしたのだ。
俺達はなるべく平常どおりに活動しており、彼女を待ち受けるようなことはしない……というのが礼儀らしい。俺は全く関係のない詰将棋の本を読む手はずになっていた。
やがて、六問ぐらい解いた辺りで扉がノックされた。本から眼を離さないふりをして横目で入り口を盗み見る。すぐにそこは開け放たれた。
「たのもー!」
昨日と同じセリフ、同じ元気量の御藤さんだった。スポーティな短めの髪が早くも暴れている。本当に来るとは。
「いらっしゃい」
落ち着き払って、獲物を待っていた鷹取さんが歓迎する。と、彼女へ牙を剥き出す蛇のように、御藤さんはまたぞろ翼を広げた。まるで威圧だ。ぶわっと風圧がする。涼しい。
「ふっふっふ。昨日は不覚をとってしまったあたしですが、同じ徹は踏みませんよ! さあ勝負っ」
「そうね。こちらへどうぞ」
「お邪魔します!」
ずかずかと入っては平穏をかき乱す御藤さんに、俺は一抹の不安を覚えた。いっけん鷹取さんがペースを握っているように思われるが、とても御し切れているとはいえまい。せっかくの仕込みもこのままでは昨日と同様、回れ右で帰ってしまいそうである。
心中どぎまぎしながら彼女らを見守る。御藤さんは、自分が罠にかかっているとも気付かないまま、将棋駒を散らかして用意しようとしている。鷹取さんの陣地にまで手を伸ばし、ぱちぱちと並べてあげているのだから呆れる。無論、マナー違反だ。
相手に好き勝手させている間に何をしたのかといえば、鷹取さんはそそくさと机の下を探って一冊の本を出す。見覚えのある中飛車の定跡書である。ほらこれ、と昨日借りた傘を返すときのような気軽さで、御藤さんに手渡した。あまりにも自然だったので、差し出されたほうは手をすんなり止めて受け取ってしまった。
「なんですか?」
「戦術書。ゴキゲン中飛車っていうの。振り飛車よ」
「戦術、ゴキ……フリ……?」
「ゴキブリみたいにいわない」
まるではじめて聞く言葉のように眼をまん丸くさせる御藤さん。なんだか表情がころころ変わって幼さがあるとも感じた。幼さガールだ。鷹取さんはあごに手を当て、少し考え込むような仕草をすると、
「失礼だけど貴女、家に将棋の本は持っている?」
「ありませんけど」
「……なるほど。どうせ将棋のルールを覚えたのだから、強くなりたいわよね」
「そりゃもう」
「どうやれば強くなれると思う?」
「それはですね、あたしよりも強い奴に会いに行って、激しい戦いのなか身体で覚える感じで」
「ふむん、一理あるわ」
ないと思う。
果たして鷹取さんの眼は、まっすぐに御藤さんを見据えていた。
「でももっといい方法があるのよ」
「いい方法ですか」
「そう。火曜日と木曜日、ここへ来るといいわ」
彼女はそういいながら距離を詰め、御藤さんの手に小さく収まる本の冒頭数ページを開いた。どきりとするようなインファイトである。
「ここは将棋部よ。部室に来るのなら好きなだけ読ませてあげるし、戦ってもあげる。一緒に強くなりたくない?」
「うーん、でもあんまり座学って好きじゃないんですよねぇ」
と、鷹取さんは優しかった声を一変、厳しさを含ませた口調になる。
「私に勝ちたいんでしょう? だったら、闇雲に辻斬りを挑むなんて無意味もいいところよ。特に基本がなってないうちはね。貴女、見たところ将棋のセンスはなさそうだもの。そういう人間は、地道に励むしかないわ」
一気にまくし立てながら定跡書をさらにめくり、あるページに辿り着いた。鷹取さんのぷっくらとした手に隠されて御藤さんは気付かなかっただろうが、あらかじめ折り目を付けていた『ここでオトす』ページだったのだ。
「どう? 貴女が昨日見せた中飛車、本来はこう使うのよ」
中央に構えた飛車が一直線に睨みを効かせて相手陣を抑え込み、こちらは易々と馬作りに成功している。……という、いわば相手側が『受け損なった』場面の変化図であり、有り体にいえば『やらせ』の場面である。
が、いままでの話を聞く限り、御藤さんがそうした定跡書の《文法》に気付くはずもない。
「すっ、すごいですね。たしかにここで習えば、強くなれるかも……」
効果はてきめんで、御藤さんは昨日以上に眼を輝かせている。もはや自分で整えかけた現実の盤はどうでもいいようだった。
「そうなのよ。貴女、せっかく興味を持ってくれていて熱心なのに、もったいないわ」
「はいっ。実はあたしもそう思ってました!」
「あらあら、調子のいいことね」
ここまですっかり懐いた様子の彼女は、どこか昔うちで飼っていたインコを思わせる。餌を差し出された小鳥よろしく、御藤さんは手にした本を先頭から順番にめくっていく。腕を動かすのと同時に羽もひょこひょこと動くのだった。脇には鷹取さんがぴったりとついて指導役になっていた。
もちろん鷹取さんとて、決して上手な教えかたをしているとはいえないだろう。しかし定跡書が本である以上、活字は動かせない。印刷された棋譜を手元の盤で実践してみせるのは、上手とか下手とか以外の効果があった。
なにより『かろうじて駒の動かしかたは知っている』だけの御藤さんにとって、すぐさま質問できるのはどれ程恵まれていることか。俺は安心して手元の詰将棋に眼を落とす。恐ろしいのは、ここまで見事に部長の思惑どおりに進んでいることであった。
このひと将棋になるとどうして弱いんだろう。
*
授業がどうやら一段落したらしい。一章、もしくは二章ぐらいまで進めば上出来だろうと高をくくっていたのだが、御藤さんは存外に踏ん張ったらしく、半分近くまで進んでしまったようだ。速読すればいいというものではないが。
「まずは形を覚えることね。私より強くなれるんじゃないかしら」
「えっ、そうですか? いやあ困っちゃうなあ」
褒められて、嬉しそうに飛び跳ねる御藤さん。鼻の下伸びてるぞ。と、大げさに口に手を当て、彼女ははっとした顔をつくった。
「どうかしたの?」
鷹取さんが覗き込む。
「そういえば、あたし先輩お二人のお名前聞いてません。えっと、二年生なんですよね?」
俺と鷹取さんの間で視線を行ったり来たりさせたので、ふたりで交互に頷く。たしかに、ちゃんとした自己紹介はしていなかったかもしれん。
「倉田杏三だ」
「倉田先輩ですねっ」
「鷹取玲子。実は部長」
「で、こちらが鷹取部長様」
扱いが違い過ぎないか?
さて、とばかり御藤さんは胸を張る。同時に大きな翼をばさりと音を立て扇ぐ。視界が白に染まった。ふいにやられると、彼女自身に抱かれるような気分になる。
「ご存知、御藤之あすかです」
「ええ、よく知っているわ」
意にも介さないように、鷹取さんが軽くあしらう。彼女は断じて意地悪でやっているのではない。だがほとんどの人間はこんなつっけんどんな態度に腹を立てて背を向けてしまうものだ。
御藤さんはというと、違った。二人して意に介していなかった。
「明日もやってますよね、部活」
「ええ」
「じゃあこの本借りてもいいですか。えっいいんですか。ありがとうございます」
「まだ何もいってないわ」
「……貸してくれないんですか」
眼を鮮やかに輝かせ、拒否されるとは微塵も信じていないような調子である。鷹取さんは穏やかに続ける。
「ダメともいわないわよ。……いちおうは部活のもの、ひいては学校のものだから、借りパクだけはしないで頂戴ね」
「あはは、そこは疑わないでください。
下校のチャイムが、俺の吐いたため息に重なった。次いで、校舎に残る生徒をやんわりと急かすような、新世界よりのメロディが流れる。それを聞くといまのやりとりがなかったかのように、鷹取さんが髪を指先でくるくると丸めはじめる。
「貴女、家はどっち?」
「あっちです」
ぴん、と綺麗な爪がプールの方角へ伸びた。
「……なるほど、じゃあ、途中まで倉田くんと一緒ね」
くいと首をかしげ、意味ありげな視線を寄越して来た。これは困る。おまけに御藤さんまで次なる餌を見定めんと近寄って来た。
「……いいから、さっさと戸締りするぞ」
俺の発言が照れ隠しであったのは否定できない。隠しついでに持っていた詰将棋本を棚に戻すと、堪え切れない鷹取さんの忍び笑いがした。
追い出し用BGMが鳴っているだけあって、校舎のあちこちからはまるで冬眠から這い出す熊のような息遣いが響いている。俺達もその内の一頭だ。
二人で戸締りするのが習慣だったところへ、新たに御藤さんも流れで施錠を手伝ってくれた。早く済んでしまうと、教室が途端に狭く感じられる。そのまま三人で鍵を返してから校門まで下りる。
「それじゃあ、わたしはこの辺で」
「家、近いんですか」
「バスなのよ」
綺麗な翼が、停留所の前で立ち止まった鷹取さんを訝る。彼女は『もうすぐ来るから』とジェスチャーで指し示した。なるほどバスは少し先の信号に止まっていて、ほとんど待つまでもない。
バス派は意外と少数派で、大部分の生徒が徒歩か自転車だ。そこに混じり俺と御藤さんは微妙な距離を開けながら並んで歩く。束児(つかご)町特有のなだらかな起伏に富んだ通学路。背の高い木はほとんどなく、目立つのは側道にある緑混じりの垣根だ。その広い民家の庭で飼われている犬がひっきりなしに驚いている。さっさと犬小屋で寝ろといいたいが、夕闇に溶けかけてはいても空はまだまだ高い。
学校に翼人は大勢いる。下校中でも例外ではない。運動部がわいわい騒ぐにぎやかな中で、白い一対の若羽はどれも明るそうに揺れていた。
それにしても翼人は翼人、人間は人間と班分けされたように固まっている。あちらもこちらも……ああ、やはりそうだ。所属する部活の違いだな。俺達の間には見た目以上の垣根がある。自覚した途端、首筋を羽根で撫でられたような感触を覚えた。
隣にいる女の子が、急につまらなくなっているのではないかと思えて、俺は口を開いた。
「翼人って、空飛べるんだろう。それなのに歩いて帰るんだな」
「なにいってるんですかー。飛ぶのってかなり疲れるんですよ。重力に対して全力逃走する感じっていえば、わかります?」
だんまりは性に合わなかったのだろう、嬉しそうな憤慨である。俺があいまいに笑っていると、唇を尖らせ懸命な抗議が続く。
「鳥みたいに自由に飛べるわけじゃありませんからねっ。けっこう助走がいるんですよ。飛行機みたいに。それも全速力じゃ足りないぐらい。……あとあとっ、羽を精一杯広げないとダメなんです。当然障害物は大敵ですね。割りと幅とりますから。幸いこの辺りは高い建物はまばらですけど……って、聞いてます?」
「聞いてる、聞いてるよ」
正直、御藤さんは放っておくとずっとしゃべり続ける人間らしいので、放置しておくのがいちばん楽だった。唯一相槌のタイミングが難しい。
「平地に住んでると飛ぶ場面なんてほとんどありません」
「そうは思えんけどな」
「車があれば事足りるんです。先輩も町中を全速力で走ったりなんかしないでしょう」
「するときもある」
「だいたい飛行なんて、移動以外の目的ことがありませんよ。なら歩けばいいのです。あんなの飛ぶのに必死で、見晴らしどころじゃないですよ。しかもぱんつ丸見えだし。ヘンな目で見られちゃいますって」
「そっか」
「そうですっ」
「……でも、やっぱり飛べるってすごいよ」
俺の口調は、たぶんいささか能天気だった。後輩は呆れ顔である。
その後、御藤さんは四つ辻に差し掛かると、
「あたしは右に曲がるんですけど」
「俺はもうちょい直進だ」
「なら、ここまでですね」
御藤さんはにこりと笑っていう。
「さようなら先輩。明日もよろしくお願いしますね」
「ああ。おつかれ」
こんなもんだろう。雲間に射す夕日がいいかげん眩しい。俺は薄眼になりたい。別れてからそんな風に考えて少し歩くと、携帯にメールが届いた。
『そろそろ別れた? ちゃんと御藤さんのメールアドレスは聞き出しているだろうから、こちらにも転送してください』
鷹取さんからの催促である。絵文字が一切ない白黒の文面。……そして彼女は最後の最後で詰めが甘かった。俺をプレイボーイか何かだと思っていやがる。
『明日聞こう』
アドレスなんて次の機会に聞けばいいだろう。急ぎの用があるわけでなし、多少焦らしてしまっても不義理ではないのだから。
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