翼のある金将

@maetoki

第1話


 展開としては、俺達の面目が守られている方向なのである。最初に喧嘩を売ってきたのは相手方であり、それを正々堂々受け容れたうえで完膚なきまでに叩きのめしている。下手をすれば二度と立ち上がって来れないだろう。卑怯を恥じるようなことは一切ない。

 だというのに、この胸糞の悪さと来たらなんだ。

 見ず知らずの女子生徒は眼に雫を浮かべ、じっと歯を食いしばっている。まさに耐えがたきを耐えという感じだ。見る人が見れば劣情すら催すかもしれない。気の毒ではあるけれど、割りと自業自得ではあるので心から同情はしてやれなかった。……そんなセコい考えが頭に浮かぶから、余計にやりきれないのだ。

 全く、何がどうしてこうなってしまったのやら。

 俺はプラスチックの将棋盤から眼を離し、ふっと窓の外を眺める。


 将棋部は火曜と木曜を定期活動日として定めている。脈々と受け継がれてきたわが校将棋部の伝統であり、同時にこんな伝統を律儀に貫いているからこそ弱小のままだともいえる。実際、所属しているのは俺と部長の二人だけである。

 切磋琢磨が起こらない環境で勝負の腕が上がるわけがない。これまで俺が部活動で学んだ数少ない、たった一つといってもいい事実である。

 もっと多くの部員を集め、わいわいやりたいと思わないでもない。ただ二人とも勧誘活動が得意なタイプではなかった。

 それでも活動日にはとりあえず顔を出すだけ出す俺達は、かなり真面目であったと思う。熱心には程遠いが。

 いくら将棋が二人で対戦するボードゲームだとはいえ、部活動としては一人でもじゅうぶんなわけだ。巷にあふれる詰将棋を片っ端から解いていってもいいし、世に蔓延る変態戦法をシラミ潰しに研究してもいい。ネット将棋という便利なものも普及している。

 俺は熱心には程遠いタイプなので、部室にやって来るなり数学の課題を終わらせていた。

 先に来て鍵を開けていた部長は、窓際に座り何やらごそごそやっている。俺に背を向けたまま、

「来たのね、こんにちは」

 と挨拶を投げたきりだ。彼女、鷹取たかとり玲子れいこは生粋のネコ被りである。しっとりした黒髪と、まどろむような瞳が示すように掴みどころがわからない。ストレートヘアなのに濡れわかめのような人というのが第一印象。

 彼女が部室を選んだわけではないのだが、結果的に部室もまた他の部とは離れた場所に用意されていた。

 教室棟一階の一◯四臨時教室は、人どおりが少なく水場も近いせいでずい分陰湿とした空気である。何度も角を折れ曲がり太陽の光がようやく届く頃には、薄ぼんやりとした冷気になっている。

 夏場なら窓を解放していられるが、これからの季節……十月中旬ともなるとそろそろ寒さで厳しくなってくる。もっと活気に溢れていれば耐えられただろう。だが後期ともなれば新入生にも期待できない。

 二人きりの密度に僅かな喧騒が遠くから響く。いささか古い校舎だ。壁紙が少し、つまらなさそうに煤けている。ロマンチックの欠片もない。

 鷹取さんが前触れもなく口を開いた。

「7六歩」

 反射的に頭の中に駒が整然と並べられた将棋盤が浮かぶ。先手の角道を開く、初手でよく指される手である。彼女の独り言かと思われたのだが、その割には唯一の同室者である俺に対する挑戦のような含みがあった。

「…………5六歩」

「9六歩」

「――2六歩」

「2五歩」

「……ってなんで先手ばっかなんだよ!」

 イメージでは先手が時間を止めて殴りかかっているような図が描かれている。きっとこれは突っ込んだら負けの場面だ。負けてしまった。

 鷹取さんはようやく首をもたげて、細長い瞳をすうっと光らせ、

「これは一本取られたわね」

「そもそも俺、目隠し将棋なんてできないからな」

「安心して、わたしもよ」

 プロ棋士は脳内に将棋盤を持つという。俺だって空想の中、最初の局面から数手進めるぐらいはできるが、本格的に終局まで続けるという曲芸は無理であった。

 彼女も同じだという。いったい何のつもりかと、つかつかと歩み寄って手元をのぞく。三百十五円の折りたたみ式携帯将棋盤があった。せこい。

 しかしわざわざ、先の2五歩の場面まで進めているのは微笑ましいところである。

「まじめに研究でもしてるのかと期待してたらこれか」

「残念でした。これなら勝てると思ったんだけどね」

「卑怯な」

「暇してる部員がほかにいれば、ちゃんとそちらに声をかけたわよ」

「……課題しててすんませんでした」

「わかればよろしい。さて、倉田くんも立ってくれたことだし、まじめに活動開始といこうかしらね……」

 鈴が転がるような声を舌に乗せ、優雅に俺を誘ったときだった。

 突如部室のドアが猛烈にノックされた。こちらの返事も待たずにがらりと戸が引かれる。

「たのもー!」

 そんな威勢のいいかけ声とともに、女子生徒が入ってきたのである。

 いまどき『たのもー』はないだろう、といささか面食らってしまった。見ず知らずの女の子。制服の丈がいまいち合っておらず、いささか生意気に膨らんだ胸の校章を見るとなるほど一年生だった。

 同じくきょとんと鷹取さんをそっと見るに、どうも彼女とも面識のない生徒らしい。

「……迷子かしら、道場破りさん。格技場はグラウンド横よ」

「将棋部ってここですよねっ」

 たいそう元気に、そしてなりふり構わず質問を返す。鷹取さんは早々に白旗を上げたらしく、肩を落としておとなしくなった。

「ええそうよ」

「勝負だ部長!」

 ぱたぱたと慌ただしく駆け寄って、女子は俺達の中間地点で停まった。「……あのう、どっちが部長です?」

 彼女が歩みを止めたせいで僅かな隙が生まれる。俺と鷹取部長はとっさに目配せで会話しあった。

(まずいわ、将棋部狩りよ。実在したのね)

(どうするんだ? 部長は山篭り中だってことにしてお引取り願うか?)

(いいえ、わたしに考えがあるの。任せて頂戴)

 そうして彼女はさっと向き直ると、

「よかったわね貴女。こっちの倉田が、直々に相手になってくれるって」

 丁寧に俺を指さした。

「ちょ、ちょっと鷹取さん、部長はあんただろーが」

「あら、誤解があるようだわ。いままで黙っていたけど、わたしは名前だけ部長なの。雑務は全部倉田くんがやってくれていたでしょう。実質部長ってわけ。倉田くんこそホントの部長、いうなれば本部長ね。よっ本部長、頭が高い」

「このタイミングで押し付けるなよっ」

「いやいやほんといい機会だわ」

 しれっといい放つ鷹取さんに閉口していると、これまた気まずそうに一年生が切り出す。

「どっちでもいいんで、はじめません?」

 と、眼を落として、ややわざとらしげに、「あらちょうど駒が揃ってる!」

 しまった、という顔を隠そうともせず、鷹取さんがアンニュイな面持ちになった。『こんなことならまじめに棋譜でも再現しておけばよかったわ』とばかりに俺の脇腹をつっつく。それなら対局中だからオヒキトリクダサイ、といいわけが立ったろうに。

「さあほら部長。どっちが部長かわからないけど、とにかく部長。これ以上は無駄ですよ。ちゃっちゃとはじめましょう」

 勧めてもいないのに着席し、すいすいと歩を戻しながら促す一年生。厚顔無恥ですらある態度に俺はふと違和感を覚えた。見開かれた大きな緋色の瞳がまるで現実感を失っている。楽しい夢に浮かされている眼だ。

 鷹取部長はといえば促されるがまま反対側に座っていた。……すました態度のくせに、頼られればすごく面倒見がいいという面倒な人物である。本部長の話は何だったんだ。


 ところで俺達は将棋部ではあるが、冠に「弱小」がつくのだ。ひとことでいうと、弱い。鷹取さんも部長を務めてはいるが、それは単純に在籍期間的な問題。将棋の実力、つまり棋力は大したことがない。かくいう俺だってどんぐりの背比べだ。

 部活破りを受けて立ったはよいものの、期待はずれと怒って帰らせてしまう可能性は十二分にあった。俺が一年生を煩わしげに感じたのはそのせいだ。

 鷹取さんの手はむしろ悟ったように、落ち着いて振り駒をする。

「……どうぞ」

 と金が三枚という結果を見て、彼女は手番を譲った。感心するぐらいの諦観ぷりである。不思議とこちらも落ち着いてきて、そういえば将棋用の対局時計を引っ張り出すべきだったかなと悔やんだ。準備する間もなかった。

「よーし」

 一年生はそういいつつ、ノータイムで自陣の飛車に手をかけると、左に三マス動かした。王将の目の前、中飛車に振ったのだ。さっそく鷹取さんの眉間がぴくりと寄る。普段使っていない戦法の相手は避けたいのだろう。

 後から思えば、この時点でイヤな匂いは漂っていたのである。

 続く鷹取さんが△2四歩と突くと、即座に▲4八銀が返って来た。

「貴女、歩は突かなくていいの?」

 挑発や盤外戦術ではなく、純粋に疑問そうに尋ねる。俺だって怪訝な表情をしていたはずだ。一年生の娘は駒の動きを間違えたわけではないし、そのまま中央突破を目指す奇襲を狙っているのであれば、決して軽んじることはできない手ですらある。

 しかし妙だった。彼女から出る空気がおかしい。

「ふっふーん。まずは囲いなんですよ」

「……そう。ならいいのだけれど

 そういいながら、先程突いた2四の歩をさらに2五まで伸ばした。

「先輩は歩が好きなようですねっ」

 一年生は嬉々として、自陣のもう片方の銀を動かし、ある囲いを完成させた。その名も《無敵囲い》。

「どうだ、これこそあたしが発見した最強の戦法!」

 これで勝ったとばかりに顔を輝かせる一年生とは対照的に、はあ、と嘆息した鷹取さんは三度同じ歩を前に進めた。このとき俺はたしかに目撃している。鷹取さんの瞳が、獲物を狙う猛禽類のようにしたたかで、ぎらぎらと輝いていたことを。

 その後どうなったかといえば……、


 ――全く、何がどうしてこうなってしまったのやら。

 俺は視線を再び戦場に戻す。

 一年生が早々に完成させた陣形無敵囲いであるが、その名前は皮肉として付けられたものである。攻め駒である飛車が自分の陣地で引き篭もり、王を守るべき駒は一見身を挺し庇(かば)っているように見えて、その実役割を放棄しているだとか、デメリットだけでもざっと一二三三ぐらいはあるだろう。将棋覚えたての頃によくやるやつだ。

 挑戦状を叩き付けて来た威勢は買うが、そう、彼女はずぶの素人であった。

 ともあれ最初は勢いのよかった一年生も竜頭蛇尾の字のごとく、めっきり顔が曇ってしまっていた。

 くせなのだろう。何度も頭をかきむしるので、元から柔らかい質感だった金髪がいっそう散らかっている。もし万が一泣き出されたら厄介だ。盤上がざわついている。

「えっ、金打ち? じゃあ同じく銀で……」

「すると龍の利きで王が取られちゃうわね」

「あれ……でもあたし、動かす駒ないんですけど」

 見るに堪えなかった俺はついに声をかける。

「負けてるよ、きみ」

 さとすための声だったはずなのだが、彼女はやにわに立ち上がった。「うそーん!」

「いまどき『うそーん』はないでしょうよ」

 鷹取さんは追い打ちまでも忘れない。

 女子生徒はまるで聞き入れず、びしりと自分の顔に向かって親指を立てた。

「ううん残念! そしてあたしの名前は御藤みとう之あすか! 覚えた? 覚えましたね。……くそう、覚えてなさい将棋部。明日もう一回来ますからっ」

 勢いそのままに、女子生徒……ええと、ミトウさん? は捨て台詞を吐いて部室を出て行った。

 流石の鷹取さんですらぽかんとして、もちろん二人とも後なんて追えなかった。残っているのは、暴虐の爪痕が荒々しく残る将棋盤だけである。

 ぽつりと、鷹取さんが呟いた。

「翼人って、みんなこんななの?」

 うんざりした様子で、椅子に抜け落ちた羽根を丁寧に拾う。灯りに透かすと、精緻せいちな雪細工を思わせた。

「倉田くん、わるいけど研究付き合って。これは部長命令よ」

 俺はほとんど惚けてしまっていた。いまでもなお、御藤さんの姿が眼に焼き付いている。勝ち気に瞳を炯々けいけいと光らせ、身丈の倍はある立派な白い翼を宙空に向かって広げた勇姿。凛とした細い指先。いろんな意味で俺には無関係かと思われたものだった。


 この世界には将棋がある。

 そして、この世界には翼人がいる。

「……部長命令なら、仕方ないな」

 鷹取さんはおっとりと眼を細め肩を揺らす。彼女だってあの愉快な闖入者ちんにゅうしゃのことが忘れられないらしい。


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