エピローグ

 春香さんと並んで歩く帰り路。藤森が送って行こうかと声を掛けてくれたが、せっかくだからと自分の脚で辿る事にした。

 既に夕日は地平線の向こうにその姿を殆ど隠し、僅かに揺らめいている。

 変わらないな。どこよりも豆腐が安くてお世話になったあのスーパーも、春香さんと繋がりを作るために必死になったあの本屋も、僕がフォーカスを飾ったあの交差点でさえ。

 

 晴香ちゃんも香奈ちゃんも良かったね、とひとしきり喜びを共有した後、それにしても、と春香さんが呟いた。

「香奈ちゃん、悠太さんと良く似てますね。さすが伯父さん」

「そんなに似てたかな」

「そっくりですよ。口元とかね。笑った時にできるえくぼとか、ちらりと見える八重歯とか。あれは異性に対して大きな武器になりますね」


「そんなもんかな」

 小さくはにかむと、細い指が僕の頬をなぞる。ほら、今も、と。

 一陣の風が吹き、艶のある春香さんの髪が風に靡く。

「そう考えると、うちの香織は春香さんそっくりだね。僕の要素が無いくらい。あれは正真正銘の正統派美少女になるよ」

 今度は春香さんが顔を赤くした。体型はだいぶ変っちゃいましたけど……と小さく笑いながら。僕が学校でももう何人もファンがいるらしいよ、特に給食の食べっぷりとかと言うと、小さな声で私には一人しかいなかったですけどねと悪戯っぽく笑った。

 その様子がたまらなく愛おしくて

「ホントは、僕の子じゃないとか」

 ほんの冗談で言ったその一言。ただ春香さんの困った表情が見たかった。そんなわけ無いですよ、その一言で終わるはずの悪戯。


 一瞬だけ、彼女の表情が強張った気がした。まるで彼女には全く別の言葉に聞こえていたかのように。

「そんなわけ無いですよ」

 少し間を開けて笑う彼女。言葉とは裏腹にその目は、僕を映そうとはしなかった。急に彼女との間に溝ができたような気がした。

 もし、もしもの話だが、今のが自然な反応であるならば、それが何を意味しているのか、わからないほど愚かでは無い。

 しかし、と同時に思う。夫の特徴が出ないほど薄い人間、もしくは彼女に似た男など、この世にいるはずが……。

 

 それを打ち消すように脳裏に浮かんだ一人の男。彼はあの時、男ができれば諦めが付く『かもしれない』と言っていたが。

 

 まさか……な。



 隣の春香さんは長い睫毛に涙を蓄え、今にも泣きそうな顔をしていた。初めて名を聞いた、あの時のような。

 本来なら今この場で怒りを露わに問い詰めるべきなのかもしれないが、自分の説の至った馬鹿馬鹿しさ、そして何よりも懐かしい彼女に会えた気がして自然に笑みが漏れた。

 あの時もだけど、甘いのかな、僕は。

「うそうそ、冗談だよ。帰ろう、香織が待ってる」

「何も、聞かないのですか」

 潤んだその目が、震えを痛いくらいに隠そうとした声が、僕に訴える。

「香織は僕と春香さんの子だよ」

 やっぱり春香さん、あなたは僕にとっては「遥か」な人だったのかもしれない。だけどあなたは本当に、春の香りのように暖かくて、希望があって、そこにいるだけで毎日を楽しくしてくれるような女性。この予感に間違いは無かったし、これからもそう思えるだろう。

 あの時、目を覚ました僕に涙を流してくれたあなた。あの涙に嘘は無いのだろう。

 それなら僕はいつもの桜並木を駆け上がるだけだ。あなたの手を引いて。


 手をつなぎ、見なれたはずの懐かしい景色を歩く。流れる桜はまだ蕾すら付いておらずか細い枝を見せるのみだが、それさえも素直に美しいと思えた。彼女の眼にはどう映っているだろうか。


「優しすぎますよ」

 ふいに隣からそう呟く声が聞こえた。綺麗な瞳が僕を見るがその目はもう濡れていなかった。

「本当にお人よしなんですから」

 その声に震えや迷いは感じられず、僅かに嬉しそうな気さえした。

「嫉妬します。あなたの心にも体にも一生残るなんて」


 その瞬間僕は思い出した。女は女優だと。


 か細い指から伝わる、僕の手を握る力が強くなる。そのまま指が絡まり、脈打つ温もりの柔らかさと、薬指から伝わる永遠を誓い合った堅さを感じた。それと同時に春の香りがふわりと漂った。

 それが周囲の桜の木からか、隣のあなたからなのか、僕にはわからなかった。



 ただ一つ、確実なこと。

 

 春はこれからやってくる。

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はるかな、彼女 @karaagebone

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