ep.21 はる、かな、彼女

「おお、さぬっきー久しぶり」



 聞こえたのは、もはや記憶の彼方のその響き。最近では慣れない響きに少し戸惑ったが


「藤森も元気そうでなにより」

 その声の主に向かいそう投げつける。目の前にいるのは大学時代の友人の藤森と、その娘の香奈ちゃん。

 懐かしいはずの呼び名に狼狽したのは、丁度彼が結婚してから以後十ニ年間、もういい大人だからな、と僕の事を香川と呼ぶようになっていたから。今日再び大学時代の呼び名に戻したのは一体どんな風の吹きまわしだろう。

 また、正確に言えば藤森とは『大学時代の友人』で終わらせるには生ぬるい因縁があるのだが、僕ももういい大人だ。香奈ちゃんもいる事だしと、この場は諌め少女に視線を移す。


「香奈ちゃんもこんにちは」

「悠太おじさん、こんにちは。この前の番組見ましたよ」

「ありがとう。でも五分も映って無かったでしょ。本当はもっと色々やったんだけどね」

 まだセーラー服も着馴れていないような幼さの残る少女だが、親とは違い礼儀正しく頭を下げる。彼女は美少女とは言わないものの愛嬌があり、見るものを笑顔にする不思議な魅力がある。将来は良い母親になれるだろう。

「それでもおじさんの魅力は伝わったと思いますよ。でもやっぱり、おじさんのマジックは生で見てこそですね」

「そうだぜ、さぬっきーのは地味だし迫力ないからテレビの絵的には弱いぜ」

「まあ実際地味だからね」

 相変わらずの憎まれ口に精一杯の抵抗を込めて応える。その後僕が香奈ちゃんと二、三会話をしているうちに、藤森はもう興味の対象を変えたのか、僕の隣の女性を舐めるように見ながら軽口を叩いた。


「それにしても相変わらずお綺麗ですね」

 このチャラい性格は死ぬまで変わらないのだろう。

「もう美しすぎるマジシャンアシスタントはやらないんですか?」

「もう、煽てても何も出ないですよ。それにそれは10年も前の話ですし」

 女性は目をふにゃりと曲げ、はにかみながら微笑んだ。

「何を言ってるんですか、俺は本気ですよ。どこの女優さんかと思いましたもん」

 彼は今にも彼女の手を握らんばかりにずいと前に出る。彼女の目が泳ぎ、ふいに目が合う。そのままこちらを凝視しているのがわかる。そこまで露骨に助けを求められたのでは、いくら僕でももうこれ以上は看過できない。

 わざとらしく足音を立て、すう、と息を吸い込む……が。

「もう、お母さんに言い付けるからね」

 それより早く肩のあたりから聞こえたその声。紛れも無くこの場にいる最も幼い彼女から発せられたものであったのは疑いようも無い事実。だがその貫禄は、彼の行きすぎたスキンシップを止めるのに充分だった。

「ああ、それは勘弁して」

 そう言って曇り顔になり、頭の上で手を合わせる藤森。その豹変ぶりは呆れるほど鮮やかだった。僕は小さな女傑と目を合わせくすりと笑った。



「二五三二室 藤森 様。おお、ここだ」

 光沢のある床を進んでいた先頭の藤森がそう言って足を止め、三回ノックをする。少し遅れて女性の声でどうぞと返ってきた。静かにドアを開け、それに続くように香奈ちゃん、僕、そして、という順番で入室する。

 シンプルな個室にはベッドに横たわる小柄な女性がいた。枕元には今まで戯んでいたのか、久方ぶりに目にしたけん玉が置かれている。


「具合はどう、はるかちゃん」

 藤森がそう声を掛けるが、僕は思わずはるかちゃん? と声に出し、隣の女性と顔を見あわせる。

「ああ、その日最初の挨拶だけははるかちゃんって呼んでほしいって」

 藤森が頭を掻きながら、控えめにそう言う。

「えっ、そんなことしてるんだ」

「うるさいわね、関係無いでしょ」

 照れたような呆れたような声が彼からではなく布団から飛んできた。その声色に僕はまず安心した。直後に自分に知らない二人だけの秘密がある事に、少し落胆した。その機微を察したのか香奈ちゃんが耳元で小さく教えてくれた。

「出会ったころの気持ちを大切にしたいんだそうです」

 と。それが聞こえていたのか、ベッドの女性は少し赤くなった顔で

「自分だって、小さい頃私のことはるかって言ってたじゃない」

 そう言うと布団の端で口まで覆った。まあね、と言うと強気なほらね。なにがほらねだ。

 僕に溜飲を下げさせて気が治まったのか、女性は上半身だけを起こしてこちらを見やる。記憶の中の見なれている姿よりも少し頬がこけてはいるが、それでも最後に会った時よりは血色もずいぶん良い。これなら青い病衣の袖口から伸びている点滴の管も近々外れるだろう。


「いつこっちに帰ってきたの?」

 その問いに昨日だよと答える。それよりも、と僕は彼女の最もそばに立っている幼い少女に目線を向けた。この場の誰よりも彼女に会いたがったであろう……。

「香奈、元気にしてた?」

僕が促すよりも早く、ベッドの女性はそう声を掛けていた。猫撫で声ともまた違う、優しい声。僕が香奈ちゃんに目をやった一瞬のうちに、母親の顔になっていたのは見事と言うほかない。

「してたよ、毎日私がご飯作ってるんだよ。お父さんにも、お母さんに似てきたなって言ってもらえたよ」

「それはえらかったね」

 小さな頭を優しく撫でる。そのまま流れるように女性が小さな体を包み込む。少女は顔をうずめ身を任せた。小さな病室に鼻をすする音が響く。その光景は本来、母と娘にあるべき姿。だれもこの神聖な刻を侵してはならない。いつもは気丈に振舞ってはいるものの年相応の女の子だ。

 僕は一歩下がってその光景を見つめていた。瞳に汗を浮かべた隣の女性のその表情もまた、母親だった。

 室内が空調の音だけで包まれた頃、お互いの体がゆっくりと離れる。そこで僕達が見たのは明るく大人びた香奈ちゃんだった。



「お久しぶりです春香さん」


 そしてそう言うベッドの彼女の顔も、母親の顔から一変して友人に接する女性の顔だった。つくづく思う、女は女優だと。

「晴香(せいか)ちゃんもお久しぶりです」

 先程から僕の隣に立っている女性、春香さんが会釈をする。幼いころから兄じゃなくて姉が欲しかったと嘆いていた晴香は、念願のその姉にすぐに懐いた。もっとも結婚そして出産は彼女自身の方が早かったため、娘が先でその後の姉という順だったのだが。

 何にしても大切な人同士が仲良くしてくれるのは喜ばしいものだ。


「うちの兄がいろいろとご迷惑をおかけして」

「いえいえ、とんでもないです。私の方こそ大切なお兄さんを奪ってしまって」

「何を言っているんですか、こんな兄を引き取ってくださってありがとうとただただ頭を下げたいのはこちらですよ」

 そして二人が顔を合わせれば必ず始まる、もはや挨拶と化したこのやりとり。普段なら割って入るところだが、今はこれだけ軽口を聞けるまで快復したことを素直に喜ぶべきだろう。

 あらかた近況報告と言う名の僕の悪口に花を咲かせた後、思い出したように女性が自嘲気味に言う。

「まさか兄妹で同じ病院に入院するはめになるとはね」

「笑い事じゃないさ、僕の場合はもう五センチ上だったら死んでいたらしいから」

 その場にいた香奈ちゃん以外の全員が、神妙な顔つきで頷いた。そうか、あれは香奈ちゃんが生まれる前だったか。

「あの時は本当に心配したんですから」

「そうだよ、お兄ちゃん命に別条は無いってわかってからも三日くらいは、殆ど意識が無かったじゃん。皆で行っても全然起きてくれないし」

 春香さんや妹はもちろん、藤森を始めとする友人も何度も来てくれていたらしい。僕には一切の記憶が無い事が悔やまれる。今でも時折疼く傷口が無ければ、俄かには信じられなかっただろう。

 その流れで藤森が口を開く。あくまで流れであって、悪気があった訳でも他意があった訳でもない事は容易にわかった。だが、藤森が口にしたのはあまりに残酷で、必死に忘れようとした事実。

「だけど良かったよな。さぬっきーはこうして快復したし。ただ犯人はそのまま逃走中にトラック……」


 気が付けば、やめろと怒鳴っていた。悪いと俯く藤森や、怯えた表情の女性たちを目にし、僕も我に返った。

 もちろん彼女がしたことは許される行為ではない。どれだけの人を悲しませ、涙を流させたのか。それでも今も思うのだ。彼女は初めて僕に好きだと言ってくれた女性。もしあそこで僕が彼女の気持ちに応えていれば、それなりに幸せな未来もあったのかもしれない。

苦い思い出になっただけかもしれないが、少なくとも人づてに聞いたような結末を彼女が迎える事は無かった。

「彼女は良くも悪くも、僕達の人生に転機をくれた。それに少なくとも業務上の彼女は尊敬できる良い人だった。だから彼女の最期を因果応報みたいに言わないで欲しい。わかってくれ、藤森」

 藤森は転機、そうだなと呟いた。直後に一転、何かを閃いたような顔になった。

「そうか、あれはさぬっきーだったんだな」

「あれって?」

 話の流れから藤森の言わんとする事は理解できたがあえてそう答えた。ただの自己満足だから。

「普通なら出来ないよな。なんか、さぬっきーに惚れたのもわかる気がするよ」

 誰に聞かせるでもなく藤森はしみじみとそう呟く。口を開けば皮肉や文句ばかりのこの男にそう言われるのはこそばゆい。即座に視線を逸らす。


「あの時は丁度ばあちゃんの葬式と重なってたんだよな」

 たしか、と前置きをしてベットの女性に振る。出来る限り明るく。

「そうそう、だからお兄ちゃんはおばあちゃんのお葬式に出られなかったんだよね」

 晴香は少し戸惑った後、そう答えた。

「あの時はおばあちゃんとお兄ちゃんって辛い事が立て続けにあったから精神的にもまいっちゃったね」

 懐かしい記憶を手繰る。そうだ、記憶と言えばもう一つ。今思い返すだけでも……。

「そんな時、僕がいない間にまさか、ねぇ」

 部屋中に嫌味っぽくに投げつけたその言葉に、狭い病室の中で二名の肩がピクリとした。心なしか小さくなって俯いているその二人を交互に見る。誰に向けた発言なのかを理解したのか、香奈ちゃんだけが目を輝かせてこちらを見ている。その純粋な目を前にして「病院はお見合い会場じゃないんだぞと一喝した話」や、「君のお父さんとは長く友人だけど、退院後に最初にした事が彼を殴ることだった」など誰が言えるだろうか。


「まあ何にしても晴香を幸せにしてくれよ」

 咳払いを一つし、芝居がかった口調でそう言うと、もちろんですよお義兄(にい)さん、と大げさに藤森が答える。部屋に明るい笑いが広がった。

 その笑い声が収まった頃、

「そういえば広瀬が休学したのもその頃だったな」

 藤森がしみじみと呟いた。懐かしいその名前。

「そうだね」

丁度僕が退院した頃に地元に戻るからと大学を辞めてしまった。それ以来会っていないが、数年前に彼が由里ちゃんとは別の女性と結婚したと教えてくれたのは義弟だった。

元気でやっているといいが。


「それはそうと、どうなんだ晴香。体の具合は」

 藤森が発したその一言。それを皮切りにそれまで笑みを浮かべていた晴香から一切の笑いの余韻が消えた。鼻の頭に手を添え、唇を噛みしめている。

本来病院にありふれた静けさと悲壮感が、今この場に甦ったのを感じた。正確には隠れていただけで、常にここにあったと言った方が正しいのかもしれない。

「おい、晴香。どうしたんだ」

「お母さん」

 藤森と香奈ちゃんが詰め寄る。春香さんもその口元を覆う指先が少し震えている。

 

 だが僕は知っている。

 昔から変わらない懐かしさに、ふと口の端が緩む。もし周りの彼らに見られていたら、人の不幸を喜ぶ不謹慎な男に見えただろう。だが僕だけは知っている。鼻に指を二本添える癖は、彼女が笑いをこらえている時。

「来週末には退院できまーす」

 蜂の巣を突いた様に驚き喜ぶ彼女たちを尻目に、僕は変わらないなとだけ言った。



 もちろんその吉報に、世界で三番目に入るほど僕は喜んでいる。

 


 何と言っても僕にとって彼女は、晴香は、血を分けた大切な妹(ひと)なのだから。

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