ep.19 あとの祀り

「今日は悪かったね」

「気にしないで。香川と何があったかは知らないけれど、香川はいい奴だから。あっちにも藤森がフォローしてるはずだからさ、もう一度話し合ってみなよ」


 鉛色の雲の切れ間から微かに漏れる、西からの赤い光が街に影を落とす。通常なら丁度帰路に着く学生で賑わうこの時間。通常なら。

 

 霧沢と広瀬がその異変に気が付いたのは、既に救急車が走り去り、警察が立ちまわる頃だった。周囲の窓や看板に反射するパドランプの光が、この場所が日常と一線を画すのだという演出をしている。

 残る者も日常とはまた異質。興奮した様子で騒ぐ野次馬と、その話に興味深そうに耳を傾ける、祭りに参加し損ねた者達。

 心なしか、ビルを挟んだ向こう側でもここと同等かそれ以上の混乱の様子が木霊している。

 

 耳をそばだてると断片的に聞こえてくる

「何? 事故?」「男の子が刺されたらしい」「やべえアップしなきゃ」「殺人?」「犯人見たよ。あそこのコンビニの」「ぐちゃぐちゃだって」

 その異様な熱気と物騒な言葉と、黒集りの間から見えるアスファルトに残る染みが無ければ、二人ともたちの悪い冗談だと思っただろう。

 霧沢はすぐ隣にいたスーツ姿の年配男性に声を掛けた。

「何があったんですか」

「私も途中から来たから詳しくは知らないが、大学生が刺されたらしい」

白髪交じりのオールバックのその男は、その身なりと同じくこの喧騒にあって落ち着いているように見えた。

「刺されたって」

 目と耳からの予備情報である程度は予想が付いていたようで、そう答える霧沢にそれほど驚きの色は無い。顔をしかめたのはぷんと整髪料の香りが鼻についたからだ。男の言葉を繰り返したのも焦りからではなく、状況確認の意味合いが強いのだろう。


「包丁のようなもので腹部を刺されたそうだ。さっき病院に運ばれたようだが」

 そう言って救急車が消えていったと思われる方角に目をやる。だが、どうやらそれだけではないようだ。

「犯人が駅方面に逃げていった様だが、あちらでも何かあったらしい」

「もしかしてまた別の被害者が?」

「そこまではわからん」

 呆れたような目で二人を見る。


「怖いですね」

 霧沢がそう言うと男は少し眉をしかめた後、鼻で笑った。

「私はそれよりもこの群集の方が怖いよ」


 霧沢が広瀬を見る。広瀬もさあと首を傾げると、男の表情が一層険しくなる。例えるなら老人がこの国の行く末を憂う時のそれ。

「ほとんどの者が倒れている男性にカメラを向けたようだ。今だってそうだ」

 男が顎で指した方を見ると、その言の通り学生らしい集団が身をいっぱいに乗り出してアスファルトの染みを夢中で撮影している。薄ら悪い笑みを浮かべて。二人がそれを確認すると、男はただでさえ皺の多い眉間にさらに皺を寄せる。

「彼らにとっちゃあこの惨劇も良いネタでしか無いんだろうな。学友が刺されたかも知れんというのに。想像力の欠如もはなはだしい。まぁそう言ってここにいる私も同じ穴の狢なのかもな」

 そう男は自嘲気味に吐き捨てた。ふっと雨の臭いが立ち込めた。



 未だ熱を持ち続ける群衆から離れた所で、広瀬が呟いた。

「大学生風の男らしいね」

 どこへ行こうと相談した訳では無いのに、その足の向く方向は同じだった。

「そう言ってたね」

 霧沢はちらりとも広瀬を見ずにそう答える。

「うちの大学のやつかな」

 やはり霧沢はそちらを見もせずそうかもねと相槌を打つ。

「うちの学部のやつかな」

「そうかもね」

「うちの学科のやつかな」

「広瀬は想像力豊かだな」

「香川って確かこの近くだよね」

「そういえばそうだね」

 さも今まで気が付かなかったという体でそう言うがそれ以上は何も言わない。代わりにその足音の感覚が狭くなる。

 物哀しい痩せ細った桜並木を抜け、二人が辿り着いた一軒の古いアパート。吹きさらしの錆びた階段を軋ませその二階へと上がる。霧沢の人差し指が躊躇することなく備え付けのインターフォンにかかる。ピンという音のあと少し溜めてポーンという音が部屋の中で響いたのが聞こえた。が、一切の反応が無い。 


 人差し指が再び動く。

「出かけてるんだよ。バイトかもしれない」

 消え入りそうな声で広瀬がそう呟くのと、霧沢がその薄いドアを拳で叩いたのはほぼ同時だった。


「香川、いるんだろう」


 拳を振りおろすたびに、鈍い悲鳴を上げアルミ形材のドアが僅かにへこむ。

「もうやめろよ」

 無数の手跡が付いた頃、より強くという意思を持ったその腕を広瀬の左手が掴んだ。霧沢が息を荒げその腕を振り払う。

「香川に電話したらいいじゃないか」

 その悲痛な提案にああ、そうだなと力無く吐いた。色落ちしたジーンズのポケットからスマートフォンを取り出す。耳に強く当てながら目の前の手跡を睨みつける。


 数十秒の沈黙の後、霧沢がその右手を下ろした。苦虫を噛み潰したようなその表情が何を言わんとしているのかは広瀬にも理解できた。小さく舌打ちをすると、別の当てを思い出したのかすぐにまたスマートフォンを掲げた。

「ああ、もしもし俺だけど……うん、詳しく聞きたいけどそれはまたあとで。姉ちゃんいまどこ? 家……じゃあもう香川と一緒にいないんだよね。……それで香川とはいつ別れた? ああ、別れたってそう言う意味じゃないから……うん、そう。わかった。……いや、何でも無い。また連絡するから……じゃあ」

 通話が切れると再び舌打ちをした。霧沢の断片的な応答と漏れ聞こえた惚気た女性の声から、広瀬も収穫が無い事を察した。


「一体、どこで何してんだよ」

 その言葉と共にドアの前に座り込む。広瀬は何も言わずにただその光景を見つめていた。何分経っただろうか、先程の二人と同じようにトントンという鈍い音が近づいてくるのがわかった。二人の視線が階段に集まる。

 ドラムロールの如き音と共に登ってきたのは眼鏡を掛けたジャージ姿の大学生だった。左手からは白ネギの付き出たスーパーの袋を提げている。見当外れの見知らぬ男に広瀬は軽く会釈をした。彼は見た事の無い男性二人を訝しげに睨むと、すぐ隣の部屋に入って行った。直後に錠を落とす音が聞こえた。


「香川、ホントに何してんだよ」

 空と同じ様に今にも泣きだしそうな声で広瀬がそう言った時、霧沢はポケットの中で必死に悶える端末の存在を感じた。

「姉ちゃん」

 小さくそう言うとすぐにそれを耳元に当てる。もしもし、と受話器の向こうに投げかける。直後、その目が大きく見開かれたのを見て広瀬も駆け寄ってくる。


「落ち着いて……落ち着けって……。……家にいるんだね。……わかったすぐ行く……行くから待ってろ……絶対に動かないで……」


 広瀬にも電話の相手が取り乱して泣いているのがわかった。纏わりつく空気が重く冷たくなる。

「広瀬、付いてきて」

 えっ、えっ、とうろたえる彼にはやく、と霧沢が怒鳴る。その表情は青白く、二月の日暮れだというのにその額には汗がにじんでいた。



 二キロ程の行程で霧沢は一度も立ち止まらなかった。たとえ信号が赤であっても平気で横切ったし、狭い歩道を横並びのカップルが塞ごうものなら、それを突き飛ばさん勢いで割り入った。もちろん広瀬は彼が普段は決してそんな事をする男では無い事は理解していた。知っていたが故に、今彼が知っている事態の重大さも察しが付いた。

 滅茶苦茶な呼吸をした霧沢が三○一号室のドアを一心不乱に叩いた。その鬼気迫る顔貌はこの場に遭遇した人物に強盗かと早合点しかねないほどだった。

 ゆっくりとドアが開く。

 

 そこには霧沢と同様、さもすればそれ以上に呼吸の乱れた女性が立っていた。その女性はとてもデート後とは思えないほど肩を大きく震わせ、眼からの雫によりメイクが流れている。よく見ると靴も履かずストッキングのままで降りてきているのがその異常さを、さらに引き立てている。

 霧沢と女性の目が合った。途端、女性は崩れるようにしゃがみこむ。


「どうして……」


 女性は泣きじゃくる中それだけ言った。いや、それしか言えなかったと言った方が正しいだろう。だが、それだけでもう充分だった。霧沢はその姉を強く抱きしめると

「とにかく車に乗って。広瀬も」

 叫ぶようにそう言った。階段の下では丁度息を弾ませて、広瀬が駆けこんで来るところだった。


 ぽつぽつと降り出した雨は瞬く間に地面を貫く土砂降りになった。




「それで、香川は?」「伏見沢霊園の……」「眠ってるんだな」




 痛ましい事件から五日経過した土曜日。しかしあの日からほとんど降り続いている雨でさえ、その記憶を洗い流す事は無い。この日連れ立って歩くのは四つの傘。黒や紺色に混じって一つだけ白い水玉の傘が目を引き、一人が女性であることがわかる。

 集まったのは香川と親しいメンバー。霧沢と広瀬と藤森、そして香川ともっとも近しい間柄の彼女。まるで示し合わせてきたかのように、皆一様に暗い服に身を包んでいる。


「せっかく皆がこうして集まってくれたのに」

 近くの駐車場まで戻ってくると、霧沢の隣のその女性が震える声で小さく呟き、その口元をハンカチで覆った。誰も何も言えずに顔を伏せた。しばらくは雨音に混じるしゃくりあげる音だけが聞こえた。


「今日は皆さん、ありがとうございました」

 少し落ち着いたのか、彼女は目を赤く腫らしそう言う。周りの男たちもそれに合わせて会釈をする。かなり無理をしながらも気丈に振舞おうとしている事は誰の目にも容易に想像できた。

 俺が駅まで送っていくから、と見かねた藤森が彼女の肩を支える。すみませんと項垂れると、深々と一礼し藤森と共に雨の街に消えていった。


「ねえ、どう思う」


 二人の影すら見えなくなった頃、ふいに広瀬が問いかける。当然だけど辛そうだな、と霧沢が舌打ち交じりに答える。


「もしかしてさ、藤森のやつ狙ってるんじゃないかな」

 予想外の言葉だったのだろう。霧沢は目を丸くする。

「そんなことあるか? 言っても二人はほぼ初対面だし」

 その口ぶりからは、信じられないと否定の念が窺える。だが対面する広瀬の顔には同意の色は無い。

「霧沢はともかく、藤森と僕は香川から時々話も聞いてたし。そういえば霧沢の前では露骨に彼女の話は避けてた気もする」

 霧沢はそれを聞くと眉に皺を寄せる。と同時に大きく息を吐いた。そして若干諦めた様に言い放つ。


「まあ、あとは二人が決める事だからね」

 それを受けて広瀬が何かを呟いた様だが、雨の音に掻き消された。二人の間に沈黙が横たわる。聞こえるのは打ち付ける雨の音と時折入ってくる車のエンジン音。


「思うんだけどさ」

 水溜まりを踏みしだきながら広瀬が口を開いた。ぴしゃりとズボンの袖口に染みが広がる。

「前に藤森が会ってたっていう女の子憶えてる?」

「あの彼女かもって子のこと?」

 そう、と答えると広瀬は傘を短く持った。まるで表情を隠すかのように。

「実際には違った訳だけど」

「だったら良いじゃないか。別に不貞を働いている訳ではないし」

 まあ確かにちょっと節操無いかもしれないけど、と口籠った様に付け加える。


「香川に悪いとは思わないの?」

 霧沢が言い終わるより早く、荒げた語調で広瀬がそう言う。霧沢は、それはと言い淀む。広瀬の顔は殆どが傘に覆われ、かろうじて見えた口はその唇を噛みしめていた。

「その子の特徴って霧沢、憶えている?」

「ああ、茶髪で眼鏡……だっけ」

 空を仰ぎながら思い出すように言った。間髪いれずに広瀬が言う。

「この事件の犯人、知ってる?」

 先程から意図の読めないぶつ切りの質問を、矢継ぎ早に続ける目の前の男に、気味が悪いものを感じたのか怪訝な顔を作る。

「フリーターの女性だろう? 確か二十三歳の」


「その通り。それも茶髪で眼鏡のね」

 一瞬、雨の音さえ途切れた。


 ごくりと唾を呑む音。

「広瀬、何が言いたいんだ」

 霧沢が水を跳ねあげ三歩詰め寄る。いつもなら対立を恐れるはずの広瀬が一歩も引かなかった。それどころか落ち着き払った声で続けた。


「あくまで僕の勘なんだけど、同一人物だよ。それで藤森が唆したんじゃないかって。邪魔者を消すために」


「何を馬鹿な事を」

 見開いた眼が広瀬を射抜く。その震える拳は今にもその男の襟を掴みかねない。

「怒るよね。でもこれは、あくまでも僕の勘だから」

 対照的に震えも無いその声で静かに言う。霧沢は歯を鳴らして息を吐くしかなかった。

「だから確かめる必要がある」

 そう言うと広瀬が顔を上げる。今まで掴みかかろうとしていた霧沢でさえ、その顔に一歩だけ後ずさった。それほどその目は暗く淀んでいた。


「藤森は裁かれるべきなのかを」




 少し弱まった雨脚は二人から傘を取り上げた。それでも弱まったとはいえ依然として雨は降っているのだから、傘を閉じれば濡れてしまう。だが、それ以上に持っているのも煩わしいといったふうだ。飛沫を散らしやや駆け足で人通りの少ない道を行く。

「個人経営だし、わけを話して頼み込んだら防犯カメラ、見せてくれるよね」

「たぶん。俺もそこそこ常連だし、マスターとは見知った仲だから」

「それでわかるんだよね」

「少なくとも同一人物かどうかはわかるね」

 霧沢がぎりりと歯を噛み、抑揚のない声で尋ねる。

「もし、そうだったらどうする」


 広瀬は決まっているとでも言いたげに霧沢を睨みつける。

「警察に行く」

 霧沢は目を逸らしじゃあ、とゆっくりと息を吐く。

「もし違ったら……」


「もし違ったら、僕はもう友人の資格が無いだろうね」

 少し間を開けてそう答えた。涙か雨か、広瀬の頬に一筋の雫が伝った。

「もしも僕の思いすごしだったら、香川の事が落ち着いたら、僕はもう去るよ。たぶん二度と会わないだろうね」

 それは目の前の男に、というよりも自分に言い聞かせたのかもしれない。

一台のクラウンが規定速度を大きく超えて、水を跳ねあげ走って行った。


「やっぱりやめないか」

 霧沢がそのテールランプの消えていった方向を見つめながらそう呟いた。隣の男がその口元を見つめる。すう、と大きく息を吸い込む前触れがわかった。

「だってよく考えろ。結果がどっちになったって俺は友人を一人無くすんだぞ。俺は何人、失えばいいんだ」

 それはもはや慟哭だった。その感情のやり場に迷うように垂れ下がった拳もぶるぶると左右に震える。


「駄目だよ」

 呟くようにそう言った顔は大きく歪んでいた。

「一度気になった以上、白か黒かはっきりさせない事にはもう僕は藤森の横では笑えない。もし僕がいなくなっても、藤森が良い奴だったってわかるならそれはそれで良かったと思うよ」

 そこまで言うと広瀬は口角を大きく上げた。明らかに無理をしているのが痛いほどわかる、無理矢理に創った表情。だが、これが紛れも無い彼の本心でもあるのだろう。小さく、その時は二人をよろしくと付け加えた。


 友人として、男として、その想いを無碍にはできない。霧沢が一度天を仰ぎ見た時、相変わらずの曇天の空ではあるが、雨は確実に弱まっていた。雷鳴も響いてはいない。


「わかった」


 霧沢は静かに頷く。ありがとうと広瀬も微笑む。


「じゃあ、行くぞ」



 霧沢がそのドアノブにかけた手に力を込める。本来ならばカランカランと軽快な音で客人を迎えるはずのその扉が、監獄の鉄格子のように重く感じた。

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