ep.18 カーテンコール

 一人のはずの帰り道だが寂しさはない。

『さよなら』が『またね』になり、それも今日『あとでね』に変わった。


 鼻歌だったりスキップだったり、そう言った類のものは出なかった。もっと地面を踏みしめ、この湧きあがるような感情を丁寧に噛みしめていたい。まだ熱を持つ唇を撫でながら僕は確かにそう思った。

 これから大切に紡いでいこう、彼女の頷きで幕が上がったこの物語を……。




「ずいぶんと幸せそうなムードだったわね。まるでドラマか小説でも見ているのかと思ったわ」


 振り向いた先、すれ違う人波の中に、いつかの様にトロンとした目を滾らせ、彼女が立っていた。

 何故ここに彼女が。一昨日の事を責めに来たのか? いやそれよりも先程の春香さんとのやり取りを知っている? 

 ふいにいつかの広瀬の高説が浮かんできた。

 頭の中では『脚を止めてはいけない』という根拠のない警告が大音量で鳴り響いていた。が、決断を下すより早く駆け寄ってきた彼女に腕を掴まれる。

「小説と言えばねえ、香川くん。Snow Dropっていう小説知ってる? 」

 静かに、囁くようにそう言う。その声はいつもと同じように澄んだ穏やかな声であったが、何故だかそこに安心感は無い。それどころか一声聞いた瞬間に先程の警告が誤りではない事を悟った。


「ちょっと、離してください」

 できるだけ何でもない声を作って答えるが、少し震えていたかもしれない。

「女の子は主人公の妹に近づくために主人公を利用し、それに気が付いた主人公は女の子を殺して自殺しちゃうの」

 間延びしたテープレコーダーの様に、感情とは無関係にあらかじめ決められた事をなぞる様に、起伏の無い音。それが僕の体に蛇の様に纏わり憑りついた。

「この主人公は私。香川くんが女の子。ねえ、そう思わない? 香川くんはあの女に近づくために私を利用し、その結果私はあなたに傷つけられた」

 腕を掴んだままじり、と一歩近づいてくる。確かに彼女を傷つけてしまったのは事実かもしれないが、彼女を利用したという件は身に覚えのないことだ。

 慌てて身の潔白を証明しようとするが、それより早く

「ううん、その事は気にしてないわ。それよりもねえ、目を覚まして香川くん。あの女はちょっと外見がいいだけよ。料理の出来も酷いものだし、これまでもてはやされてきただろうから生きる強さも無い。そのくせ見てくれだけは良いからいずれ浮気もするわよ。でも私なら、香川くんのためだけにもっと尽くせるのよ」

 一息で言うと次の口撃に備えてか、肺が大きく膨らんだ。


「第一、香川くんはあの女の言う事を信用しているみたいだけど、同性の私が見ればすぐにわかるわ。あの女は間違いなく異常よ。近親相姦なんかするくらいだから」

 両脇を歩く群集がすれ違いざまにこちらを見ている。はやる鼓動の中に怒りが入り混じる。

 震えていたはずの脳が冴え始めた。


「訂正してください。春香さんはそんな人じゃない」

 その目を女性に、人に向けたのは初めてかもしれない。


「怖い顔ね。まるで私が酷い事を言っているみたいじゃない。でも、酷いのはどちらかしら。あなたが私の気持ちに気付いていながら、それを無視してあんな女に現を抜かした。私の物になっていれば、こんなことにはならなかったのに。ねえ、今からでも遅くは無いわ、戻ってきてよ香川くん」

 捲し立てるように、感傷的にぶつけられたその言葉。音としては耳に届いたが、言語としては僕には理解ができなかった。ただその音の異様さ故だろう、群集のなかにはその脚を止めてこちらを遠巻きに見つめている者もいた。

 僕が何も言えずにいても、それに対して彼女は何も言わない。彼女にはもはや僕が理解しているかはどうでも良さそうだった。

 ただ『僕がここにいる』という事実だけがあればよい。そんな気がした。

 ぞくりと背が悶え、深い淀みのような嫌な予感がした僕はその腕を力任せに振り払う。支えを亡くした彼女はつんのめる形になりそのままアスファルトにゴロンと転がった。

 あっ、と声が漏れたが彼女はゆっくり起き上がり膝を手で払っている。良く見ると右膝のタイツが破れ血がにじんでいるが、彼女は他人事のように落ち着き払っていた。

 来ると思っていた罵声の代わりに溜息を一つ付き、

「ここまでいっても目を覚ましてくれないんじゃ、仕方が無いわね。それじゃあ結末は小説と一緒よ」

 一息でそう言うとふっと彼女が穏やかな顔になったのがわかった。険の取れた、まるで母親のような顔。

「あなたをあの女から救うにはもうこれしかないの。でも安心して。寂しい思いはさせないわ」


 そしてその一言で締めくくられたのは……彼女の話の方だったのだろうか。

「私もすぐにいくから」

 

 どこへ、と尋ねる暇も無く駆け寄ってきた彼女は、目の前で止まることなく僕の体にドスンとぶつかった。体と体が密着した時、ぷんとお酒の臭いが鼻を触った。直後、僕は後ろによろめき必然的に彼女との距離が開く。僕を見降ろす彼女の顔は、季節外れの雪のように白く見えた。まるで恐ろしいものに怯えるかのような表情を張り付けて。

 僕は体勢を整えようともがくと、同時にこれまでの人生で感じた事の無い熱さを腹部に感じた。熱の中心を見ると、……なんだよこれ。

 お腹からは不自然に棒が生えている。それが刃物の柄だと気付いたのは、その棒を中心に赤く赤く染め上がっていくのが見えたからだ。

 ドラマみたいだなと他人事のように思っていると、急に足元に伸びていたはずの地面が起き上がった。不思議な感覚に襲われもう僕には自分が立っているのかさえ分からない。

 それに抗うのも億劫になりただただ重力に身を任せると体の周りに温かいものを感じた。

 いや違う、体が冷えていっているんだ。もし魂というものがこの世にあるというのなら、今まさにそれが抜けていっているような、そんな気がした。

 

 凄く近いような、遠い所のような。そんな場所で聞こえる悲鳴と怒声。あとは吐瀉音。それを聞いて思い出したように、僕自身の胃のあたりから込み上げてくる物の存在に気が付く。すぐに生温かい感触と強烈な苦みが口内に広がる。

みるみる底から湧き出るそれは、とうとう口から溢れ出る。それと同時に波打つようなどよめきが耳についた。

 すぐ近くに降り注いだその白濁物は見物客の誰かが生成したものだろうか。つんと酸っぱいに臭いに鼻を犯される。それは一秒たりとも嗅ぎたくないと思わせるような酷い臭い。それでも僕の体はその場を離れようとはしない。それどころかこの場で眠ってしまいたいとさえ思う。

 寒くて凍えそうなのに、僕はその睡魔には抗えなかった。



 ごめん、春香さん。


 


 ……しばらくデートはできそうにないです。

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