ep.17 告白(後)

「はい、どうぞ」


 肩を大きく上下させ玄関口に立つ僕に、春香さんは何も聞かずに部屋に上げてくれた。先の言葉の通り僕にケーキを差し出した後も、何も口にせずただ黙って僕の隣に座ってくれていた。

 ふと、このまま隠して有耶無耶にしてしまうのも悪くは無いかもな、と思った。


「春香さんに聞きたい事があります」

 それでもそう言えたのは、背中に鈍く残る痛みのおかげだ。 

「私に、聞きたいこと?」

 急に押しかけてきて、やっと口を開けた僕の様子、日常ではありえない振舞いからは、楽しい予感は仄かにすらしなかっただろう。それを物語る様に、春香さんは恐る恐るといった様子でそう言った。

 僕はゆっくりと頷いた。背中と同じくらい胃の中がひりついた。


「これをはっきりさせないと、僕達は……いや、僕はかな。とにかく前へ進めないんです。でもこれを聞いた先、その先に待っているのは二人にとって大きな悲しみかも知れません」

「それでも聞かなければいけないこと、なんですね」

 噛みしめるような彼女の声は震えていた。僕は目を閉じ、そして答えた。


「僕にとっては」


 春香さんは何も言わずにこくりと首を縦に振った。僕なのか彼女のせいなのか、テーブルの上では湯気の立ったマグカップが音を立てて揺れている。テーブルの下に隠した指が、押さえつける膝ごと震えている。


「昨日、霧沢と話をしました。『香川は姉ちゃんの事をどう思っているのか』についてです」

「それは……。確かに私から和くんに相談しましたが」

「その流れで霧沢に聞いたんです。『どうして霧沢はそんなに僕に協力をしてくれるのか』って」

 唇を噛む音が聞こえてきそうなほど。じゃああのことも、との呟きに僕は頷いた。

「霧沢はこう答えました。『俺は姉ちゃんが好き。だけど誰かの物にならないとこの気持ちが抑えられそうにない』と」

「確かに、そう言われた事はあります。でも彼は、その時お酒に酔っていましたし、私も断っています。もちろん姉弟ではしてはいけないようなやましい事は一切していません」


 僕を真っ直ぐ見据える滲んだ目に、嘘や偽りの色は見えない。それが一層僕の胸を締め付ける。もしここで春香さんが目を逸らしてくれたら、この後の追い込みがどれだけ楽だっただろうか。

「それも霧沢からも聞きました。霧沢も確かにやましい行為はしていないと言っていました。だからそれに関しては彼と春香さんを全面的に信用します。霧沢がそう言う気持ちを持ったことは確かにいけない事でしょうが、倫理と理性で抑えようとしていた事も認めます」


 春香さん、今まで本当にありがとう。縁起でもないがふいにそんな別れの言葉が何故か頭をよぎった。

「僕が聞きたいのは、春香さん。あなたの気持ちです」

 言ってしまった。もう後戻りはできないその言葉を。彼女の瞳には、今の僕はどう映り込んでいるだろうか。

「私の……気持ち?」

「弟の事が、いえ和樹の事が好きなんですか? そして僕はその弟の代わりなんですか?」


 いや違う。そんな曖昧な質問で逃げてはいけない。


「いや、訂正します。一つ目の質問は、同情でも好意からでも良いですが彼に抱かれても良いと思った事はありますか? そしてもう一つ。春香さんが僕と仲良くしてくれるのは、和樹が誤った道に進まないようにという、彼への愛からですか?」


 壁に掛けられた時計の秒針の音がはっきりと聞こえるくらいに静かだった。

「あの日、香川くんと初めて出会ったあの日」

 目の前の女性は静かに語り出した。

「確かにあの日の私の行動は和くんに、弟に抱かれても良いと思っていたと、そう思われても仕方が無いほど軽率でした。ですが、あの時は私も気が動転していて。それくらいしか彼の気を逸らす方法が思いつかなかったんです。だって、まさか」

 いつの日か、霧沢が言っていた『姉ちゃん、恋愛感情に鈍感だから』と言う言葉。改めてあれは自分の事を言っていたのだな、と思った。


「彼の気持ちに応えることは当然できず、かといって縁を切る覚悟で明確に諦めさせる事も出来ない。全ては私の弱さのせいです」

 その時頭に浮かんだのは満開の桜。『どんな辛い事もね』と悲しそうに言う春香さん。これ以上ないほど悩んだのだろう。

 だが今、僕の目の前にいる彼女は凛々しくさえ見えた。


「でも彼を今まで一度だって異性として見た事は無いですし、ましてや抱かれても良いと思ったことはありません」

 はっきりとした口調でそう言い切った。

「では同情は」

「同情もありません。姉として彼を信じました。彼は私の情や施しが無くても立ち直り、真っ直ぐ生きていけると」

 今まで見たことも無い様な強い目をした春香さんがそこにいた。初めて僕に見せる、女でも、彼女でもない顔。ああそうか、これは『姉』としての顔。

「この胸の中を不器用に伝えることしかできませんが、それでも香川さんに偽りなく見せたいんです。証明できる方法はありませんから信じてくださいとは言いません。でも、これが……」


 僕から目線を切ることなく、ただ指先と声色に力を込めた。

「これが真実なんです」


 始めから決めていた。春香さんの口から聞いたこと、それが何であれ僕はそれを真実として受け止めると。ただそれを彼女自身の口から聞きたかった。

 僕は口の端を緩め、幾分か湯気の減ったカップをすする。それを合図にふっと部屋の中を緩やかな空気が流れたが、まだ半分。

 お互いの束の間の休息が済むと再び身を固くし、もう一つは、と促した。こくりと頷くその顔は先程よりも緊張しているように見えた。


「二つ目の質問ですが、香川くんと一緒にいるのは弟のためかと言いましたが、それも違います」

 春香さんの二つの目が僕の瞳を見据える。その目は今まで見たどの春香さんよりも輝きを持っていた。『姉』の顔ともまた顔つきが違う。


「私自身の為です」

 今までしばしば一緒にいたとはいえ、どこか遠慮がちで控えめだった春香さん。そんな彼女が初めて自分のためだと言い切ったことに驚きを隠せなかった。 


「こちらは証明することができます」


 そう言ってポケットから取り出したのは彼女と僕の繋がりの証。五十二枚のカードの束。

「まだ下手くそですけれど」

 小さく前置きをしてその手遊びは始まった。ぎこちないとしか言いようが無いカットをする手つき、緊張と練習不足で震えている声色。そのどれをとってもマジックとは呼べる代物ではなかった。それなのに、これまで見たどんなイリュージョンよりも僕の目を吸い付けて離さなかった。

「このハートが何と消えてしまいました。


 ハートを袖に隠したのははっきりこの目で見えた。言わずとも彼女もそれを察していた。

「香川くんならわかってますよね。ハートはここにあることを」

 僕が頷くとおもむろに袖を振り、ハートのエースが飛び出した。それを丁寧に指で摘まむと

「でもそのハートは本物じゃないんですよ」

 久しぶりに見た恥ずかしそうに微笑む表情。

 カードをテーブルに置くと、そのままその手をこちらに伸ばす。

「本物のハートはここにあります」

 僕の手を取り、ゆっくりと持っていく。その先は、春香さんの左胸。

 すぐに理解した。彼女の真意は表面では無く、その奥深く。柔らかな丘の向こう側から、忙しない鼓動が木霊している。その速さはともすれば春香さんと初めてデートした時の僕以上かもしれない。


 あの春香さんが、僕といるだけで。


「なんでもない人、ましてや誰かのために仕方なく一緒にいる様な人で、『こう』なりますか?」

 僕が首を横に振ると、春香さんは顔を真っ赤に染め、僕の手を小さな両手で包み込んだ。


「一緒にいたいんです。他でもない香川くんとずっと」


 もはや秒針の音さえ聞こえない。余りに静かすぎて世界に僕と春香さん、二人しかいないのではという気さえした。世界中のどこにもこの神聖な時間を遮る存在は無いだろうと言うほどに。


「私では駄目ですか」

 美しい唇から奏でられる、美しい希望の歌。

 

 僕の心はもう、決まっている。

「すみません」

 

 ……迷いも、後悔も無い。




「やっぱり、私の事、信用してもらえませんか?」

 俯き、震える声。


「いや、そうじゃないです」

 続けて小さく呟く。そのマジックは僕がやるべきだったなと。その言葉に、今にも降り出しそうな目がぱっと僕を見る。

「春香さん、見ていてください」

 彼女が言葉を発するより早く、僕は確かに彼女の目を見据えそう応えた。

今、春香さんが使っていたトランプを掴むとシャッフルし、裏側のまま春香さんに差し出す。

「好きなカードを一枚抜いてください」

 震える指先が一枚のカードの前で止まる。それでいいですかと確認すると、無言で頷いた。


 準備は整っている。ここまで来られたこと、霧沢に、藤森に、広瀬に、そして春香さんに心から感謝したい。あとは春香さん、あなただけに贈る僕の一世一代のマジックを、そのカードを見てください。


「それが僕の気持ちです」

 そうだ、僕の心はもう、決まっている。

 

 細い指がゆっくりとそのカードを裏返す。長い睫毛を蓄えたその目が大きく見開かれる。

「これって……」

 春香さんが驚くのも無理は無い。それはその存在すらも、とうに忘れられていてもおかしくないもの。

 それは世界に二つとない僕と彼女だけのもの。

 その意味を知っているのはあなたと僕の二人だけ。


 あの日から肌身離さず持っていた、ハートのエースに描かれたそのマークは……。




 それが僕の答えだ。




 涙を拭うその指。小さく頷くあなたの、涙を流し微笑む表情を、優しく触れた唇を、僕は死ぬまで忘れないだろう。

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