ep.16 告白(中)

「おお、さぬっきー。おはよう」


 おはよう、と鞄を置き備え付けの椅子を引き出す。止めが甘いのか窓脇のカーテンがぱたぱたと揺らめいている。既にその風は肌寒く、今後悪転するらしいという天気の予感を引き連れ、雨の臭いが薄く立ち込めているのは、そのまま僕の重苦しい心を表現しているようだ。だが目の前の男はそんなものが不釣り合いなほど嬉しそうに笑っている。


「よく来てくれた。ありがとうな」

 お礼を言われる筋合いなど微塵も無いはずだが。むしろお礼を言うべきは僕の方だ。

「まあ、約束したからね」

「そう言ってくれると思ったよ。いやいや、やっぱりさぬっきーは友達想いのいい奴だな」


 いい奴だって? 先輩も友達も傷つけたこの僕が。

「そんなこと無い」

 僕が乱暴に言うと藤森はいつになく真面目な顔で聞き届けていた。そして、そうか、と言いそれ以上は何も聞かなかった。


「今日さ、広瀬も霧沢も休むんだってさ」

「そうなんだ」

 あんな事があった翌日だ。霧沢が僕と顔を合わせ辛いのは良く分かる。僕自身だって藤森と約束をしなければ来るつもりなどなかった。霧沢、今どうしてるかな、大切な姉の事まで貶されて僕の事恨んでるよな。いや悪いのはあっち……だ。


「というわけで俺たちもフけようぜ」


「えっ」

 憮然とする僕から鞄をひったくると、軽やかに講義室の外へ出ていった。


「さぬっきー、何してんだよ。置いてくぞ」

 藤森の意図はさっぱり読めないが、今の僕にはその声に従うのが最善の様な気がした。ただの思考の放棄ではないかと問われれば、そうなのかもしれない。




「久しぶりだよな。さぬっきーと二人だけでこうしてるなんて」


 快音を響かせながらグリーンのネット越しに藤森が声を飛ばす。その間にも時速百二十キロでこちらに放られる白球は、次々に百八十度向きを変え向こうのネットに突き刺さるのを僕はただただ見ていた。


「ほら、次はさぬっきーの番だ」

「いや、僕は良いよ」

 額に汗を浮かべ、ずいとバットを渡してくるが、大きく首を横に振る。彼の様に飛ばせるどころか当てる自信すら無いし、それに藤森のせいで集まってきてしまった子供たちの目の前で恥をかくのが目に見えている。もっと言えば今こんな事をしたい気分ではない。

「そう言わずに。なかなか気持ちいいぜ。何も当たらなくても良いんだよ。とりあえず無我夢中でバットを振ってみろ」


「それじゃあ」

 と渋々バットを受け取りネットを捲る。何故藤森はこんなところに僕を連れて来たのかと気が滅入り、後方を睨みつける。がそこにあったのはそれ以上の熱気と羨望を込めた少年たちの鋭い眼光。

 気休めかもしれないが少しでも当たるよう短めに握りバッターボックスに立つ。意外とベースまで遠いんだな、もう少しセンターに立った方がいいのだろうか。でもそんな近くに立ったらボールがこちらにぶつかってこないだろうか。

 そんな事を考えている間に飛んできた球は藤森の時よりもだいぶ遅いのはわかったが、それでも体がびくりと跳ね、僕の体が動いたのはボールが僕とすれ違う頃だった。結論から言えばかすりもしなかったということだ。

 振り返るとネットに跳ね返り足元に戻ってきた白球と、ぞろぞろと離れていく子供たちの姿が見えた。本来なら情けなく感じるべきなのかもしれないが、僕は余計な者がいなくなり清々したという気持ちの方が大きかった。


「前から言おうと思っていたけど、さぬっきーセンスを感じないな」

 両手を口の前で合わせ藤森はそう野次を飛ばし笑っている。いつもとは違う不快感の無い笑みだ。

「いいか、さぬっきー。まずは怖がるな。そこに立っていれば絶対にぶつからないから」


 弱気に頷くとすぐに次の球が飛んできた。

「腰が引けてる。なんだその情けない姿は。おいおいどこかのお譲ちゃんか」

 勢いそのままにボールがネットに突き刺さると先程よりも心無い野次が飛んでくる。それはその次も。

「なんだおかまちゃんか? そりゃあ春香ちゃんに嫌われるわ」


「見てて恥ずかしいぜ。こりゃあ情けないって言うだろうな春香ちゃん」


「ああ、結局一発も当たらずに終わっちまった。こんな奴に好かれてるんじゃ、いい迷惑だよな春香ちゃん。一生の恥だぜ」


「いい加減にしろ。春香さんは関係ないだろ」

 とうとう僕はネットを掻き分け藤森に掴みかかった。だが目の前の彼はそれを予期していたかのように僕の両腕をさらりと掴んだ。


「何だ、怒れるじゃないか」

 力を込めた挑発的な顔つきであるが、その瞳の奥は安堵しているようにも見えた。

「何が言いたいのさ」

 僕も腕の力を緩め、少しだけ頭の温度を下げた。

「ついさっきまで、この世の終わりみたいな顔してたぜ」


 それで、僕を怒らせた、と言うのだろうか。確かに今、頭の中は彼への怒りと言う一つだけの感情で統一されているのは事実だ。藤森のその言葉が本当だとしたら、それに比べたら今の僕は幾分か生命力に溢れた表情をしていると言える。


「それに、あんな事言えるんだ。何があったのかは知らないけど、さぬっきーはまだ春香ちゃんの事が好きなんだろう」

 その問いかけに心が跳ねる。僕は春香さんの事を、どう思っている?

 僕は彼女をどうしたい?


「わからない」

 それが嘘偽りのない今の正直な気持ち。

「わからないんだ」

 半分ほどの声量でもう一度吐きだした。藤森は大きく頷くと

「このままでいいのか」


「藤森には関係ないだろ」

 吐き捨てるようにそうは言ったが、いいはずがない。頭に浮かぶのは、自分で作った名も無い料理を山盛りに装い、失敗しちゃったと言いつつも嬉しそうに完食する春香さん。

 隣の席でこくりと眠りに落ちた後、帰り道で起きてましたと意地になる春香さん。

 今までに彼氏だってもちろんたくさんいましたよねと意地悪く言うと、嘘のように悲しそうな表情になる春香さん。

 出会ってから今まで、彼女の様々な表情を見てきたがどれも輝いていて美しかった。そしてそのどれもが偽りなく見えた。


 そのどれもがもう見られない……?

 

 なあ、藤森。もう一度見るには、僕はどうしたらいい?

 縋るような瞳で藤森を見つめる。藤森はこりこりと頭を掻くと、

「まあそうなんだけどさ」

と困ったように笑った。


 何だよそれ、藤森らしくないだろう。玉砕覚悟でアタックするんじゃないのか。頼むから僕の背中を押してくれ。


「藤も「だけどさ、香川自身も消化不良なんだろ」

 僕の心の内を知っていたかのように力強い言葉。


「はっきりさせて来いよ」

 右腕を鞭のように撓らせ、力いっぱい僕の背を叩く。隣のレーンに負けないほどの音が鳴り響いた。

「香川。自分のやりたいようにやってこい。まあもしもの時は骨くらいは拾ってやるよ」

「何か前にも同じ事言ってなかった」

 あれそうだっけと惚ける藤森に思わず笑みがこぼれる。

 一人じゃない。この背中の痛みが、僕を押してくれている。

「藤森。ありがとう」

 親友は腕を組みながら、首をゆっくりと左右に振る。

「とりあえず行って来い。成功報酬は誰よりも早く俺に彼女を紹介する事な」

 眉を上げ高らかに笑う。

「わかった、行ってくるよ」

 この先にどんな結果が待っているかはわからない。だが僕は進むだけだ。僕の望むままに。 



 あなたへと続く道の脚を止め、世界で一番価値のある十一桁の数字の羅列を入力する。もはや深呼吸をする時間さえもどかしかった。


『はい霧沢です』

 電話口の向こうから耳に聞こえたのは、もう何度も聞いた、律儀にいつも同じ第一声。

「もしもし、春香さん」

『はいはい、ってあれ? 今日はまだ講義がある日じゃないですか? ダメですよ、サボっては』

「確かにそうですね」

『そうですよ。私のドライブに付き合ってくれたせいで成績が落ちただなんて事になったら、申し訳ないですから』

「春香さんは真面目ですね」

 特に意味があった訳ではない。真面目だなと思ったから素直にそれを口にしただけであるし、これくらい普通です、くらいの返答を予想していた。だが返ってきたのは無言。というよりなにも返ってこなかった。

 何かあったのかと心配になり慌てて春香さん、と呼びかける。すぐに、はいという返事がちゃんと僕の耳に届いた。次いで香川くんと呼ぶ声がする。今度は僕がはい、と答える。


『何か悩みごとでもあるんですか? 私でよければ相談に乗りますよ』

 返事の後に聞こえたその言葉。 


「いきなりどうしたんですか」

 口ではそうとぼけるが、胸の底が湧きあがるのを感じた。

『えっと、うまく言えないんですけど、香川くん、何かいつもと違うような気がしたんです。私の勘違いならそれはそれでいいんですが』


 脚が自然に動き出す。そのつま先の向く先はそう。

「さすが春香さんですね」

『さすがってことは、やっぱり』

 その戸惑いの言葉が終わるより早く言う。


「会えませんか? 」

 体は既にその声の主の先へと駆け出していた。それに気が付いた時、その言葉が適切でないことを理解できた。

「今すぐ会いたい」

 弾む呼吸と共にその想いを言い直した。直後に今まで受話器の向こうから聞こえていた、うろたえの声がピタリと止んだ。


『温かいココアとケーキを用意して待っていますから』

 はっきりと春香さんがそう言ってくれた事が、何より嬉しかった。

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