ep.15 告白(前)

 昼過ぎ。重い体を上げ、熱くなった顔を冷水で締めたが、相変わらず鏡に映っていたのは真っ赤な目をした僕だった。

 シャツを投げ捨てそのまま頭からその水を被ってみる。呼吸もできないほどの水流が僕から熱を奪っては音を立てて流れていくが、昨日の記憶が流される事は無かった。

 タオルを顔に叩きつけながら、今さらながら昨日一日の事全てが夢であればいいのに、と思った。そういえば講義をさぼったためだろう、霧沢から着信が二件来ていたが何となく見たくも無くて、まだ返していないことを思い出したが今更どうする気も無い。

 バイトのために服を着替えると、本当に僅かだが、気が楽になった。せめて働いている間だけは何も気にしなくていいのと、今日のバイトには犬飼さんは入っていないことを知っているからだろう。それでも今日はまだ良いが、明日以降の事を考えると空っぽのはずの胃がきりきりするのでとりあえずは考えない事にする。

 

 結局僕は次の連絡が来るのが怖くてほぼ手ぶらの状態で家を出た。

「香川くん、疲れているみたいだから無理しないでな」


「そんなことないですよ」 


「いや、それなら良いんだけどね。香川くんはうちの大事な戦力なんだから」

 永井店長は事務所から顔を出しながらそう笑ってくれたが、目の下の深い隈が、明らかに僕よりも疲弊している事を物語っていた。その顔の前では、喉元まで出かかった、今日からしばらくはお休みしたいですと言う言葉も飲むしかなかった。


 人にはスイッチがあると言う。それならば僕の場合は制服を着て人前に出ることが一種のスイッチなのだろう。仕事自体はいつも通りに体が動いたし、もしかしたらパフォーマンスはいつも以上だったかもしれない。いつもよりも声も軽い。自分の中で吹っ切れようとしているだけなのかもしれないが今日は入店時の挨拶だってノッている。いらっしゃいませ、いらっしゃいませ。いらっしゃ……。

 自動ドアの向こうに立っていたのは、霧沢。今まで一度たりともここには来た事が無いのだが、僕が連絡を返さなかったからだろうか。霧沢はヘルメットを取ると、真っ直ぐ品だし中の僕の方に歩いてきた。遠くからでは良く分からなかったが、近づくにつれ彼がいつもと違う、険しい顔をしているのがわかった。


「終わったら隣のファミレスに来てくれ。待ってるから」


 それだけ言うと、彼は返事も待たずに外へと出ていった。


「ねえ、今の人、香川くんの友達? 紹介してよ」

 今まで聞いたことも無い媚を売るような声で遠藤先輩がにじり寄ってきたが、そのうち、と適当な返事をした。聞いたこと無いで言えば彼の方もだ。霧沢、怒っているのか?


 

 バイト後、直前まで迷ったが、指定された場所に行くと霧沢は一人で本を読んでおり、僕の顔を見つけるとさっと手を上げた。


「お疲れ様。とりあえず飯食べなよ」

 その第一声はいつもの彼だった事に胸をなでおろした。メニューの中から適当に二、三注文すると、待っていたかのように向かいの彼は口を開いた。


「姉ちゃんと何があったの?」

「何がって……」

 思わず口籠る。彼の口調、顔つき。そのいずれもが明らかに進展を聞いているというものではない。『何をしでかしたのか』を問うているのだと言うことは容易に伝わってきた。霧沢は狭い椅子の上で大きく身を乗り出しており、そこからは僕の挙動の一つたりとも見逃すまいという気迫が伝播している。


「僕が女の先輩と二人でいる所に遭遇した」

「今日、一緒に働いていた人?」

「いや、あの人とはまた別の人」

 そうなんだ、とグラスの水を口に含む。そこで見計らったかのように僕が注文したドリアが運ばれてきた。霧沢はどうぞと促すが、僕は手を付けず次の質問を待った。そうかと頷き次に霧沢の口から出てきた言葉。


「好きなの?」

 思わず目を見開く。「香川は」と言うことであれば、迷いも無くいいえと答えられるが目蓋の裏に焼きつくのは、犬飼さんの泣き顔。僕は唇を舐めた。


「昨日、告白された」

 聞こえるか聞こえないか位の声で呟いた。テーブルの上に投げ出した腕がぶるぶると震えているのが自分でもわかった。グラスの水面に小さな波紋が立つ。

「もちろん断ったよ。先輩としか思えないって。それに」

 それに……。


「姉ちゃんの事が好き」

 同意を求めるように霧沢が言う。驚きで顔を上げこそしたものの、不思議と恥ずかしさはなく、改めて口にされたことで自分でもその気持ちを再確認できた。僕が無言で頷くと、彼は背もたれにぶつかるほど深く座り直した。


「そういうことか」

 その顔はどこか安堵しているようにも見えた。まだ若干険しい中にも薄らと笑みを浮かべ、僕の前に配膳されたそれを、食べたらと再度促してきた。僕はスプーンを手に取り一口頬張る。


「昨日、姉ちゃんから相談を受けてさ」

 種明かしでもするかのように霧沢が続ける。


「香川くんが女の子と二人で遊んでいるみたいだったって」

 ドリアを口に含みながら小さく頷く。

「香川くんの方は困っているみたいだけど、女の子の方は気にしてるみたいだった。女の勘だけど」

 良く噛みながら何度も小さく頷く。


「香川くん、もしかしたら私に興味無いのかな」


 細かく咀嚼されもはや液体になったドリアをテーブルに吹き散らした。

「うわっ、汚いなぁ」

 ごめんと謝罪し、おしぼりで綺麗にするが僕の関心はそこには無かった。

「今、なんて?」

「だから汚いって」

「そうじゃなくてその前」

「ああ。姉ちゃん、香川が自分に興味無いんじゃないかって不安になってる」

「えっ。それって……」

 彼は微笑むと水を飲み干し、そしていきなり席を立った。ちょっとトイレ、と。すれ違い際僕の肩をぽんと叩いた。


「香川、もっと自信持っていいよ」


 

 晴れやかな顔で戻ってきた彼は上機嫌に、

「しかし香川が無事で良かったよ。藤森なんて『さぬっきー、ついに他の男どもに刺されたんじゃないか』なんて笑ってたからね。酷いだろう」

と話してくれた。自分の心配事が解決したためだろう、普段なら心のうちに留めておいてくれるであろう話に対してもいつになく饒舌だ。ぴりぴりとした空気よりは何十倍も有難いのは確かなのだが、彼だけが晴れやかな気持ちなのはどうにも不公平な気がする。

 僕にだってこの男に対して心配事というか疑念がないわけでもない。はははと愛想笑いをした後で、そういえばさ、と切り出した。


「霧沢はどうしてそんなに僕に協力を?」

 ずっと心の片隅で気になっていた疑問。振り返ってみても彼の存在が無ければ、春香さんは今でも僕の中で、二度と会えるかわからない憧れの人だっただろう。この恋の行方がどうなるにしても、いつだって霧沢のサポートがあったのは紛れもない事実だ。


「正直に言うよ。俺は姉ちゃんが好きなんだ」

 長い沈黙、きょろきょろと空を切った眼球。言葉を探し、迷い、やっとの思いで出した様に感じた答えがそれだった。非常にもったいつけた言い方だったが、これまでの彼と春香さんとの言動、行動を見ていればそんなことは良く分かる。誰がどう見ても非常に仲の良い姉弟。

 だが、どうやらそれだけの意味では無いらしいというのは、彼が唇をきつく噛みしめている事から伝わってきた。彼は何度か唾を飲み込んだ後、重々しそうに口を開けた。

「俺にだって、常識や倫理はある。だから頭ではわかっていたさ、このままじゃいけないって。……だけど」


 だけど、と言い淀み、直後に鼻から息が取り込まれる音が短く響いた。いつの間にかすぐ近くにいるはずの周りのテーブルからの音は僕の耳には聞こえなくなっていた。


「やっぱりこの話はやめよう」

「いいから続けて」

 こちらの顔色をうかがうよう上目づかいで懇願する霧沢に強く言い放つ。僕だって必死だった。信頼していた先輩に軟禁まがいの告白をされ、その上、友にこのまま謎と不安だけを残されたら僕はもう誰を信用できるだろうか。例え誰も幸せになれない話であっても僕は聞かなければならないと、義務感にも似た衝動を強く感じていた。

 霧沢は唇を固く結ぶと観念したように鼻から息を漏らした。

「頭ではわかっていた。だけど、心の方はどうにもならなかった」

 伏し目がちにそう言うと、急にはっとした顔で


「もちろん、姉ちゃんとそういう関係、というか一線を越えた事は一度も無いよ」

 と弁解した。もしかしたらそれは弁解と言うよりも自分への確認だったのかもしれない。そこまで言うと、再び彼は唇を噛み直した。そこから短い沈黙があったが、僕が口を挟む余地は無かった。


「だから俺は思ったんだ。『もしも姉ちゃんが誰か別の男とくっついたら、この気持ちにも諦めが付くかもしれない』って」

「それって」


 やっと僕の口から出てきたのは、感想でも論理でもなくただの相槌。だが霧沢は待っていたかのように大きく頷いた。

「そう。それから数日も経たないうちにその別の男が現れた。偶然にも、姉ちゃんと出会ったのは香川だった」

「あの日、春香さんが酔っていた日……だね」

 霧沢がまた頷く。


「でも不自然に感じなかったかい。今ならわかると思うけど、普段は姉ちゃんお酒なんか飲まないよ」

「だったら何故」

「あの日さ、二か月ぶりくらいかな。姉ちゃんは実家に来てたんだ」

 ふっと細い目をして遠くを見つめた。

「少し飲もうってことで、最初は俺はビール、姉ちゃんも嫌々ながら酎ハイをちびちび飲んで付き合ってくれてたんだ。しばらくして俺がだいぶお酒も回ってきて、そのせいでなんて言うか、気持ちが大きくなったというか、口も緩くなってさ。言っちゃったんだよ。ずっと胸に秘めていた気持ち。前から好きだったって」

「それで」

「姉ちゃん、最初は笑ってた。ありがとうって。でも俺の様子から、冗談じゃないって気が付いてくれたみたいでさ。もちろん俺も頭では駄目だとわかってるってことも伝えたよ。でもこのままだとどうかなりそうだとも。そしたら姉ちゃんは少し悲しい顔をしてわかったって呟くと、意を決したようにさ、『じゃあ私の情けない姿を見たら、幻滅して諦めてくれるかな?』って飲めもしないウィスキーを飲み干した」


 呆れた様に口では笑いながら、目を潤ませてそう語る広瀬に僕は何と声を掛けられるだろうか。それは辛かったね? 気持ち悪いからそれ以上話すな? 違う。そうではないと言う事はわかるが言葉にならなかった。そんな僕を一瞥し、彼が目尻に皺を寄せると相変わらずその濡れた瞳で言う。


「あとは香川の知ってる通りさ。ひとしきり酔い倒した後、一人で帰れると家を飛び出して、ふらつく足で電車に乗って行った。次の日の朝さ、泣いていたって言ったけどあれは香川に見られたからじゃなく、本当は俺のせいだ」


 もう一度小さく、だがはっきりと言う。


「俺が姉ちゃんを傷つけた」


 グラスの中で一回り小さくなった氷がからりと音を立てた。

「だからさ……。だから、それで俺も姉ちゃんのためにも諦めなきゃって思ったんだよ。実際、香川と姉ちゃんが出会ってから、喫茶店で会ったあの日からは、俺は姉ちゃんと二人きりでは一度も合っていないし、香川を姉ちゃんとくっつけようと必死だった。それにこれは冗談でもなくさ、香川なら安心して姉ちゃんを任せられるとも思ってる」


 そこまで言うと、彼は深く息を吐き、こちらを見遣る。その目は真っ直ぐに僕の瞳を捉える。

「これが真実だよ。俺の事は軽蔑してくれてかまわない。ただ姉ちゃんは、これからも姉ちゃんは大切にしてほしい。姉ちゃんは本当に香川の事が」

「軽蔑なんかしないよ」


 霧沢が言い終わる前に僕はそう言った。先程言葉にならなかったのは、適当な言葉が見つからなかったからではない。ただ、躊躇していただけだ。だが霧沢の『責任は全て俺にある』といわんばかりのもの言いと、踏ん切りが付いたかのようなある種の清々しささえ湛えたその表情に僕の中で何かが吹っ切れた気がした。

 僕は一気にグラスを煽り、必要以上に勢いよくそれを置いた。近くの席に座る数人がこちらを一瞥するくらいには良い音が響いた。


「霧沢の気持はわかったよ。確かに驚いてる。じゃあさ、それが本当だとして、どうして春香さんはそこでお酒を飲んだの?」


「それは、さっきも言ったけど、俺にみっともない姿を見せるために……」


「それっておかしくない? だってさ、女性がお酒に酔った時に無理矢理そう言う行為に及ぶってのも良く聞く話じゃん? 霧沢も春香さんも聞いた事が無いなんて事はないよね」


「それはまあ」


「じゃあ自分がお酒に弱いってことも、弟にそう言う目で見られているってことも知りながら、何で春香さんは自ら無防備になるの?」


 ついに霧沢はそれはとしか言わなくなってしまった。

「霧沢の気持ち、と言うより春香さんの倫理観、おかしくないかな? もしかして、霧沢に襲われる事を望んでいたんじゃないか」

 眼前の男はそれは違うと語気を荒げるが、吐き捨てるようにどうだかとぶつける。

「香川、話を聞いてくれ。姉ちゃんにそんな気は」

「わかった、わかったよ。霧沢の言いたいことは。でもさ良く考えたらわかるよ。僕みたいのにも良くしてくれる女性が、霧沢みたいな奴に惚れないわけ無いもんな。薄々そんな気はしていたけど僕はピエロだったんだね」

「香川、だから聞いてくれ」

「始めから話がうますぎると思ったよ。でもこれでもう目が覚めた。春香さん、いや霧沢さんに伝えといてよ。夢を見させてくれてありがとうって」

「おい、待ってくれ」

 

 肩を掴もうとする腕を薙ぎ払い立ちあがる。

「これで話が終わりってならもう帰るよ。これ、僕の会計分ね。それじゃあ」

 

 自動ドアを出た時? 街を抜けている時? もしかしたら話を聞いている途中からだったのかもしれない。とにかく家に着いた時には涙の礫がどこまでも深く染み出していた。

 

 玄関の扉を閉めると同時に割れる様な痛みが襲ってきた。たまらず扉沿いにずり落ちるが、胃の奥から込み上がる不快感と滅茶苦茶な熱感は収まる気配が無い。

 ついこの間までドッキリかもしれない、ただの春香さんの暇つぶしだろう、傷つかないようにいつ目覚めても良いようにそう予防線を張っていたはずなのに、今のこの気持ちは、止め処なく湧きあがる物は何だ。


 先程から薄暗い部屋の奥で電話が鳴っているようだが、どうせ霧沢か霧沢さんだろう。その不快な存在を掻き消そうと耳を塞ぎうずくまるが、指をすり抜けてくる慟哭は止まなかった。


 もう、止めてくれ。もうそっとしておいてくれ。



 何度か鳴り響いたそれはやっと諦めたのか、部屋は再び静寂に包まれた。暗く重い、底の無いような闇だった。

 その闇に吸い込まれるように、泣き疲れと精神的な衰弱もあってか急に睡魔が襲ってきた。だが、朝になって目が覚めて、今日の事が夢でないということがわかってしまったらそこには何も無い僕が待っている。春香さんもいない。霧沢もいない。バイトにだって犬飼さんもいない。その事実に背中に氷を詰められたように震えたが、それを上回った感情があった。

 

なんかもう、どうでもいいや。




 僕を現実世界に引き戻したのは、やはり部屋の中からの着信音であった。おそらく眠っていたのだろうが部屋は未だ闇に覆われ、不自然に玄関で丸まっている体もさほど痛みを訴えていないので、どうやらそれほど時間は経過していないのかもしれない。

 それでも先程よりも少しだけ頭の熱も晴れていたため、体を起こし部屋の中に向かう。僕がその電話に出たのはそれが予想もしない意外な名前だったから。


「もしもし」

『おお、さぬっきー。悪いね夜遅くに』


 僕を嘲笑いに来たのだろうか。だがいつもの何も考えていないような高いテンションが、僕を現実とは別の世界に連れ去ってくれた様な気がして逆に気を楽にしたのも事実だ。

「いや、別に良いよ」

『心配したんだぞ。もしかして体調悪いのか? 酷い声してんぞ』

 彼は本当に何も知らないんだろうかと疑念を持ったが、彼に演技ができるとも思えない。


「いや、ちょっといろいろあってね」

『なんだよ、まさか春香ちゃんと喧嘩でもしたのか』

 藤森は藤森のままなんだな。ありがとう。

「まあそんなとこかな。それよりさ聞いてくれるかな」

『あん、どうしたそんな改まって。先に言っとくけどいくらさぬっきーでも金なら貸さないからな。あっと、これは別にさぬっきーだからってわけじゃなくてそういう主義なだけだから悪く思うなよ』

 その見当外れの推測にふふふと声が漏れる。まだ笑えたんだと自分自身でも驚きのあまり頬を撫でた。

「違うよ、そうじゃない。藤森はさ」

 すう、と吐息を溜める。


「藤森はいなくならないでくれるかな」

『何言ってんだよ、さぬっきー。俺はいつだってさぬっきーの親友でいたいと思ってるぜ』

 全く間を開けることなくさも当然だと言いたげに言い切った。それを合図に再び目の前が淡く霞み揺れ出した。


『何かあったなら聞いてやるから、明日は絶対学校に来いよ』

 約束だからなと強く念押しをして、電話は切れた。



 様々な想いが嵐のように脳内を吹き荒れた。だが胸に抱いた確かな一つの想い。



 明日は学校、行かなくちゃな。

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