ep.14 ニアミス

 狭い事務所に鳴り響いたその音は、まるで待ち構えていたかのようにワンコールで鳴り止んだ。


「はい、こちら住マイル本舗桜木店の柳田です」

 男がそう電話口で語りかける。胸のプレートには先の言質通り柳田と書かれている。目を引くのは五ミリほどで揃えられた坊主頭。そして程良く日に焼けた黒い肌、スーツの上からでもわかる程の筋肉質な腕回り。一目でその筋の人か、そうでなければ体育会系出身の人物だと伝わるだろう。


「はい、はい。畏まりました。それでは十一時に。はい、お待ちしております」

 歯並びの良い白い歯を覗かせそう締めると、受話器を置いた。小気味よく目の

前の卓上カレンダーに『十一時~高木様』と大きく記し、今度は小さく頷いた。


「何かいい事でもあったか」

 事務所の奥から別の三十台位の男が顔を出す。その口ぶりは何も知らないと言いたげだが、タイミング的に電話が終わるのを待っていたのだろう。こちらの男にはプレートが付いていない。

 その声に柳田はすっと立ち上がる。奥の男は柳田よりも一回りは小さいが、決してこの男が小さいというわけではない。むしろ男の方が大きいとも言えるだろう。少なくともこの二人の間では。

 柳田は一瞬困ったような顔をしたが、すぐに先程までのさわやかな表情を作り、微笑んだ。


「この街に引っ越してくる新婚の夫婦が、春からの新居を探したいそうです」

「それは有難いことじゃないか。単価の安い学生ばかりじゃノルマも厳しいからな」

 男はそう言うと、ゆっくりと柳田の肩に手を掛ける。それは励ましの肩押しというよりももっとねっとりとしたもの。


「なあ、わかってくれるよな」

 笑みを浮かべてはいるもののそれが心からの好意でない事は一目瞭然だった。自分が何を要求されているのかわからないほど、柳田という男は愚かでは無い。


「また、ですか。先輩」

 声を落とし、囁くようにそう言う。先輩と呼ばれた男が、その肩に掛けた手に一層力を込める。


「頼むよ、男手一つで娘を育てるのは大変なんだ」


「ああ、香奈ちゃん良い子ですよね。でも、それとこれとは別ですよ。そんな良心に訴える様なこと言われても、私もノルマギリギリですし」

「そこを何とか。この通りだ」

 そう言って男は頭の上で、パンと手を合わせた。瞳が右に左に動いた後、柳田は小さく了承した。



 事務所に掛けられた時計の針が十五時を示した頃、男は一人で帰って来た。店に残っていた柳田もどうでしたかと言いかけたが、その表情は契約が決裂した事を物語っていた。


「どうもこうもない。ちくしょうあの夫婦。散々連れまわした揚句、最後の部屋でなんて言ったと思う?」

 男はクリアファイルを卓上に投げやる。中から実際に巡ったであろう賃貸物件をまとめた資料が扇状に広がった。


「最後の部屋って、桜が綺麗に見えるメゾネット高峰ですよね」


 飛び出た資料を揃えながら柳田が言う。ああ、と吐き捨てるように返事をする。

「立地も良い、間取りも良い。家賃だって少し高いが予算内だ。今まで廻った中でも最高だという言質も取った。もうここで決まりだなって思った時、旦那のほうが携帯を取り出して、何か検索してると思ったら、なんて言ったと思う」


 再びその質問をぶつけた。柳田は何か言わなければと思ったのだろう。少し間を開けて


「学生が多いな、とか? 」

 彼はうるさそうに小さく首を横に振る。

「電車の音と振動がうるさい」

「やっぱり階段はいや」

「まさか先輩が気に入らない」

 矢継ぎ早に投げかけるが、彼は目を閉じて否定するだけだ。最後の答えの直後には舌打ちが聞こえた。


「じゃあ一体何なんですか。私にはもう見当もつきません」

両手を上げ、噛みつくように男に言った。彼は息を吸い、乱暴にこう言った。


「『あっ、駄目だ。近くで人が死んでる』だ」


 予想外の答えに坊主頭の口から、気の抜けたような声が漏れた。

「近くで死んでいるから嫌だとよ」

 刻みつけるかのようにもう一度言った。呆然としていた後輩もそれを聞いて動き出した。


「確かに今はネット上に事故物件マップを集めたサイトもありますが」

 柳田は鍵の付いた戸棚からバインダーを取り出すと、ぱらぱらとページを捲った。

「ただ、ここ数年でその周辺でという情報は手元には無いですね」


 何かの間違いでは、と男の顔を見るが、彼はぎりぎりと音を立てて歯を食いしばっている。柳田が先輩と声を掛けるとやっと薄く口を開いた。


「当り前だ。もう十六年も前の話だぜ」

 柳田は彼が目を細めてそう呟くのを見た。

「そんな十六年前の自殺なんて、ネット上に残ってるんですか? ニュースにもなって無いでしょうし」


「誰も自殺と言っていない」

 男はそれだけ言うと、バインダーを整理している柳田に向き直り、深く頭を下げた。

「悪いな、お前から奪ったチャンス無駄にしちまった」

 柳田の手は止まっていた。それ自体は彼が自殺とは言っていないと口にした時からだったが、今はそれに加えてその表情も膠で固めたかの様に時を止めている。 

「ちょっと、止めてくださいよ。先輩らしくも無い」

 慌ててそう制す。大きな男が自分よりも頭一つ小さな男に慌てふためく。が、すぐに白い歯を覗かせた。 


「それに私のノルマも大丈夫です。先輩がいない間に良い事がありましたから」

 それを受けて、男もようやく顔を上げる。


「何だ、無知な学生の客でも来たか」

 そう言って椅子を引き出しどかりと座った。数秒前のしおらしさが嘘のように、いつもの高圧的な態度に戻っている。

「とんでもない。先輩くらいの年の夫婦が来て、内見もそこそこに契約してくれたんですよ。グランディアSAKURAを」

「何だって」


 音を立てて詰め寄る。その顔は、さきほど柳田の肩に手を掛けた時と全く同じだった。

「もう契約書も作成してますから、さすがに先輩には引き継げませんよ」

 嫌な予感を感じ取ったのか、同じことが繰り返される前に、柳田はそう制した。


「くそ、行くんじゃなかったぜ」

 そう言って頭を抱える。直後に不機嫌な様子で

「内見もそこそこにって、小金持ちなのか?ちょっと見せてみろ」

 自分と同じくらいの年齢であの物件を即断、という事が気に障ったのか、乱暴にそう言う。柳田が引出しから数枚の書類を取り出す。


「これです、そうだ先輩この人知ってますか? ちょっとした有名人なんですよ」

 男はそんなもんは良いから、と奪い取る様にそれらを手にした。横から柳田も覗きこむ。ふん、東京からね、こんな田舎にご苦労なこったと毒づきながら上から順番に情報を追っていた眼球が、ある時点で落ちるのではと心配になるほど見開いた。直後、


「何分前だ」


 椅子を勢いよく滑らせ男が柳田に詰め寄る。

「この客が来たのは何分前だ」

 柳田はどうしたんですか急に、とのたまった後、

「そうですね、帰られたのは40分くらい前ですか」

 曖昧な記憶を呼び起こしそう答えた。男はそうかとだけ呟き、再びそのチェアーに深々と腰掛けた。


 その顔は少し、笑んでいるようにも見えた。

 




 風が少し冷たさを増し、夕日に影を落とす室内に物悲しさが満ち始めた頃、錠の開く音が響いた。


「ただいま」


 無論少女は知っている。その声を飛ばした先には誰も居ないことを。そうであっても、敷居を跨ぐ際にそう言うのは彼女の中で習慣化していた。

 誰もいない部屋に少女は鞄を置き、慣れた手つきで夕飯の準備を始めた。

 三十分ほどで室内には良い匂いが立ちこめる。最後の味見を終えガスを止めた少女は「そういえば」と呟く。そのまま台所からリビングを抜け、風呂場の手前にあるドアを開けた。五畳ほどのその部屋には、オフィスで使うようなキャスターが付いた椅子と机、あとはノートパソコンとちょっとしたオーディオ機器がある程度だ。書斎とまではいかないが、用途はそれに準じた部屋だと言うことが窺える。

 少女はその中でチェアに腰をおろし、パソコンの電源を入れる。聞きなれた電子音が流れた後、ユーザ選択のボックスが立ちあがった。少女はその中から『香奈』というユーザを選択し、そのまましばらくネットサーフィンをしていたようだが、


「これのことかな」

 ふいに少女がそう呟いた。画面からは赤いスーツを着た二人組がリコーダーを吹きながら奇妙な動きをすると、観客が爆笑している様子を映した動画が流れている。その間抜けで楽しげな音声とは裏腹に、彼女の表情筋はピクリとも動いていない。


「聡史君、こんなのが好きなのかな。よくわかんない」

ふうと溜息をつくと目的を終えたのか、パソコンを閉じる。その時、机の最下段の引き出しが閉まりきっていない事に気が付いた。それが彼女の目を引いたのは、そこは常に鍵が掛けられていたはずだから。今朝のごたごたの際、閉め忘れたのかもしれない。少女は少し躊躇した後、引出しを大きく開け、まじまじと眠っていたそれを見る。

 それはただの手帳と呼ぶには随分と造りのしっかりしたもの。クロス張り加工の施された黒い表紙には金箔で鍵と錠があしらわれ、落ち着いた上品さと高級感が感じられる。手に持ってみるとずしりと重量感があり、ちょっとした単行本よりも分厚そうだ。表紙にはこれまた金箔でOne year Diaryとあるので、おそらく最低でも三百六十五ページはあるのだろう。


「お父さんのかな」

 片付けなきゃ、と口では言っているものの、その目はその密書から離れることは無かった。

 少女は同年代の子よりも、常識も倫理観も持ち合わせたませた少女ではあったが、まだこの世に生を受けて十年そこらである。いくら周囲よりも大人びているとはいえ、好奇心と言った精神的にはまだまだ子供の域を出ないであろう。それに大好きな父親の秘密が、ページ一枚向こうで赤裸々に語られているという事実が一層興味を掻き立てるものだ。

 少女は少し周囲に目をやった後、ゆっくりと適当なページを開いた。家族思いの少女が自発的に、何年振りかに行った『悪い事』。その向こうに踊るのは間違いなく父親の直筆の文字。


『十月四日

「お父さんとお母さんはどうやって出会ったの?」娘にそう聞かれた。

 思春期の子を持つ親なら一度は投げかけられるであろう素朴な疑問だが、香奈ももうそんな年齢か。

 俺は「お母さんは、お父さんの友達の知り合いだったんだよ」と答えた。香奈はふうんと納得したようだがあれで良かったのだろうか。誤魔化しているようで胸が痛い。

 少し思い出した事があるので、気持ちの整理と懺悔も兼ねて書き出してみる。


 たしかその日は雨だった。まるで集まった人々の気持ちを代弁するかのように。知らせを受け集まった俺たちが見たのは、眠ったような友人の顔。そしてそれに追い縋る様に泣きはらす彼女。

 大切な人を亡くしたばかりのその女性の顔は、その人のためだけに流す涙は、とても美しかった。

 出会いこそは予期せぬ不幸の場であったが、それ故に大切なものを亡くした彼女を支えたかった。彼女が亡くしたピースを共有し、彼女は俺に少しずつだが笑顔を見せるようになった。その顔にまた惹かれ彼女との距離を縮めていき、いつしか俺たちは他言ならぬ仲となった。

 そして彼女の妊娠の発覚を機に、ついに俺は彼女と結婚した。そして大きな痛みと引き換えに生まれた娘。俺は愛する妻の名前から一文字取り、香奈と名づけた。

 

 そうだ。「友達の知り合い」などという言葉に逃げているが、俺は奪った。

 さぬっきーの大切なひとを。

 俺は醜い奴だろうか』


 

 文書の序盤こそは、私のことだと微笑ましく読み進めていた少女であったが、読み終わる頃にはそれも消え失せていた。自分の中の大切の場所が、どきんと一度大きく脈打ったのを感じた。


「どういうことなの?」

 少女は聞き覚えのない『さぬっきー』という人物についてさらに詳しい情報がないかと、最初から読み直す。だが日記に次々と上がるのは仕事への愚痴や今はいない妻への想い、自分の成長を喜ぶ記述ばかりだった。残りのページの束が薄くなるごとに、少女の目は大きく見開かれていった。四月一日から一日たりとも欠けることなく紡がれたその記憶は、とうとう現在に繋がった。


「昨日の日記だ」

 そしてそこに答えがあった。それが少女の求めるものかどうかは別の話だが。


『二月十二日

 最近、香奈を見ていると思うことがある。よく似てきたなと。もちろん母さんに。だがもう一人。


 香奈が成長するごとに、さぬっきーの面影が見え隠れすることがある。妊娠の知らせを聞いた時からそうなる予感はしていた。だがまさかこうまでとは。特に口元は本当に似ている。やはり香奈は彼の血を引いているのだろうという気になる。

 そうだ、近いうちに香奈を彼に会わせてやろう。その方が香奈も、彼も喜ぶだろう。

 そうだな、桜が咲く頃には』

 

 少女の口から放たれる呼吸が早くなる。ページの端を摘まむその小さな指が震えている。それらは明らかに少女が今、平常では無い事を物語っていた。


「さぬっきーはお父さんの友達? でも死んじゃってお父さんがその彼女を奪ったの? だけど私のお父さんは、本当のお父さんじゃなくて……」

 断片的な情報を整理するように一人たどたどしく呟いた。だがその内は、いたいけな少女にはあまりにも似つかわしくない残酷な内容。そこれだけ言うと少女はそのまま座り込む。大きな声こそあげなかったものの、その頬には涙が伝い、啜りの合間にはお母さん……と嘆きの声が漏れていた。

 少女が好奇心から覗いた世界で知ったのは、父親と二人、華やかさは無いが穏やかな毎日を送ろうとする純粋な心には到底受け止めきれぬことだった。



「何をしてるんだ」

 その声にゆっくりと顔を上げる少女。泣きはらしたためか、眼元が真っ赤に腫れている。そのぼやけているであろう視界の先にはいつ帰って来たのか、父親が立っていた。その存在に今の今まで全く気が付かなかったわけだが、それ自体は瑣末な問題だった。

 いつもならばおかえりなさいと微笑み、ご飯出来てるよとでも得意げに言うのだろう。だが今日は違う。


「さぬっきーって人が私のお父さんなの?」

 男は三度、肩がぴくりと上がった。一度は娘の顔を見た時、二度目は娘の声が、息も絶え絶えなほどに震えていたこと、そして三度目は娘の知るはずのない『さぬっきー』という響きを、その口から聞いた時。狼狽する男の視界に机上に投げ出された一冊の本が映る。

「お前、日記を見たのか」

 目を細めてそう言う男の表情からも語気からも怒りの色は感じない。諦めや全てを受け入れるといった感情の方が強く出ている。少女はその問いかけに頷きはせず続けた。


「死んじゃった彼の所に私を連れていくって、どういうこと?」


 先程よりも震えの強く出た声だった。いつもなら争いを好まぬ二つの垂れた目が、今は男を鋭くとらえる。縁からは今にも雫が零れそうな二つの目で。

 男はそこまで見られたらもう隠しきれないか、と観念したように頭を二三掻き毟ると腰を落とした。二人の目線が水平にぶつかる。男の目が赤く充血した目を真っ直ぐに捉えた。それに合わせて大きな手が、小さく震える両肩を掴む。


「いいか、良く聞けよ。さぬっきーってのは……。」




 少女は自分に置かれたその指に、ぐっと力が込められるのを感じた。 

 

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