ep.13 急転
ふうと先輩は深い息を吐く。やっぱり噂に違わないわねと鼻息を荒くしてリモコンを構える。僕としてはまだ余韻に浸りながらエンドクレジットが下から上へと流れるのを見ていたかったが、それも叶わず断ち切られた。
結論からいえば確かに心拍数は上がったし、目を覆いたくなるようなグロテスクなシーンも多々あった。だがそれだけだった。ジャンプスケアを多用しすぎて日本のホラー映画のような、静かに悠然とそこにある奥ゆかしい恐怖は全く無かった。
風呂場で思い出して怖くなるようなものではなかったことに安心した。ただ高橋君だけは、頭を抱え見るんじゃ無かったとしきりに呟いている。教育が足りないようだ。
「確かに吃驚するシーンが多くて、ドキドキしましたね」
素直に思った事を口にした。先輩もうんうんと頷く。
「芝刈り機に赤ちゃんが撒き込まれるシーンと覗き穴に釘を打つシーン。あれはキタね」
名水のせせらぎ百選のナレーションでもしていそうな声でおぞましいことを言ってのける。そのギャップが却って不気味だということに気が付いているのだろうか。非常に恐ろしくはあったが、その後に先輩が言った
「じゃあ、あと二作あるから気合い入れてね」
という言葉はもっと恐ろしかった。
「二人が来てくれて良かったわ」
最後のDVDをケースに仕舞いこみながらそう言う先輩。そんなことないですよ、僕も楽しかったですよと返す。なんだかんだで僕自身も楽しく見てしまった。
先輩は先程から更に口数が少なくなった高橋君を一瞥し、
「高橋君は次はアクションものにしようかしら」
と悪戯っぽく笑った。
「お手柔らかにお願いします」
というおよそ見た目からは想像もつかない言葉に僕も彼女も笑った。つられて彼もはにかんだ。
「笑った顔は可愛いんだから、もっと見せたらいいのに」
と先輩が言うと、今度は耳まで赤くして俯いてしまった。その気になれば僕を三十秒で殺せそうな体をしているのに今は先輩のたった一言に褒め殺しにされてしまっている。
ちらりと壁にかかった時計を見ると、いつの間にか十八時を回っている。これ以上はお邪魔していても悪いだろう。
「今日は予定もバイトも無いんでしょ」
僕達が動くより先に先輩がそう訪ねた。僕は、まあそうですけど、と相槌を打つ。
「じゃあゆっくりしていけば。家もここから近いんでしょ?」
そう言って先輩は僕の返事も待たずに、ドアを開けて台所へと立った。その隙を待っていたかのように、彼が僕に耳打ちする。
「そろそろ用事があるので帰らないといけないんです。犬飼先輩には言ってあったんですが」
その困ったような口ぶりから、逃げるための方便では無く、どうやら本当に予定があるのだろう。だが彼の性格上、それを言い出せないのだろうというのは想像に容易い。
僕はゆっくりと頷く。実をいえば、僕もこれに便乗してお暇しようという画策は十二分にあった。さすがに先輩とプライベートで二人きりというのは荷が重い。
何も知らず鼻歌交じりに新しいミルクティを持ってきた先輩にこう言った。
「あの、そろそろ帰らないと。この後予定があるので」
「今日は予定無いんでしょ? さっきそう言っていたじゃない」
間髪いれずに先輩はそう言う。これには僕もぐうの音も出ない。
「僕じゃなくて高橋君が……。」
先輩として泣く泣くそう言った。先輩はそれは残念ねと言うと、見送りのため玄関先まで着いてきた。僕も階段を下りて着いていくが「香川くんはまだ帰らないんだよね」と念押しをされているため鞄は持っていない。
そんな僕の気持ちを知ってか知らずか、先輩とその先輩に見送られ、高橋君は何度も頭を下げると闇がかった街に消えていった。少し後を引くような、後ろめたそうな足取りが意外だったが、もしかしたら僕に対しての謝罪の念の表れなのかもしれない。
少し感慨深い気持ちになっていると、先輩はそれじゃあ戻りましょと短く言い、階段を上って行った。その背中を追おうとしたその時、
「あれっ、香川くん?」
ヒールの音と共に、聞きなれたその声。相変わらず僕を優しく敬語で呼ぶのはそう、今度こそ彼女だ。そこには驚いたような顔でトートバックを提げた春香さんが立っていた。突然の出会いにも関わらずその顔が嬉しそうにも見えるのは、僕の願望が多分に混じっているからかもしれない。
「どうしたんですか? こんなところで」
「バイトの先輩が住んでいるんですけど、なかなか帰してくれなくて」
冗談交じりにそう答えたつもりだが、言い終わってから全く冗談では無いことに気が付き胃が重くなった。一体いつになったら帰してくれるのか。
「よくわからないけど大変そうですね」
そう言って春香さんは眉をひそめて笑ってくれた。本当はこのまましばらく春香さんと話をしていたかったが、それは叶わぬことだった。
「香川くん、何してるの? いつまで私を一人で待たせる気なの?」
姿は見えないが、そう呼びかける声が上の方から聞こえたからだ。もちろんあの先輩の声だ。本当にせっかちな人だなと思い、同意を求めるように、本当に大変ですと、と春香さんに投げかけた。本当に何気ない気持ちで。
「女性の方、だったんですね」
返ってきたのはそんな言葉。戸惑ったようにそう言う春香さんを見た瞬間、ふいに胸の奥がぐっと締め付けられる感覚に襲われた。
「ああ、いえ、ただのバイトの先輩なんですけどね」
言い訳をするようにそう言ったが、目の前の彼女の目を見る事は出来なかった。すっと短い沈黙の後、それではと、足早に階段を掛け上った。彼女の階段を上る足音が聞こえる前に部屋に戻ると、先輩は怒ったような呆れたような顔で僕を迎え入れた。
「何をしてたのかしら」
それはバイト中に僕や高橋君を叱るのとはまた別の、もっと感情が滲み出ている様な言い方だった。すっと部屋の温度が下がった気がした。
「下で知り合いにあったので」
正直に告げる僕に「そう」と短く呟くと、次の瞬間には再びいつもの人当たりの良いお姉さんの顔に戻っていた。そして用意して待っていたのだろう、湯気を立てているマグカップを僕に差し出してきた。両手でそれを受け取ると先輩は隣に座った。ふわりとミルクティとはまた別の、甘い香りがした。
先輩は何も言わない。ただカップを両手で持って時々こちらを見遣るだけだ。
「僕も、そろそろ帰ります」
先輩の顔色を窺いつつそう切り出したのは、ミルクティに口を付けた直後の事だった。だが先輩は今度はちらりともこちらを見てくれなかった。それどころか
「良いお酒があるのよ。ご飯と一緒にどう? 」
聞こえていないはずは無いのに、まるで今の言葉が届かなかったかのようにそう言う先輩。怖くてその表情を見る事は出来ない。例え先程までの様ににこやかに微笑んでいられたとしても、だ。
「その、僕はまだ未成年なので」
そう言って席を立とうとすると、先輩もそれを制するように立ちあがった。
「ああそっか。ごめんね。じゃあ、ご飯だけでも食べていってよ」
頭の片隅で、講義でうっすら聞いたドア・インザ・フェイスってこんな感じだったよなと思った。それでも僕はおいとましなければ、という決意が折れたのは、部屋の片隅、カーペットの上に置いたはずの鞄が無くなっている事に気付いたから。
そこはかとない寒気と共に僕は頷くしかなかった。
いいから座っていてと先輩はキッチンの方へと向かって行ったが、決してその台所とワンルームを仕切るドアを閉めはしなかった。その上「テレビでも見ていてよ」、「もうすこしだから」と時折機嫌よさそうに顔を覗かせるので、隠されたものを探す事など出来やしなかった。
表情や声色こそ気持ちのいい振舞いに見えるが、行為としては完全に『監視されている』気がして、目の前を流れるバラエティ番組など頭に入っていなかった。
体感時間としては恐ろしく長く感じたが、現実には一時間も経っていないのだろう。ゆえにテーブルいっぱいに並べられたこれらの料理は驚くべき手際でつくられたという事になる。それらの料理について先輩から一つずつ説明を聞いたが、ビーフシチュー以外のどれもが聞き慣れない名前だった。そのビーフシチューでさえも、昔ホテルでしか食べたことが無いような、塊のスネ肉が入ったものであったので僕にとっては初めて見るものと同義であった。
そして最後に出てきたもう一つ。僕には無く先輩の前にだけ鎮座している物。ボトルワインだ。筆記体で書かれているためラベルの文字は読めないが『1988』という数字だけは見て取れた。
「誕生年ですか?」
先輩の細い眉がピクリと動いたかと思うと、すぐにそれは緩やかなアーチ状になった。
「さすが香川くん。親がこの前贈ってくれたの」
「そんな大事なものを、僕との食事で開けてしまっていいんですか」
そう言ったのは向こうへの気遣いというよりも、自分との食事を特別なものにしてほしくないという想いから。
「だめかしら。本当は一緒に飲んでくれたら言う事無いんだけどね」
そう言って目を細めると
「まあ、そんな事より冷めないうちに食べて食べて」
促されるまま、目の前の料理を見よう見まねで口に運ぶ。早く家に帰って風呂にでもゆっくりつかりたい。
だが、言いたくは無いが、先輩の料理は見てくれだけでなく味の方も絶品だった。それだけにさぞや材料費もかかっているだろうと思案が巡り、普通、後輩が遊びに来ただけでこんな料理を振舞うだろうか、と余計に不安になった。
そしてさらにもう一つ不安になったこと。先輩のグラスを煽るペースがどんどん上がり、それに付随して口数が増えている。もう今の先輩は僕の返事を待つなどという憂長なことは一切しない。トロンとして動かない目とは対照的に、それこそ矢継ぎ早に口を動かしている。こんなときでもあの優しい声色を保っているのはさすがとしか言いようが無い。
いつの間にか、最近の男どもはふ抜けている、根性が無いなどという説教じみた話が展開されている。目の前のボトルは既に三割ほどしか残っていない。春香さんとは別の方向で酒癖が悪いなと思った。嫌な予感も手伝って、はいはい、もうこの辺にしましょうと窘めている時にそれは起きた。
「香川くんはどっちかしらね」
ふいにそんな言葉が聞こえた。それが先輩の口から発されたものだと気が付くには少々の時間を要した。
最初は聞き間違いだと思った。だが、その音が特定の意味を持つ言葉の羅列だと改めて認識できた時、心のどこかで、やっぱりか、という想いが無かったと言ったら嘘になるだろう。返答に困り黙っていると
「気付いているんでしょう? どうして応えてくれないの?」
ぼそりと彼女が言った。その目は僕を見ているような、もっと遠くを見ているような、つかみどころが無い。
「飲みすぎですよ」
ぼくはその質問をあえて聞こえないふりをして、語気を荒げてそう言った。正直に言うと僕は言葉でも、行動でも、彼女のその投げかけに応えることから逃げたのだ。
「もうこの辺にしましょう。片付けは僕がやりますから」
立ちあがり彼女の返事も待たずに食器をまとめる。食器を重ねるのは傷が付くから良くないと聞いたこともあるが、今はとにかく、早く机の上を片付けたかった。事が、何か取り返しのつかない大きな事が起きてしまう前に。食器が積み上がり狭いテーブルが姿を現す。それをまとめてシンクへと運ぶ。かちゃかちゃと震わせながら移動を終えると、今度は僕が
「座っていてください」
そうテーブルへと投げかける。
だが、その先に彼女は、いなかった。
ふわりとお酒に混じって甘い香りが鼻に届いた。
「私は好きなんだよ」
背中を通して感じた、温かく、そして今まで感じた事の無い柔らかさ。
数枚の布を隔てて伝わる女性の体。心の奥がざわついている。
僕達は今、一線を越えようとしているのかもしれない。
「嬉しい言葉ですが」
こんな前置きをする自分がずるいなと感じた。どうせ答えは決まっているのに。
「僕は犬飼さんを先輩としてしか見られないです」
濡れた瞳が僕を見上げる。そんな顔をされても、僕は言わなければいけない。
「それに、今の犬飼さんの、酔っている犬飼さんの告白は受けられないです。告白はそんなに気まぐれでするものではないと思います」
喉の奥から絞り出すように、やっとの想いでそれだけ伝えた。何度唾を飲み込んでもからからに乾いたままの喉からは、もうしばらくは声を出せそうにない。
彼女はそれを聞くとその場に座り込み、気まぐれ? そう思うんだ、と呟き涙を流した。
僕はどうする事も出来ずに、ただ目の前の夢の残骸を片付け始めた。最大まで上げた水流の音に時折混じる嗚咽の音が僕の胸を締め付けた。
全ての片付けを終えた時、既にすすり泣く音も、込み上げる嗚咽も聞こえ無かった。聞こえるのは静かな寝息だけ。いつのまにか扉にもたれるように眠っている彼女。僕は彼女に布団を掛け、やっと見つけた鞄をテレビ台の裏から引っ張り出し、部屋の明かりを消すとそのまま音をたてないように部屋を出た。
ありがとう、ごめんなさい。口に出たか出ないかの大きさで、そう呟いた。
暗がりの中、すれ違う人たちの視線を感じながら桜通りを駆け抜けた。外はそこそこ冷えているはずなのに、頭が、頬が、熱を持っているのがわかる。
ぼやけ、街灯の光が筋となって伸びる視界の中で考えた。
これでよかったのだろうか、あの一線を越えていたらどうなってしまっただろうかと。
いや、違う。
もう僕は、既にその一線を越えてしまったのかもしれない。後戻りできないその一線を。
僕と先輩との関係など、もう戻せないかもしれないのだから。
闇の帳は重しのように、ずしりと僕の体にのしかかった。
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