ep.12 一線

 物事には何にでも「きっかけ」というものがある。

広瀬が美少女ゲーム、ひいてはアニメを始めとするオタク文化に手を染めたのは、まだ彼が小さい頃、日曜早朝に放送していた魔法少女もののアニメがきっかけだったという。

 女兄弟のいない広瀬家であるにも拘らず、毎週のようにリビングでその番組が流れていた理由、最初の理由は『その次にやる戦隊ヒーロー番組を見忘れないためにテレビを付けておくから』というものだった。勇ましい音楽と共にヒーローが現れると、幼い三兄弟はテレビの前に競うように集合するらしい。

 三男である僕の友人は、そんな場所争いにいつも負けていた。そこで幼き彼は小さな頭で一生懸命考えた。そして出てきたのが「始まる前からテレビの前で待っている」であった。

 そこで彼が目にしたのは、今まで見た事のない不思議な世界。優しいお姉さんがスカートを翻し奮闘する様。いつしか兄弟が集まるまでに、彼の目的は終えるようになった。

 あとはもう坂を転がる如く、である。

 初めてその魔法少女のフィギュアを買ったことで、歯止めが利かなくなったという。


 そうだ、誰にでも越えたらもう戻ることのできない一線と言うものがある。程度の大小こそあれど、一度越えてしまったら、もう二度と戻ることができないライン。

 それでいうなら僕は今、越えてはいけない一線を越えようとしているのかもしれない。



 藤森の彼女騒動から5日後。あれは仮免許取得が決定した日。

この日は僕にとって一生忘れ得ぬ日となった。


 効果測定終わりの昼過ぎ。太陽は折り返し地点を少し過ぎたところではあるが、もう真夏の盛りの頃ほど永くは照らしてはくれないだろう。そんな事を思いながら空を見上げた僕がいるのは、西桜木駅のホーム。西桜木駅、その名の通り桜木駅の一駅だけ西の駅。バイト先に最も近い駅。駅自体はそれ以上説明のしようも無い。

 僕がここに来た理由ならばもう少し話すことができる。それは数時間前、まだこのあとに仮免試験を控え、緊張しながら講義を受けていた時間に差し出された同一人物からの二件のメールだ。と言うと『また春香さんか』と思われるかもしれないが、今日は違う。

『お疲れ様です。犬飼さんに誘われました。助けてください』


『二時に西桜木駅周辺で待ち合わせです。怖くて断れません』

 よほど切羽詰まっているのか、絵文字も顔文字も無い無機質な文面。まあ男同士で絵文字を特盛りにされてもそれはそれで気色悪いのだが。それに、彼元来の性格からしてもこれが自然なのかもしれない。

 彼、高橋君とは、今年大学生になったばかりの男の子で、簡単に言えばバイトの後輩だ。彼は芯が無いわけではないが物静かというか、気の弱い人物で、彼と雑談ができる人物は数えるほどしかいない。

 その中で彼が連絡先を知っていてプライベートでも連絡をできるのが、コミュニケーションおばけの犬飼さんと、なぜか懐いてくれた僕だけである。ただ、「なんか安心します」と言われる僕は置いておくが、返事も待たずに喋り倒すという犬飼さんは、まさに彼と対極に位置する存在であり、そんな懐奥深くに飛び込んで来る彼女を若干苦手に思っている節があるようだ。

 もちろん犬飼さんとしては、なかなか周囲と馴染めない彼の事を気にかけているようで、早く馴染んで欲しいという彼女なりの親心があってのこと、ということはよく伝わってくる。だがそれ以上に僕は、彼女が彼の事を好きなのではないかと密かに睨んでいる。根拠は彼女が以前何かの雑談の時に、やっぱり男は逞しくなきゃねと言っていたことと、ただのチェリーの勘だ。

 そんなわけで彼からのSOSを受けて、とりあえず中和剤というか、緩衝材としてここまで来たはいいものの、十四時にこの近辺という以上の情報がない。

 さてどうしたものかと、うろうろしていると、背後から聞き覚えのある声を掛けられた。


「あら、香川くんじゃない」

 明らかな女性の声にびくりと肩が飛び上がる。聞き慣れつつある春香さんではない。綺麗ではあるが彼女からもう少し淑やかさを取り払ったような声だ。


「何驚いてるのよ、と言うかこんなところで何してるの。まさか私のストーカー? 」

 そう言って悪戯っぽく笑うフワフワした髪型の女性。すぐに見覚えを感じなかったのは、彼女が眼鏡をしていなかったからだ。その脇にはこの世の終わりのような顔をした高橋君が立っていた。彼は高校時代ウェイトリフティングで鍛えたと言う筋肉を纏い、身長もそこそこ大きいはずなのに、今はゴムまりのように小さく見える。


「散歩ですよ。好きなんですよ、歩くの」

 全くの嘘と言うわけではないが、もちろん今この瞬間の答えとしては適切ではない。僕が肩から提げている鞄を一瞥すると彼女はふうんと呟き、まあそう言う事にしておいてあげるわと妖しく笑った。


「ってことは今暇なんでしょ、せっかくだし付き合ってよ」

 僕は心の中で微笑むと、一寸考え込む素振りをした。高橋君には悪いが、誘われなかったらそれまでだったので内心はほっとしたのだ。


「まあ、今日は予定は無いので時間はありますけど、付き合うって何に」

 彼女はその問いには答えずに、ふっと笑みを浮かべると、ずんずんと近くのマンションに入っていく。見覚えのある外観。いつか僕がビラ配りをした、あそこだ。

 というより春香さんのマンション。

 戸惑いつつも僕も黙って付いていく。高橋君が僕の横まで小走りで来て、ありがとうございますと小さく言った。悪い人じゃないから安心しなよ、と背中を叩くと、掌から高密度の肉感が伝わってきた。彼は雄々しいそれとは対極的に、それはわかるんですがと弱気に漏らす。その間にも先輩は一階、二階と慣れた足取りで階段を上る。

 前回、僕が渡せなかったからそのリベンジをしろ、と言う事なのだろうか。

 三階。僕達が階段を登りきると、先輩は既に春香さんの部屋の隣、三○二号室の前で立ち止まっている。そしてインターフォンを押すことも無く、無遠慮にドアノブに手を伸ばした。


「大丈夫なんですか」

 僕は慌てて駆け寄る。いくら先輩でも不躾すぎますよと。


「自分の部屋に入るのに、ノックしないといけないのかしら」

 彼女はくすりと笑ってそう言ったが、すぐにはその意味が理解できなかった。



 玄関に入るとまず有ったのは木製の靴箱。これらに収納しているせいか、目に見える位置には一足も無い。そのおかげで一畳ほどの玄関も広々と感じる。適当に脱いでと促され、奥へと進む。右手にキッチン。左手には洗面台込みの風呂場。そしてその隣の扉はトイレか。それらの空間と扉一枚隔てられて大きな一部屋、つまりワンルーム。左右対称ではあるが造り自体は春香さんの部屋と同じのようだ。

 水周りはあんまりじろじろ見ないでと言われたものの、こまめに掃除されているらしく、うちなんかよりもずっと綺麗だ。それでいて二口のコンロや流しの上にフックで掛けられた調理器具ともども、どれも良く使い込まれている。

 僕がそれらをしげしげと見ていると

「下の棚には色んな包丁なんかもあるのよ」

 と教えてくれた。

 そこを抜け、辿り着いたワンルームは淡い白を基調としたカラーと背の低い家具で統一されており、八畳ほどの部屋であったが開放感が感じられた。

 南向きの窓に頭を向け、右奥に壁付けされたベッド。その脇には白い絨毯が敷かれ、その上には小さな円卓のテーブルと桜色のクッション。反対の窓際には一メートルほどの大きな楕円形の姿見が立てかけられている。

 部屋を見回しながらカーペットの上に立ちつくしていると適当に座って、と高橋君にはクッション、僕はなぜか枕を渡された。

「そんなに広くは無いでしょう。でもあんまり広すぎても持て余しちゃうしね」

と苦笑する先輩。バイト先で見る先輩の印象から、もう少し乱雑な部屋だと思っていたため、少し驚いた。可愛らしさはあるもののシンプルな部屋。本当に先輩の部屋なのだろうか。


「ちょっと待ってて」

 と言って先輩がキッチンの方へ向かった時に、何か無いだろうかとさりげなく先輩らしいものを探す。部屋の片隅で見つけた体重計。丁度足を乗せる部分にはサインペンか何かで『世界一怖い乗り物』と殴り書されていたのを見つけ、二人で吹き出しつつも安心した。

 どうかしたのと出てきた先輩はお盆にのせたティーカップを三つ持っていた。ブランドまではさっぱりだが、お洒落で高級そうなカップだ。それがそれぞれの前に運ばれると高橋君は小さく頭を下げた。


「ありがとうございます。マイセンですか」

 とりあえず知っている陶器ブランドを言ってみる。実際にマイセンがどの程度のブランドなのかは全く知らない。


「まさか。ノリタケよ」

 そう言って笑う先輩。よくわからないがその口ぶりから、マイセンよりは庶民的なブランドのようだということは理解できた。ただあくまでも比較の話であってノリタケも庶民的とは言えない高級感が窺える。

目の前に運ばれたそのノリタケからはコーヒーとは違う、甘い香りが漂う。


「香川くんも高橋君も、コーヒー嫌いでしょ」

 事も無げにそう言う。確かに以前、バックルームでそんな世間話をした気がするがそれももう何か月も前の話だ。横の彼も驚いた顔をしているので、どうやら思い当たる節があるのだろう。


「だから今日はロイヤルミルクティ」

 そう言ってゆっくりとカップを持ち上げ、鼻の前に持っていく。


「普通のミルクティとはどう違うんですか」

 珍しく高橋君が口を開いた。先輩は微笑みながら頷く。

「ロイヤルミルクティは普通のミルクティと違って、牛乳で直接茶葉を煮出しているの。こっちの方が深い味になるのよ」

 そうなんですねと一口含んでみる。確かに記憶にある以前飲んだミルクティよりもコクがある気がする。


「ところで」

 向かいに座る先輩を見遣る。意外と肌が綺麗なんだなと思った。

「さっき言ってた、付き合ってって何なんですか? 」

 先輩は何も言わずに立ち上がりテレビ台の下を漁る。タイトなジーンズの下から、肉付きの良い臀部が浮き上がる。見てはいけない物を見てしまった気がしてあっと、小さく声を漏らす。幸い先輩には聞こえ無かったようで、何食わぬ顔で何かを持って戻ってきた。大きな目がくりくりと動いている。


「これこれ、気になってるんだけど一人じゃ怖くてね」

 手の中には『全米が漏らした』のキャッチコピーで一時期話題になったオカルト映画のDVDパッケージ。

 どうやらホラー映画を見るのを付き合ってということのようだ。

「まさか男の子なら怖いだなんて言わないよね」

 口元は緩んではいたが、その目は笑っているようには見えなかった。その目の方が怖いですとは言えず、僕達は頷くしかなかった。

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