ep.11 ライセンスー2

 その日はまだ終わらなかった。春香さんが『本をお返ししなくては』と言ったからだ。いつか買ったその日に車の中に忘れた小説。僕自身はいつでも良かったが、憶えているうちにと春香さんが言うものだから少しだけ春香さんの部屋に上がらせてもらうことにした。

 本棚で大切そうに安置されていた『嵯湾村に沈む』とは数週間ぶりの再会だったが、それよりも気になったのは、ベッドに丁寧に横たわる大きなクマの縫いぐるみ。それを見つけた時、口元が緩むのを感じた。


「ああ、何でも無いです。それは違いますから」


 僕が気が付いた事に気が付いたのか慌てて布団で覆い隠すが、小さくちょっと我慢しててねと呟いたのを僕は聞き逃さなかった。こちらに振り向いた春香さんは耳の上まで赤く染め上げ、

「見ましたか」

 目を座らせ、俗に言うジト目で僕を睨みつけた。


「いや、なにも見ていないです」

 とは言うものの、目のほころびと口のにやけは抑えられなかった。そのまましばらくは恋人のようなやりとりをしていたが、僕も春香さんも知っている。帰る前に僕にはやらなければならない事があると。

 

そしてそれはいつものように今日も唐突に始まった。

「じゃあ今日もお願いします。お楽しみの香川くんマジックショー」

 ただ独りだけの拍手に後押され静かに始まる二人だけの習慣。今日僕がポケットから取り出したのは一組のトランプ。

 ここ最近は春香さんに見せる為の練習も兼ねて、ほとんどいつでも持ち歩いているのが功を奏した。春香さんの目の前で扇状に広げ、カードがバラバラであることを確認させる。うん、うんと頷く彼女。


 この頃になると素直にマジックを楽しむというよりも『どうにかして種を暴けないか』と躍起になっているようで、春香さんはマジックの最中は自然と前のめりになり瞬きの数も減っている。だからと言えども僕だってそんなに甘くは無い。

 大袈裟にカードをカットしていく。おそらく今まで見た事のないであろうその動きに、春香さんも息を飲み見守っている。縦横変幻自在に動き奇抜にも見えるこのフォールスカットは素人相手にはちょっとしたパフォーマンスにもなる上、実はカードの並びが全く変わらないという特性がある。

 盲点というかそこを疑ってかからなければ、何時間見ていても気が付かないかもしれない。

 当然、先程の並びに完全に戻る所で手を止める。一番上のカードはハートのエースだ。


「ではこれで僕にももうカードの並びはわかりません」

僕の嘘を疑いもせずにうんうん、とまた頷く春香さん。


「はい、それじゃあ春香さん。この一番上のカードに自分だけのマークを描いてください。消えないようにペンか何かでお願いします」

「えっ、本当にいいんですか」

 何度もそう確認する春香さんに同じ回数だけどうぞと促す。そのハートのエースは二度と使えなくなるので当然と言えば当然の困惑ではある。何度目かのどうぞの後、春香さんがようやくペンを取り何やら描き始める。

 その隙に僕は別のトランプから用意していた全く同じ柄のハートのエースを裾から取り出しデックに加えた。

 その少し後、描けましたという声。

 そこにあったのは、笑顔が可愛い所謂「にこちゃんマーク」。てっきり丸や三角と言った単純なマークを予想していただけに、少々の戸惑いの目を彼女に向けた。彼女は恥ずかしそうに


「自分の好きな物にはこのマークを描いていたんです。それこそ持ち物から壁とかまで。それで良く怒られたものです。あっ、でもそれはホントに小さな頃だけですからね」

 と笑った。やんちゃだったんですねと尋ねると、そんなでもないですよと首を横に振る。


「とにかく、このマークは私の『好きの証』だったんです」


「好きの証ですか?」


 そう聞き返すと、彼女は少し赤い顔で、ええと頷いた。気恥かしくなり少しの無言のまま、僕はそのマークの描かれたカードを一番上に置くと恭しく胸の前に掲げた。

 注目を向けるためか、照れを払拭するためか、わざとらしく咳払いを一つして、

「さあ、じゃあ気を取り直して。今春香さん描いてくれたマークのカードを一番上に置きましたね」

 春香さんが頷くのを確認すると、右手を彼女の前に持っていき注目させる。そしてその右手を何かありげに束の前で小賢しく動かしている間に、ちょうど死角になる位置で左手の親指で一番上のカードを弾き、胸ポケットに滑り込ませた。これでこのマジックの種は全て播いた。


「あとは好きに切ってください」

と差し出すと春香さんは遠慮がちに切り、はい、とそれをテーブルに置いた。五回ほどしか切らなかったのは前回のマジックの時にこれでもかと言うほど時間を掛けたのに、まんまとしてやられたため、今回は裏を掻いたつもりなのだろう。そう言うところが愛らしい。


 十秒後に目をパチパチさせている様子を思い浮かべると笑みがこぼれそうになるが、ふっと我慢する。それはもうすぐのお楽しみだ。大きく息を吸い込み宣言した。

「それでは全てのカードを開けてみてください。面白い事が起こっていますよ」


 春香さんが小さく声を上げるのと同時、一番いいところでインターフォンが鳴り響いた。残念そうにちょっと待っててくださいと立ちあがった春香さんだったが、ドアモニターで短いやり取りをした後、笑顔で玄関に向かって行った。

 聞こえてきたのは朗らかな女性の声と、いつもすみませんと恐縮する春香さんの声。


「お待たせしました」

 帰ってきた春香さんはその手に一つの密封式の容器を持っていた。

「何ですかそれ」


「お隣に住んでいる女の子がですね、たまにこうやってお裾分けしてくれるんですよ。お返しに私も肉じゃがとか作るんですけど、おいしいって言ってもらえますよ」

 へえ、と透けた容器越しに見えるのはロールキャベツだろうか。僅かに窺える見てくれだけでも、その技術の高さが伝わってくるが、それ以上に気になった事を口にした。


「春香さんが食べるにしてはちょっと少なくないですか?」

 春香さんの手が止まったかと思うと、顔を赤らめ、あんなに食べるのは香川くんの前だけですよ、と口を尖らせた。

 とくんと胸が主張をした。


「一口くださいよ」

 そう言ったのはそれをごまかすためとほんの好奇心だったが、返ってきたのは

「駄目です」

 という予想に反して威圧感のある言葉だった。びくりと体をのけぞらせると、


「だって、私の作る料理よりもずっとおいしいから」


 と消え入るような声が遅れて耳に届いた。


「とにかくこれはあげられません。あっ、でも代わりに実家からもらった梨があるので、よかったら持っていってください」

ちょっと待っててください、と春香さんが席を立つとテーブルの上にはトランプの束が残された。僕は有耶無耶になったマジックの残骸を片付ける。

その日、僕が家に帰るまで、僕の胸にはついに出しそびれた微笑みのマークが、彼女の『好きの証』が確かにそこにいた。

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