ep.10 ライセンスー1

 あの日から僕達の距離は急速に縮まり、霧沢を介さずとも春香さんとの二人だけでのデートも何度か繰り返す仲になった。公園、水族館。あとはミュージカルにも行ったか。

 春香さんからしたら僕は『暇をつぶしてくれる数いる男友達の一人』なのかもしれないが、それでも僕にとっては相変わらず信じられないような日々だ。それこそ客観的事実だけを並べたら、告白こそしていないもの、既に付き合っていると言っても過言ではないと妄想するほど、それくらい僕は舞い上がっていた。

 

 そんな日々の中、最近良くあるのが運転の練習に付き合って欲しいからという名目でのドライブデート。そのたびに僕は喜んで隣に座る。だがそこから見える景色全てが楽しい、と言うわけではない。

 というのも、ここが春香さんの顔を見る特等席であるのはその通りなのだが、運転中時々不安げな表情を見せる春香さんに、何も言う事が出来ないでいたからだ。彼女が不安げな顔になるのは主に駐車と合流の時。

『助手席』に座り、こんなに近くにいるにも関わらず、車線変更のタイミング一つアドバイスできない自分にやきもきしていた。どうにか春香さんの運転を代わってあげられずとも、せめて『助手』くらいはこなしたい、僕が自動車教習所に通い出したのは、そんな理由からだった。

 

 そしてもう一つ、最近僕が春香さんの影響で取り組んでいる事、それがテーブルマジック。

 僕が、小さい頃から中学くらいまでマジシャンを目指して練習したことがあった。家族以外には見せたことないが、と頭を掻きながら言うと「じゃあ、私とあの男の子が一番最初の観客ですね」と嬉しそうに言ってくれたのが、今でも僕の心を熱くする。そんなこともあり彼女とのデート中、一人だけの観客のために新作を披露することが僕達二人の約束事となっていた。そしてそれは季節が移り替わる頃になっても脈々と続いていた。



「悪ぃ、今日は先に帰るわ」


 外部から講師を招いての一週間だけの特別講習四日目。三限目の終わり、そう言って藤森は鞄を小脇に抱え席を立った。僕も霧沢も広瀬も一様に彼を見る。無理も無い。このあとにはまだ一コマが残っているのだから。


「ちょっと用事があって。埋め合わせはするから後でノート見せて。じゃ」


 そう言って振り返りもせず講義室を出ていく。その姿が見えなくなったあたりで広瀬が声を潜めて教えてくれた。


「藤森、最近彼女ができたかもしれない」

 まあそんな所だとは思っていたが、かもしれないというのは引っかかる。その謎はすぐに解決した。由里ちゃんが教えてくれたと自慢げに言うからだ。

 そういえば前にもこんな事があったようなと思案を巡らせるが、辿り着くより早く霧沢が指摘する。


「さすがに由里ちゃん口が軽いんじゃない? この前の香川の件といい」

 ああ、そうだ。僕も彼女に煮え湯を飲まされているんだった。


「大丈夫、軽いのは口だけじゃないから」

 そこまで言うと広瀬ははっと何かに気が付いたような顔をして黙り込んだ。意地の悪い顔で何が軽いの、ととぼける霧沢。広瀬の中途半端な下ネタを聞くたびに、言うなら言い切ればいいのにといつも思う。


「た、体重だよ。体重」

 ばつがわるそうにそう言うがその顔は赤らんで見える。根っこの部分は初なんだろう。ひょっとしたら彼はまだ僕と同じくチェリーなのではという気さえする。


「何かあったの? 」

 呑気な僕とは対照的に、深刻な顔をした霧沢が彼の顔を覗きこむ。少し躊躇ったような仕草をしたあと、実は、と話し始める広瀬を見て、そこで初めて彼が言っている事がただのジョークではないと理解できた。


「最近彼女の部屋でさ、一緒にいるときでも頻繁に電話がかかってくる事が多くてね。そのたびにわざわざ隣の部屋に行くんだ」

「それはなんとも怪しいね」

 でしょ、と同意を求める。

「それで、誰からって聞いてもあやふやにされるしあんまりそれが多く続くものだから、どうしても気になっちゃって。それでとうとう買ったんだ」

「なにを」は直後に「なにそれ」に変わった。

 広瀬が鞄から取りだしたのは形も大きさもICプレイヤーの様な機器。末端からは三本のコードが伸びておりそれぞれ左右の耳に入れるとはわかるが、用途のわからないものが一本。それはまるで聴診器の様な……。あっ……。

 僕がぎこちなく、とうちょう、と呟くと広瀬が気まずそうに頷く。


「コンクリートマイクって言って、まあ聴診器みたいなものだね。音を捕集して聞くだけっていう。他にも仕掛けるタイプのものも見たんだけど、基本的には無線式の物は電源が欲しいしそうじゃないと録音式になっちゃうしね。何より仕掛けるのと回収の手間がかかるから、隣の部屋程度なら結局これに落ち着くんだ」


 ひきつった笑顔でそうなんだ、と愛想笑いをすることしかできなかったが高説を終えた広瀬は少しだけ満足そうだった。そして


「やっぱり軽かったよ」

 と邪悪な笑みを浮かべて言い放つ。

何と言葉をかけて良いのか分からず、それは……と言い淀む。霧沢もまあ辛いだろうけどと励ましモードに入っている。だがそんな僕らの思惑とは裏腹に彼の口から出てきたのは意外なものだった。


「僕からは別れる気は無いけど」


 僕と霧沢二人同時に彼の顔を見る。彼は本当に『なんでもない顔』をしていた。


「一体どうしてさ」

「何か弱みでも握られてるの? 」

「弱みと言えばそうかな。まあ二人の言うことの方が正しいんだろうってのはわかるよ。でもさ」

 すうと、広瀬が息を吸い込む。


「惚れた弱みって言うのかな。というより僕はただ気になったから探りたくなっただけで、わかってしまったらもう気にしないんだ」

そんなものだろうか。

「とにかく恋は人それぞれだよ」

 恋は人それぞれ。隣で桐沢が反芻するように呟いているが、それと同じくらい僕の心にも響いていた。果たして僕は春香さんがそんなことをしていたとして同じセリフが言えるだろうか。まだ付き合ってすらいないのにそんな事を考えた。


「ああごめん。ずいぶん脱線しちゃったね。話を戻すよ」

そう言い放つ広瀬の顔に悲壮感は一切見えない。それなら僕ももうとやかく言う所では無いだろう。後は二人が何とかする事だ。


「その藤森のお相手の女の子だけどね、茶髪でパーマで眼鏡だって」

「藤森じゃん」

 僕と霧沢の突っ込みがハモる。広瀬も笑っている。


「それを聞いて僕もそう言っちゃったよ」

 小さく、でも、と言う声が聞こえた。声の主は霧沢。何かを言い淀んでいるのか眉をひそめている。何、と言うと小さく口を開いた。


「藤森の過去の彼女ってさ」

 その話は聞いた事がある。なんでも藤森は美的感覚や審美眼こそはそれなりの物を持っているはずであるのに、どういうわけか『彼女』という一分野に関してはアーティスティックというか独特のセンスを発揮するらしい。

 あくまでこれまでの統計ではという前置きが必要ではあるし、こんなことを言える立場ではないし失礼極まりないのは承知だが、どうやら彼の歴代の彼女はおせじにも美人だねと言えない子だったらしい。かつて香川ももし女だったら狙われたかもねと笑顔交じりで言ってきたのは広瀬だったか。その時は確か二日ほど口を利かない喧嘩に発展したな。

 僕の件は置いておいて、だから今回の彼女もやはりその類の傾向では、と霧沢は言いたいのだろう。だが広瀬は首を横に振る。


「眼鏡かけてる事以外はほとんど後ろ姿しか見えなかったって」 

 それで、と僕が若干逸れた話題を軌道修正する。

「駅近くの喫茶店。バイト帰りに見たんだって。そこで何度か二人で話してるの」


「あそこかな」

 駅の近くと言えばいつか霧沢と春香さんと行った喫茶店が思い浮かぶ。同じことを考えていたようで霧沢からあそこだろうねと返って来た。続けて、でもさぁ、と小さく言う。

「それだけでは付き合ってるかはわからないよね」

そうだねと広瀬がぽつりと呟いた。さすがに驚いた。それ以上は情報が無いのかと。話をまとめると藤森が女の子っぽい誰かと話しているのを喫茶店のガラス越しに由里ちゃんが目撃した。ワイドショーなみのガバガバさだ。

「だったらさぁ」

 再び広瀬が口を開いた。その先の言葉は聞かずとも予想できた。

「ノート頼まれただろ」

ため息混じりに霧沢が言う。

「じゃあ僕だけでもいくよ。香川はどうする?」

 どう答えようかと窮しているとふいにポケットの中でバイブレーションが鳴る。着信画面には春香さんの文字。


『もし良かったらドライブにでも行きませんか』。喜ぶ猫と走り出す車のデコ付きで。そういえば春香さんには今日講義があることは伝えていなかった。


「もしかして姉ちゃん? 」

 僕が申し訳なく頷くと二人ともが嬉しそうな顔をした。しかしここで抜け出してしまうのは二人に、特に桐沢に申し訳ない。

「でも」

「いいよ。行ってきなよ。こっちはいいから姉ちゃんの相手してあげて。ノートはちゃんと取っておくから。」

「藤森のことも任せておいて」

 広瀬がポケットのふくらみを叩きながら微笑む。霧沢もどこぞの九十年代のトレンディードラマのように親指を立てている。


「ありがとう、僕も行ってくる」 

 彼らに見送られ、僕はその先へと歩き出した。見上げた僕の空は、雲ひとつなく澄みきっていた。




「急にお呼び出ししてすみません」


 申し訳なさそうな言葉とは裏腹にその表情はとても嬉しそうに見えた。


「いえいえ、呼んでくれてありがとうございます。それで今日は? 」

 僕のその問いかけに春香さんはふふんと鼻を鳴らす。


「香川くん、どこでも行きたい所言ってくれていいですからね」

いつもとは違う自信に満ちた表情の理由はすぐにわかった。いつもの飾り気のないマーチ、この前より傷が一本増えている気がするが、の運転席と助手席の間には、最新式のカーナビが鎮座していた。

「アルバイト代で買っちゃいました。もちろん香川くんには引き続き優秀な助手を目指してもらいますけどね」


 目の端に恥じらいを見せながら笑うと、再びその目が自信を湛えた。

「さあ、どこでもお姉さんに言ってください。霧沢タクシーが連れていきますよ」

 いつかのように敬礼をしておどけて見せる。


「じゃあ、海沿いが見たいです」

 そう答えた僕の顔はきっと海岸の向こうに沈む夕日の様に赤かっただろう。繰り返しになるが僕は海が嫌いだ。だが春香さんとの海沿いドライブとなれば話は別だ。

 了解しましたという軽快な言葉を放ち、いつものように緊張した面持ちで春香さんが運転する車は走り出す。常時こんな表情をするタクシードライバーがもしいるなら危なっかしくて仕方が無い、と心の中で思った。


「お待たせいたしました。左手に見えますのがお待ちかねの海でございます」


 そんな春香さんであっても、さすが僕よりも優秀なカーナビの補助があるだけあって、近くの沿岸線までものの三十分で到着した。その間僕が口にした助手っぽい事は、三つ前の左折での『あっ、後ろから原付が来てますよ』の一言だけであるのが物悲しい。

 車道から開けた護岸沿いには、夏休みだというのに海水浴客は1人も見受けられず、点々と仕事はどうしたと言いたくなるような釣り人が見受けられるだけであった。


「さすがに誰も泳いでませんね」

車から出るとつんと磯の香りがした。


「でもそうは言ってもまだ夏休みですよ」

 春香さんは大きく伸びをしながら答える。

「それは大学生だからですよ。世間一般には九月はもうケの日ですって」

「ああ、そうですね」

 春香さんに指摘され初めて気が付いた。そうかもう九月か。


「そういえば春香さん、今四年生ですよね?」


「そうですよ。こう見えても香川くんよりも二個もお姉さんなんですからね」


「お姉さんはこんなことしていて良いんですか?」

 春香さんのようなお人には聞くだけ野暮と言う気もするが。


「と、言いますと?」


 春香さんはそう言った直後、何かに気が付いた様にふふふ、と不敵な笑みを漏らした。


「あまりお姉さんを舐めないで欲しいですね。もう来年にはOLになる事が決まっています」


 やっぱり、と自分の予感が正しかった事にも安堵した。勿論それ以上に春香さんが嬉しそうだということが嬉しかった。


「だから今のうちに一杯遊んでおかないと、なんですよ」

 春香さんの言葉に合わせるように風が強く吹き、波が寄せて返した。


「香川くんは決まっているんですか? 付きたい職業とか」

 その問いに迷わず答えられたのはもう昔の話だ。今となっては趣味程度、それも最近は一人にしか披露していない。


「まだまだ見つからないですよ」

 その答え自体は嘘ではないと思えるが、本当は見つからないのではなく探していないだけなのかもしれない。


「そうなんですね」

 その声は少し残念がっているようにも思えた。


「見つかるといいですね」


「ありがとうございます」


「ねえ香川くん」


「なんですか」

「恋と愛の違いって何だと思いますか?」


 その時の春香さんがどんな顔をしていたのかはわからない。僕も彼女も海を見ていたから。


「そうですね。恋は『この時間が止まればいいのに』で、愛は『この人と歳を取りたい』じゃないでしょうか」

どこかで聞いたようなことをやっとのことでひねり出す。


 ざざんと一度、海が啼いた。



「じゃあ、この気持ちはどっちなのかな」



 僕が振り向いたとき、春香さんは何事も無いかのように、海風に髪を泳がせ海を見つめていた。だから彼女の真意はわからない。

 暫く、二人並んでただただ海を眺めていた。


 オレンジ色の夕日が海面すらも染め上げ始めた頃、隣で彼女が宣言した。


「さあ、そろそろ帰りましょう。日が暮れるともう霧沢タクシーは動けなくなりますよ」

 それは大変だ、と僕は助手席に飛び乗った。

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