ep.9 はじまり

 陽炎が立ち込める様な茹だる熱気から一転、車内に入るとひんやりとした冷気を感じた。その温度差は到底体にいいとは思えないが、今はこの快適な空間に身を委ねよう。


 八割ほど埋まった車内はいつもとはまた違った喧騒がある。ワイシャツ姿のサラリーマン以外にも、短パン姿の幼い子供やベビーカーを引く子連れの女性など、普段は見なれない者たちも多い。

 それでも皆手を扇のように仰いだり、Tシャツを引っ張ったりと何とか熱さに抗じようと策を弄している点は一様だ。ふと目に入った吊り広告には『この夏の思い出は、一生』というキャッチコピーとともにはしゃぐ若者の写真が踊っている。

 一生の思い出か。いろいろあったよな、この春は。

何と言っても春香さん。運命的な出会いもそうだが、あれ以降も彼女とは霧沢も交えて三人で何度か遊ぶことがあった。基本的には彼からの誘いに僕が加わるということがほとんどだが、それでも春香さんは歓迎してくれていたし、何より二人で頻繁にメールをやり取りする仲にもなった。

 

 ただ気がかりなことも一つ。丁度夏休みに入る前、試験期間中に実家から一本の連絡が入った。どうやら祖母の体の調子が良くないらしく入院するとの事だった。夏休みに入り会いに行くと、祖母は息子、つまり父親に抱えられながら起き上がり、もとより皺の多い顔をさらにすぼめてわざわざありがとね、と小さく笑った。その痩せ細った弱弱しい様子から、口にしたくは無いがもしかしたらあまり永くないのかもしれない。

 学校は楽しいか、とまるで小学生にでも言うかのように僕に尋ねた。いくつになっても孫は孫なのだなと思いつつ、楽しいよと答えると安心したように微笑んだのが今でも心に残っている。

 だから、というわけではないが、僕はこの夏も楽しみたい。もちろん今日のイベントも。

 

 霧沢から「夏と言えば……」と持ちかけられたのは三日前の事だった。夏と言えばまず思い浮かんだのは海。正直言うと海はあまり好きではない。裸を見せなければならないというのもあるが、それ以上に、僕の偏見かもしれないがあまり健全なイメージが湧かない。

 小麦色の輩に近い男女が爆音を流したむろし、ゴミを撒き散らし、どうせ最後はいかがわしい行為に更けるのだろう。家族連れ以外で海に行くものなど、全員エチゼンクラゲにでも刺されればいいのに。

 頭の中で春香さんの水着姿が見られるかもしれないということと天秤にもかけたが、やはり春香さんは持ちあがってしまった。

 小さな声で拒否すると霧沢は驚いたような顔をした。


「香川、嫌いなの? 鍾乳洞」

 今度は僕が驚いた。なんでも鍾乳洞は夏でもひんやりと気持ち良く、避暑地としてぴったりらしい。なにより春香さんがテレビで見て行きたくなったということだ。その情報に僕は声色を変え、でそれはどこにと尋ねると、とりあえず電車で終点まで行き、そこから別の私鉄に乗り換え三十分。さらにそこからバスで四十五分、ということらしい。

 そういうことならと快諾し、その小旅行への参加を決めた。メンバーはもちろんいつもの三人。霧沢と春香さんは終点の駅まで車で行くとのことだ。


 駅に着くと改札の向こう、構内案内図のある柱の傍に春香さんは立っていた。忙しなく行きかう人混みに気押されているのか不安げな表情を浮かべている。両手でトートバッグの紐を握りしめていることからもその気持ちは伝わってくる。

 半袖の膝上チュニックワンピース。そしてクロップドパンツとスニーカーといった出で立ちで、相変わらず露出は多くないものの、どうしても無防備な二の腕と脛に目が行ってしまう。あの女性に声を掛けるのは僕だという優越感と緊張感が入り混じる。

 はやる気持ちで改札を抜け、春香さんと声を掛けると、その表情がぱっと明るくなった。


「香川くん、おはようございます。やっぱりここは人が多いですね」


「おはようございます。夏休みですしね」


 そんな会話をしていると僕はある事に気が付いた。


「あれ、そう言えば霧沢がいませんが」


 その言葉に春香さんは困った様に眉をひそめた。


「それが……、和くん急に夏風邪ひいちゃったんです」

 僕がえっ、と言うのとほぼ同時。ポケットから伝わるバイブレーション。電話の主は図った様に霧沢だった。少し春香さんから距離を置くと慌ててそれを取る。


「もしもし、風邪引いたんだって? 大丈夫なの?」


「まあ何とか生きてるよ」


 ややかすれた声が返ってきた。周囲の喧騒に掻き消されているためか、いつもより幾分も弱弱しく聞こえる。

「どうしよう、お見舞いに行こうか?」


「いや、実家だからそれは間に合ってるよ。それに来てくれるならそこは女の子

だろ、普通」


 軽口を叩く合間合間で鼻をすする音が聞こえるが、少しわざとらしさを感じるのは気のせいだろうか。


「それよりも今日はうまくやれよ。なんたって初めての二人でのデートなんだから」


「えっ、いや霧沢も居ないしそれは悪いよ」


「何言ってるんだよ。一番鍾乳洞に行きたがってるのは姉ちゃんなんだから、姉ちゃんと香川がいれば問題はないだろう。じゃあ姉ちゃんをよろしくな」


「よろしくってちょっと」

 あまりに急な提案に狼狽する僕の言葉に、僅かに沈黙を作り、

「香川、本当にごめん」

 それまでの口調とは打って変わって、大げさに詫びる声を最期に通話は切れた。その声はあまりに迫真に、場違いなほど悲痛だったためそれが却って彼なりの冗談であると容易に認識できた。おそらく電話の向こうで霧沢は舌でも出しているのだろう。それも一枚では無く二枚。

 僕は一つ溜息を落とすと、そのまま大きく深呼吸をした。そして大北海道物産展の広告を興味深く凝視している女性の前に進み出る。


「霧沢からでした。二人で楽しんで来いって」


 今の今まで眼元が緩んでたのだが、僕がそう言うなり、春香さんは嫌悪の意を示すかのように急に不安そうな顔になった。


「やっぱりそうですか。じゃあ和くんいないですけど、二人ですけど」

 行きましょうか、止めましょうか。そのどちらとも取れる語尾を濁した言い方。


「その、春香さんさえ良ければ」

 僕もはっきりとは言えない臆病者だ。春香さんがこくりと頷き、どちらともなく予定の電車へと向かう。


「初めてですね、二人でこうしてどこかへ行くの」

「そうですね」

 それ以上の言葉が続かない。霧沢がいないだけで、二人でのデートと思うだけで、こんなにも緊張するものなのかと思い知る。いつもなら、僕と姉弟で座るであろう横並びのボックス席にも、二人だと綺麗に納まってしまった。いつもより距離の近い彼女に、何を話したらいいのかさえ、思い浮かばず流れていく景色を綺麗ですねと言えば、そうですねとは返ってくるものの、それから話が膨らまない。三つ四つほど話もしたが、ついに沈黙の方が多くなった。

 楽しくないだろうな、春香さん。やっぱり僕には無理だったよ、霧沢。


 目的の駅に着きバス停へと向かう。小さな待合室と乗り場が一つだけのそのバス停は、霧沢が穴場と言っていただけあり、夏休みだというのに僕たち以外は誰も居ない。非常にすっきりとした時刻表はあと十分ほどで目的のバスが来る事を示している。


「日差しも強いですし、中で待っていましょうか」

 スモークガラス張りのその建物を指す。

「そうですね」

 勇んで入ってみたはいいものの中は空調が効いていないらしく、自動ドアを開けた瞬間むわっとした熱気を感じた。これなら外にいた方がまだましだっただろう。なにもかもがうまくいかない。

 もう帰りましょうと言うのも立派な勇気だろうか。そう思うとうっすらと涙さえ浮かんできた。

 そんな時だ。


「ねえ、香川くん」

 春香さんが僕の肩を叩く。突然の事に驚き上ずった声で応答する。しなやかな指があの子、と指し示す先には

「僕、どうしたの?」

 見つけると同時に体と口が動いた。

 待合室の隅には額に汗の玉を浮かべた、六歳くらいの男の子がべそをかいて座っていた。周囲には親と思われる人はおろか、係員すらいない。男の子は僕達を一瞥だけして、その質問に答える事無くさめざめと泣き続けた。

 顔を見合わせると少し何かを考え、思い出したように春香さんがトートバッグを見繕う。取り出したのはチョコレート。金紙に包まれたコイン型のあれだ。食べるかなと彼女が優しく言うが、男の子は首を大きく横に振る。 

 どうやら相当頑なな子のようだ。そうだ。

 

 僕も思い出した事があるので試してみよう。落ち込んでいる春香さんからチョコレートを失敬する。もちろん食べるために取ったわけではないが、チョコレートはこの熱さだと言うのに溶けていないどころかむしろひんやりと冷気を纏っていたので、思わず食べてしまいたくなる衝動に駆られた。

 それを何とか我慢し、男の子に見せつけるように大げさな仕草でチョコレートを右の掌の上に置く。そしてこれまた大げさな仕草で掌に掌を重ね、今度はそれを左手に移す。それを何度か繰り返すと、男の子も興味を持ってくれたのかゆっくりと顔を上げる。少しずつ、少しずつコインを追うように前傾姿勢になる。今だ。

 男の子の前で両手をぱっと開くと、チョコレートが……無い。

「どうして」

 それは予想外の方向、僕の斜め後ろから。春香さんの驚く声だ。幸い、男の子も「無くなっちゃた」と目を丸くしてくれている。


「クラシックパームっていう手品の基本技ですよ。コインくらいの大きさと厚さならこの通り」

 と、春香さんにチョコレートを掴んでいる掌を見せる。それをさも今出したかのように指で摘まむと、男の子の前に差し出した。


「はい、僕。あっちのお姉ちゃんからプレゼントだよ」

 今度は素直にありがとうと受け取ってくれた。なんとか僕達に対して警戒心が薄れたようだ。

 春香さんもいる事だし、さすがに事案にはならないだろう。こんなところにいたのでは脱水症状になりかねない。

 とりあえず男の子を風のあたる日蔭のベンチへと移動させると、春香さんがステンレス製の水筒を差し出した。本当に何でも入っているのだと感心した。男の子はおずおずと受けとると勢い良く飲み干す。落ち着いたようなので、もう一度同じ質問をしてみる。


「僕は今一人なの?」

 男の子は僕を見上げ首をかしげる。春香さんが腰を落とし、目線を合わせて優しい口調で言う。

「お父さんとかお母さんはいないのかな?」

「お母さんはあっちに行っちゃった」

 その小さな指はバス停の方を指す。春香さんは小刻みに頷くと優しくその髪を撫でる。


「君はどうして行かなかったの? 待っててって言われた?」

 ううんと首を振る。しばらく待ってみるがそれ以上の返答は無い。ベンチから投げ出された小さな足がぶらぶらと揺れる。


「どこへ行ったかわかるかな?」

 今度は元気良く頷く。今日は暑いから涼しい所だよと。

「もしかして鍾乳洞かな?」

 男の子にというより春香さんに確認すると、そうかもしれないですねと。その時、バス停に一台のそれが入ってきた。乗車も下車も無いドアが僕らのためだけに開く。わかっている、これを逃せばまた一時間は待ちぼうけを食らうことになると。

 春香さんの方を見ると彼女も微笑んで頷いてくれた。ミラー越しに合ったその目に会釈をする。

「行っちゃいましたね」

 春香さんはそう言うが、その言葉に悲壮感は無い。そうですねと同意すると、二人で顔を合せて笑った。

「ママが帰ってくるまで一緒に遊ぼう」

 うん、とその日一番の笑顔が返ってきた。



 その男の子の母親が帰ってきたのはそれから二回ほどバスを見送ってからのことだった。「まだ、ここにいたのね」という母親のあまりの呑気ぶりに思わず詰め寄る。


「お母さんですか。この子は一人で泣いていたんですよ。それを今までどこにいたんですか」

 女性は戸惑いつつも家にいましたけどと答え、先程の男の子と同じようにバス停の方を指し示した。話が通じない人なのかと苛立ちが込み上げたが、春香さんは落ち着いた様子で声を出した。

「もしかして、そこのおうちですか?」

 バス停のすぐ横の一軒家を手で示すと女性はそう言ってるじゃないですかと不機嫌そうに答える。何の事は無い、男の子はここから十メートルも離れていない所に住んでいたのだ。

「あの、一体何が?」

 なんでお前に説明しなきゃならんのだとでも言いたげな二つの目がこちらを見る。

「一緒にスーパーに行ったんですけど、駄々をこねるから叱ったら、帰り道で「僕もうここにいる」って。勝手にしなさいって先に帰ったんです」

 それが何か、とずいと僕を睨みつける。眼鏡の奥の瞳は笑っていない。

「だって涼しい所って」

 ちらりと男の子を見る。彼がそう言わなければ早合点しなかったかもしれない。そんな僕の気持ちを知らずに男の子は元気よく答える。

「今日は凄く暑いからエアコンを付けていいんだよ」

 ああ、そうなんだと感情の無い言葉が漏れた。その言葉を吐いたことでどっと疲れが出た気がした。それでも母親に手を引かれながら、また遊ぼうねと笑顔で手を振る男の子を見たら、まあ良かったのかなという気になった。

「よかったですね。男の子の親も見つかって」

 春香さんも額にうっすらと汗を浮かべ笑っている。そうですねと笑うと、視界の端に見えた今日四回目のバス。

「春香さん、走れますか」

 自分でも不思議なくらい自然に、彼女の手を取り走り出せた。



「香川くん、チョコレート食べますか?」

 バスの中、そう言って差し出してくれたのは先程のよく冷えたコインチョコレート。じゃあ頂きますと包みを開け、口に投げ込む。春香さんにチョコレートを貰うのはこれで二度目だ。


「それにしても、チョコレートやら水筒やら良く出てきましたね」


「だって楽しいじゃないです。遠足みたいで」

 そう言ってはにかむ春香さんはやはり可愛い。すると何かを思いついたような顔をしたが言うまでも無くその顔も可愛い。


「遠足といえば、お菓子は何を持っていきました?」

「いくらの場合ですか?」

 春香さんは少し考えてじゃあ三百円でと言った。三百円か。僕は二百円が多かったので、やはり春香さんとは格差があるのかもしれない。

「グミとチョコレートとキャラメル。あとは個包装されたバームロールみたいな高そうなお菓子ですかね」

 記憶の中から引っ張り出すとなるほど、と目を閉じて頷く。春香さんもこの布陣の素晴らしさをわかってくれるのか。

「意外としたたかなんですね」

「これの良さがわかる春香さんもですよ」

 この型は言うなればシェアに特化した形だ。エビで鯛を釣るではないが必ずそれ以上のキックバックがあるのがこの形の最大のメリットだ。しかも個包装なので必要以上にあげすぎる事も無いし、欲しい分だけを食べる事が出来る。駆け引きが重要になるがうまく立ち回ればその殆どを残したまま帰宅することも可能だ。よくこれにガムをプラスする者もいるがそれは悪手、愚の骨頂と言わざるを得ない。


「やっぱり香川くんは優しい人ですね」


 ふと、春香さんが呟いた。今の話で優しい要素などあっただろうか。


「あの男の子に気が付いたらすぐ声を掛けてあげましたよね」


「それを言ったら春香さんもじゃないですか。それにもし僕一人だったらたぶん見ないふりしてましたよ」

 当然だ。まずあの男の子に気付いてあげたのは春香さんの方だし、それに今のご時世男が一人、泣いている男の子に声をかければたちまち御用となってしまう。だが彼女は言う。


「そんなこと無いですよ」

 一瞬の間を作り、こちらを見る。


「だって私には声を掛けてくれたじゃないですか」


 一瞬頭が真っ白になった。一拍子遅れて慌てて弁解、というか注釈をした。


「あの時は、だってびっくりしましたもん。もう必死でした」


 彼女もあの時の事を思い出したのか、少しその頬に赤みが差している。


「本当にあの時はご迷惑をおかけしました」

「どうしてあんな事になったんですか?」

 少し躊躇ったが結局そう口にした。それは……と少し口籠った後

「友達との飲み会で飲みすぎちゃって」

 と小さく笑った。ほどほどにしてくださいよといつかと同じ言葉をかけると、恥ずかしそうに頷いた。


「でも、本当に感謝していますから」

 そう言ってきゅっと拳を握るのでトートバッグの紐はまるでハートの形にたわんでいる。

「僕もですよ」


 少し間を開けてそう言うと、彼女がぱっとこちらを向いた。次の言葉を待っているかのようにその表情が静止している。


「だってそのおかげで、今こうしてデート出来てるわけですし」


 今二人だけでこうしているのをデートと素直に認められた事に、そしてそんな言葉を吐けた事に自分でも少し驚いた。それでもまだ、春香さんの反応を見るのは怖くて、「あっ、ほら見てください。綺麗な山が見えますよ」と、窓から身を乗り出した。

 ホントですねという春香さんもまた、僕には心から笑ってくれているように見えた。今この瞬間にそれ以上、何を望む事があるだろうか。



 この夏の思い出は一生の思い出。春香さんとより打ち解けて、綺麗な景色を見て、更に近づいた一日だったと思う。そして間違いなく僕の中の春香さんへの感情が「憧れ」から「恋」へと変わったのを自覚した一日。

 その恋に向かって進むのは、僕が夏風邪で寝込んだ後なので、もう少し先の話だ。

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