ep.8 新規路線

 やがて楽しいドライブも終わりを迎える。国道を調子良く走っていた霧沢が、車線の左に寄りウインカーを出した。左手にはいかにも大衆向けの定食屋が待ち構えていた。てっきり小洒落たイタリアンレストランにでも行くものだと勝手に思っていたため、その予想外の目的地に少し驚いた。


「姉ちゃん、これ駐車できないでしょ」


「雨の日じゃなければできますよーだ」


 駐車場で和気あいあいとしている二人を見てもまだ本当にここなのかという疑念は晴れなかった。断っておくが、こういう町の定食屋が嫌だとか、彼らを見そこなったという意味では無い。ただただ意外だったと言っているだけだ。

 中に入ると、四人がけのテーブルが六つと各種調味料の置かれたカウンターが並んだだけの簡素な装いだった。テーブルにはチェックのクロスが掛けられ、それが申し訳程度のハイカラ感を演出していた。地元の人にはそこそこの人気店らしく、既に十四時近いというのにテーブルの四つほどがスーツ姿の男性客で埋まっていた。それではと空いている一番奥のテーブルに座る。

 いつの間にか席を離れていた霧沢が慣れた手つきで三人分のお冷を持ってくる。改めて周囲と目の前の二人を交互に見比べるが、何とも不思議な組み合わせだ。だが、馴染んでいる様にも見えるのがますます不思議だ。


「香川は何にする?」

 さも、当然の流れであるかのように霧沢が言う。ああ、とメニューを見ようとするがテーブルにはそれらしいものは一切置かれていない。春香さんがくすりと笑ってあっちですよ、と指し示す。

 なるほど、木目の目立つ壁の至る所に手書きのメニューがずらりと貼られている。その数ぱっと見ただけでも五十はあるだろうか。たまらず二人を見るが、彼らはすでに決まっているのかその視線は一か所に留まっていた。


「こう多いと迷ってしまいますよね」

 僕の視線が泳いでいる事に気が付いてくれたのか、春香さんが声を掛けてくれた。なんだか僕が迷っている事が嬉しいかのようにも見えた。


「そうですね。どれにしようかと思ったのですが。こうも多いと。何かお勧めはありますか」

 一瞬主体性の無い奴と思われるかもという不安も浮かんだが、悪戯に時間を掛けてしまうのも悪いという想いが勝ち、そう聞いた。それに僕はもう窓際のオムヲイスが気になって仕方が無い。


「どれもお勧めですけれど、そうですね。煮魚定食とかはどうでしょうか」

何とも春香さんらしいヘルシーなチョイスだ。間髪いれずに

「じゃあそれにします」

 と同意した。それを聞くと霧沢がさっと手を上げて店員を呼ぶ。厨房の奥から白い三角巾を頭に着けた熟年女性が鉛筆とバインダーを持って出てきた。快活そうな見た目も相まって、いかにも町の定食屋の女将さんといった風貌だ。


「すみません。煮魚定食と天ぷらうどん。あと特盛りカツ御膳をお願いします」


 はいはいと女将が厨房の奥に消えていく。霧沢、結構食べるんだねと言うと、ああ、まあねと返って来たもののどことなく目が泳いでいる。春香さんもちょっと、と霧沢を小突く。やはり姉からしても心配なようだ。

 最初にやってきたのは僕が注文した煮魚定食だ。二人はお先にどうぞと言うので、それに甘える事にした。ブリだろうか箸を入れるとその身は柔らかく割れ、仄かに生姜の香りが広がる。口に入れれば優しい醤油の味付けがご飯を進める。なるほど、これは文句なくおいしい。余り自炊をしない一人暮らしの僕にとって魚がおいしいというのはこの上ない幸せだ。

 だが二、三口食べたところでその幸せが止まった。というより運ばれてきたそれに釘づけになった。まだ初めて間もなそうな男の子の店員が手を震わせながら運んできたのは、丼に盛られた白米。四百グラムはあるだろうか。そして別皿には卵でとじられた分厚いカツが三枚。

 美味しそうではあるが、さすがに完食という事を考えるとそれだけで胃がもたれそうだ。霧沢はこれを完食できるのか。そんな大食いキャラではなかったはずだが。

 そんな心配をよそに霧沢は涼しい顔をしている。というよりあまり関心がなさそうだ。そんな彼の前にその特盛りが置かれようとする……その時。


「すみません、私です」

 春香さんが頭の横あたりまで控え目に手を上げた。

 ははあ、なるほど。皆でカツをシェアしようというわけだ。さすが春香さん、優しい人だ。

 何となくはわかってはいたが、それが間違いだと思い知らされたのはすぐ後の事だった。

 春香さんは遠慮がちに食べ始めたが、最初の一口から殆どペースが変わらない。みるみるうちに三枚のカツはその細い体のどこに入るのかと言いたくなるほど、手品のように消えていった。それだけでは無い。本当に美味しそうに食べるのだ、最後の一口まで。

 必然的に春香さんが食べ終わるのを僕と霧沢が待つ、と言う構図になったのだが、全く退屈はしなかった。むしろずっと見ていたいとさえ思った。

 春香さんは喉を鳴らして水を飲み干すと、満足そうな顔を浮かべた。そして微動だにしない僕に気が付き小さな声で言った。


「……やっぱり引いてますよね」


 テーブルに隠れて見えるか見えないかの位置で、細い指先を強く握りながら。

「いやあ。驚きはしましたけど凄く綺麗な、見ていて気持ちのいい食べっぷりでした。よく食べる人は好きですし」

 思った事を素直に口にした。どこぞの一口食べてもう太っちゃうと残す女性よりは遥かに好感だ。それに僕はあなたのもっとすごい姿をもうすでに見ている。

「ありがとうございます」

 春香さんは少し照れた様子で言った。それが可愛らしかったのと、流れとはいえ春香さんに好きですと言ってしまった事に気が付いて僕も目を伏せた。


「ちょっと、お見合いじゃないんだから」


 おどけた表情で霧沢が茶かすが、僕達は言葉にならない反論をするのが精一杯だった。


「まあこの際だしお見合いついでに連絡先でも交換しなよ」


 思わず彼を二度見した。霧沢のこの言葉が無ければ、僕はこの日そんな事はしようとも思わなかっただろう。あまりにも予想の外でそれ故にあまりにもふわふわとした感覚になり、この後の事はあまり覚えていない。春香さんに大学まで送ってもらい一コマだけの講義に出たのは確かだ。

 そして自宅に帰った今、僕はスマートフォンを片手に悶々とした時を過ごしている。やはり今日はありがとうございました、とかこれからよろしくお願いしますというメールを送るべきなのだろうか、と。何故こんなことで二時間も悩まなければならないのか。

 消しては推敲してを繰り返し、やっとたった三行ほどの文面を完成させた。あとは送信ボタンを押すだけだが指が動かない。我ながら中学生の恋かと情けなくなる。

 そんな時、突然のバイブレーションに一人小さく悲鳴を上げた。受信メールが一件。なんと今まさに僕が送らんとしていた春香さんからだ。はやる気持ちを抑え、胸に手を当てる。もしこの鼓動が続くのならば僕は四十くらいで死ぬのだろうなとふと思った。

 深呼吸を二回して、画面を裏返す。

『件名:春香です。

 急にお邪魔してしまいましたが、今日はありがとうございました。恥ずかしいですが、普段は隠していますし私の食べっぷりを褒めてくれる人はあまりいないので嬉しかったですよ。

そういえば車に本を忘れていませんか? 桜木駅まででよければまた届けに行きます』


 


 翌日。普段とは明らかに違う足取りで講義室に着くと、いつもの席に足を乗せ、机の上に腰を下ろす藤森の姿が見えた。まま見る光景ではあるがあまり感心はしない。

 一呼吸置き、おはようと彼らに近づく。レンズの無いフレームがちらりと僕を見る。


「どうせ今が人生のピークだよ。さぬっきーはもう一生分の運を使い切ってるんじゃないか」


 彼はわざとボリュームを上げ、僕にというよりも周囲に嫌味たらしく言う。霧沢と広瀬がおい、と止めるが、僕自身もその通りだと素直に思ったので涼しい顔で聞いていた。霧沢が情報を漏らしたらしいということも、もう驚きには値しない。

 例えば明日辺りに交通事故にあったとしてもそう言うものだと受け入れるし、今この瞬間に、春香さんがドッキリ大成功の看板を持って入っていきても、やっぱりなと思うだろう。それくらい、僕自身も現実味が無いのだ。


「まあぐだぐだ言ってもしょうがない。俺はこっちの霧沢さんで我慢するか」


 あまり反応の無い僕をからかうのに飽きたのか、そう言って隣の男の肩を叩く。その言葉というか行為に一番驚いたのは他でもない霧沢だろう。小さくなった黒目で藤森を見つめる。藤森は視線も逸らさずそれを受ける。講義室の隅から女性のざわめきが聞こえた。


「霧沢、ちょっとこれ着けてよ」


 沈黙を破ったのは藤森のその言葉。そう言って鞄から取り出したものに更にギョッとさせられた。掌を覆うように掴まれたそれは、黒い頭皮。

 エクステ。ウィッグ。そのあたりに明るい訳では無いので正確には何と呼べばいいのかはわからないがとにかくかつらだ。ただ、質感や光の反射の仕方が嫌にリアルなので、本物の人毛を使用しているのかもしれない。


「何だよ、それ」


 あっけにとられる三人を代表し、霧沢が当然の質問をぶつける。


「親戚が美容院やってて、借りてきた」

 にこりと笑む藤森。その顔からは邪悪ささえも感じられる。

「そうじゃなくて、それどうするつもりだ」

 こんなにも心が通じ合った事が、今まであっただろうか。今の僕たちならシンクロだってできるだろう。

「だから言っただろ。霧沢、ちょっとこれ着けてよって」

 あっ、と広瀬が小さく唸る。

「そうか。霧沢の髪が伸びたら、お姉ちゃんにそっくりかも」

 そういうこと、と藤森が肯定する。それと同時に、反論する暇も与えず、肩までのセミロングが霧沢に無慈悲に襲いかかる。なるほどと、僕も興味がわいた。

 騒ぐ霧沢を宥め、僕らはそれをまじまじと見た。

確かに良く似ている。こうしてみると姉弟だと言う事が改めて良く分かる。だが。

 それ故に、首から下が完全に男性のそれであるため、そのアンバランスさが妙に気味が悪い。僕らは大笑いするわけでも、かといって馬鹿にするわけでもなくただ、もういいよと促した。霧沢は顔を赤くして馬鹿じゃないかと罵倒したが、藤森もごめんと言うだけだ。広瀬もしじまを決め込んでいる。俯いているためその表情までは読み取れない。


「何だよこの空気。やったならもっと弄れよ。不安になるだろ」


 誰も口にこそしなかったが、心の中で思っていたのだろう。


『顔だけなら有りかもしれない』と。




 そんな性癖に新たなページが刻まれたかもしれない青春の一ページ。

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