ep.7 招待

 急に降りだした雨は、その薄紅色を無慈悲に散らす。傘を持たない僕はアスファルトにこびり付くその押し花を跨ぎ、水を跳ねあげ駅への道を急いだ。

大学に行く訳ではない。今日は担当教員が立て続けに学会のための休講になり、講義は五限目だけだ。そこそこ遠方から通っている広瀬と、サボりたい盛りの藤森は欠席するという意向を聞いたのは昨日の事。

 それで僕はどうするかというと、本屋に行こうと思う。と言っても徒歩五分の桜並木の所では無く、四駅離れたショッピングモールに併設された大きな書店だ。もちろん他にも目的はあるのだが。

 濡れた頭を掻きながら、やや空いた電車に乗り込む。ぽつりぽつりと学生の姿も見受けられるが、こんな中途半端な時間から講義だろうか。とりあえず僕は桜が見える位置に座る。

 目の前を大学名の記載された看板が流れていく。大学に着いても下車しないというのは、何だか悪い事をしているようで不思議な気分だと思いつつ、更に揺られること六分。駅とショッピングモールはドアトゥドアで繋がっているため、傘が無くても濡れる事は無い。

 もっとも、大学に行くにはどう努力しても全てを屋根伝いにとはいかず、それまでには止むだろうというのは甘い考えであるのは認めなくてはならない。だが後の事を気にしていても仕方が無いと思うのだ。それに、本屋に濡れた傘を持ちこむというのはマナー違反ではないかと強く訴えたい。

 話が逸れた。このフロアに入っている書店には売りとも言えるサービスがあることで一目置かれている。各本棚の両サイドおよび奥の一角には背もたれの付いた椅子が設けられており、書店の客はそこを自由に利用して良いというもの。もちろん購入の未既に関わらず、書店内の本を自由に閲覧することができる。これによりここで販売されている本は、最新の物や図鑑等一部の高額商品を除き、その一切を無料で読破することができる。各々のマナーとモラルに委ねられるものではある、ということだけは付け加えるが。

 とりあえず気になっていた一冊を手に取り、適当に腰掛ける。Snow Dropと同作者の中でも最高傑作と名高い作品、嵯湾(さわん)村に沈むという推理小説だ。

物語は昭和五十年、A県の山中にある村に帰って来た初老の男性、薬師寺(やくしじ) 司の視点で進んでいく。

『親指は滑稽

 大層な名で威張り散らしているけれど

 本当はいつも一人ぼっち

 一人では何もできないことに気づきもせず

 今日もやっぱり威張っている』

という詩と共に、この村の長である座親(ざおや)恭一郎が死体で発見される所から惨劇が始まる。座親は周囲を山に囲まれた嵯湾村に置いて、独裁的な政権を敷いていただけに、敵も多い。つい先日もダム誘致の話を強行し、口でこそ言わないものの、多くの村人の恨みを買っていた。そのため村のほぼ全員である三十二人の村人が動機足るものを持った容疑者となる。

 誰もが疑心暗鬼となる中、座親家のお抱えの医師が、「私は犯人を見た」と進み出て、一人の若者の名を挙げる。確かにその男は犯行当時のアリバイも無かったため、凄絶なリンチの末座敷牢へと幽閉される。

 これにて一件落着に見えた事件だが、翌日の朝、村の中心にある松の木に、一つの縊死体がぶら下がる。

『人差し指は無責任

 常に犠牲になってくれる

 静かな誰かを探している

 ひとたび見つけようものなら

 全身でそれを押しつける』

 その文章と共に見つかった遺体こそが、前日に一人の若者を糾弾した医師、指宿(いぶすき)晋吾であった。……といったように指に準えて、閉鎖的な空間で殺人事件が連鎖していくという内容だった。少なくとも僕が読んだ四十八ページまではであるが。

 なかなか先が気になる内容で惹き込まれるではないか。だが僕はここで読了するなどという小賢しい真似はしない。

 天井から下がる案内板を探し、それに従いレジに向かう。フォーク並びで待っている客が六人、その最後尾に着く。カウンター内では三人の店員がそれぞれのレジで忙しそうに応対をしている。レジはもう一台あるようだが開放はされていない。

 そこで僕ははっとしてその三人の顔を見る。一番右のレジには眼鏡を掛けた今風の若い男性。その風貌を見ているとどことなく藤森を思い出す。まさか彼の兄弟という事は無いだろうが、前回のような事もある。念には念を入れ、出来ればあそこに呼ばれたくは無い。

続いてその左のレジ。恰幅の良い三十代くらいの女性。年齢から考えても同級生の姉でも母という線も無いだろう。安パイといったところか。

 そしてその左。十代後半、高校生くらいの若い女の子。この子だけはエプロンの胸部に研修中のプレートが付いている。それを裏付けるかのようにブックカバーの扱いにもたついており、彼女が一人捌く間に、横の女性は三人目に突入している。誰かの妹かもしれないが、向こうには客が誰かということを気にしている余裕はなさそうだ。彼女も危険視はしなくて良いだろう。

 さすがに横の二人の手際は良く、次々に僕の前から人が消えていく。そしていよいよ最後の一人が藤森に呼ばれる。僕は心の中でガッツポーズをした。タイミング的には女の子、いやおばさんの方が一歩早いか。

おばさんのレジが開いた。が、前の客は立ち去ろうとはしない。何かを告げるとおばさんが胸ポケットからボールペンを取り出す。僕にも憶えがある、領収書だ。その間に藤森がお釣りを確認し、レシートを手渡している。あとは二人よりも若干短い春の新書キャンペーンの口上を残すのみ。まずい。

次に開くのは……。

「二番目でお待ちのお客様、お待たせいたしました」

 僕を呼んだのは、そのどちらでもなかった。閉じていた四つ目のレジにどこからか駆けつけてきた店長と書かれた中年女性だ。僕はその女神に飛び込んだ。

 当店のポイントカードをお持ちでしょうかという決まり文句を聞き流し、そそくさと会計を済ませた。会計が終わる頃には既に新たなレジ待ちの行列ができていたため、紙袋を受け取ると軽く会釈をしてその場を去った。

「おお、香川じゃん。早いね」

 一難去ってまた一難。いや一難どころでは無い。目の前にいたのは霧沢。僕は反射的に紙袋を後ろ手に隠した。

「ああ、いや、ちょっと気になる本があってね」

 ちらりと覗きこもうとしたようだが、まあいいやと意外と早く諦めてくれた。今さらだが僕は別に、彼が今ここにいる事に対しては何ら驚きは無い。先程言っていた他の目的。それが「飯でも食いに行こう」という霧沢からの提案だった。なぜわざわざここを集合場所にしたのかと言う若干の疑問はあったものの、特に予定があるわけでもないしと了承したのだ。予定では一時にということだったが、まさか予約をしたわけでもあるまいし

「じゃあちょっと早いけど行こうか」

と、彼を促す。さっきのレジ待ち中に十二時を告げるチャイムを聞いたので、腹具合もあわせて、昼ごはんとしては丁度いい時間だろう。だが彼は一時過ぎまで適当に待っていて、と言いながら腕時計に目をやる。

「どうしたのさ? まさか予約してあるの?」

「いや、そう言うわけじゃないんだけどさ。せっかくだからちょっと買い物していくから、適当に時間潰していてよ」

「まあ、いいけど」

 霧沢はありがとうと頷くと、じゃあまた一時に、と下りのエスカレーターに向かって行った。僕は途中まで付いていき、適当にエスカレーターの傍に備え付けられたソファに腰を下ろす。先程の続きでも読むか。

 去り際、ふいに何でも無いことの様に霧沢が言う。姉ちゃんもいいかな。思わず間の抜けた声が漏れてしまった。僕にとって願っても無い魅力的なその言葉ではあったが、余りにも急すぎて心の準備ができていない。

「いや、でもそういうことを。急に言われてもさあ」

 立ち上がり縋る様にそう言った。

「嫌って言うなら良いんだけどさあ」

 耳元まで霧沢が近づいてくる。時代劇で見る越後屋のような顔を浮かべながら。

「俺はさあ、正直応援してるよ。姉ちゃんも香川の事、優しくて安心できる人って言ってたし」

 その言葉に胸が少し鼓動を速めた。

「その上でもう一回だけ聞くよ。姉ちゃんも一緒ってのは嫌かな?」

「ぜひ、お願いします」

 僕は即答した。霧沢の口角がにやりと上がった。


 十三時を少し過ぎた頃、僕がいるエスカレーター傍のソファに霧沢が駆けてきた。ついさっきの言の通り、本当に春香さんを連れて。

「すみません。急にお邪魔してしまって」

 僕は買ったばかりの小説を閉じ、その声の主に目を向ける。これのせいで薬師寺の時は、拷問中のまま止まってしまった。

春香さんは、今日はシャツブラウスに濃い藍色のジーンズ、足元はスニーカーという出で立ちだ。シンプルがゆえに素材の上等さが際立っている。

「いえいえ、こちらこそすみません。せっかくの姉弟の水入らずの機会に」

 想定よりも半音高く出た声でそう伝えた。春香さんは今、僕と眼が会った時に恥ずかしそうに微笑んでくれたので、露骨には嫌がられてはいないようだ、と考えるのは早計だろうか。

「とんでもないですよ。じゃあこの前のお詫びの続きをさせてください」

「いや、あれはもう良いですよ」

 慌てて両手を振る。やはりそれが目的かと、一人陰鬱に逃げ込むと、いつぞやのように横から霧沢が口を出す。

「そうそう、姉ちゃん。香川がもう良いって言ってくれているんだから甘えようよ」

 彼の言い分はずうずうしい様に聞こえるかもしれないが、僕としてもその方がありがたい。お詫びとしての義務的な交流からプライベートとしての交流になれるのだから。何よりお詫びでは彼女の心からの笑顔など見ることはできないだろうというのも大きかった。

 僕が再びそうですよ、と肯定すると、春香さんは少し間を開けて

「じゃあ、それじゃあ」

 と頷いた。それを受けて霧沢が笑う。

「じゃあ今日は、三人の親睦会ということで」

 親睦会か、霧沢いい事言うな、と心の中で感心した。そういうことなら僕からも春香さんに言いたい事がある。

「香川さんは、何が食べたいですか」

 と聞いてくる春香さんに向き直る。

「香川で良いですよ。それに敬語で無くても」

 僕がそう言うと春香さんは少し悩んで

「じゃあ……香川くん」

 と遠慮がちに言った。それを聞いた耳、正確には耳朶だが、が少し熱を持った気がした。上ずった声ではいと答えた。

「敬語なのは元々こういう話し方なので、そういうものだと思ってください」

「姉ちゃん、こう見えて人見知りだから」

 横から霧沢が注釈を挟む。脳裏にあの日の光景が浮かんだ。砕けた表情と言葉遣いの血まみれの春香さんだ。彼女にとってあれは一生の汚点なのかもしれない。

「それで香川くんは何が良いですか」

 この際に何でもいいという適当な返事や、美味しいものという投げやりな回答は、女性に嫌われるとネットの記事で読んだ事がある。僕は少し考えて、お勧めのお店があれば、と答えた。すぐに霧沢があそこが良いんじゃないと答える。春香さんもそれに同意する。どうやら二人の馴染みのお店を想定しているらしい。

「じゃあ、車で行きましょうか」

 そう促す春香さんの後をついて、二階にある立体駐車場まで下りていく。相変わらず綺麗なままのマーチがそこにあった。

「ごめん、香川は後ろね」

 てっきりまた春香さんが運転するものだと思っていたが、助手席に春香さん、上座に僕という配置。ハンドルを握るのは霧沢だ。

「すみません、少し散らかっていますが」

 春香さんはそう言うが、散らかりを見つける方が難しい。霧沢の後ろに行儀よく座ると車は静かに走り出した。外に出ると案の定外は雨だった。

 ワイパーの稼働音にまぎれて霧沢が言う。ミラー越しに目と目があう。

「香川は免許取らないの?」

「バイト代が溜まったらね」

 それは嘘ではないが、車を買う予定も無いし、まだそれほど必要性を感じていないというのが大きい。

「偉いですね。和も見習ったら」

 そう言ってくれた春香さんの前で認めたくは無かったが、霧沢が運転する車の乗り心地はこの前よりも数段快適だった。本来は案外揺れないものなんだなと、前よりずっと静かにしているゴリラを見ながら思った。それに普段なら憂欝になるはずの雨だが、今はFMラジオから流れる素敵なチューンに華を添えるBGMとして、車内を心地良い雰囲気で包んでいる。

 こんな日が続くのなら、雨も悪くは無い。

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