ep.6 隣の霧沢さん

 さてと、と食器を片づけたあと、時計を見る。バイトまではまだ二時間程ある。今朝の事もあるし、ゆっくりとシャワーでも浴びておくか。

たっぷり時間をかけた清めと小休止。身支度の最後にミント味のタブレットを二粒噛み砕き、大学とは逆方向に一駅分程歩いた。


 仕事場は青い看板のコンビニエンスストア。とりたてて特に意味があった訳ではない。ただ何となく昔から僕の中でのアルバイト像というのは、コンビニか居酒屋の二択であった。だがまがりなりにも本業は勉学であると自負しているので、必然的に勤務が夜遅くなりがちな後者を避け、消去法でコンビニにした。ここのコンビニを選んだのは周辺よりも時給が良く、そこそこ近かったから。非常に受け身な理由だというのは認めざるを得ない。

 しかし、だからと言って勤務態度がいい加減だとか、時間までいさえすれば良いと考えているわけではない。それなりに自負と恩義と責任を持って業務にあたっている。だから今だって、思い付きのような店長の無理難題にだってできる限り応えている。

「いい、香川くん。チラシはちらしだからね」

「それはそうでしょう」

 当然の事を言ってくる犬飼さんに間髪いれずに返す。馬鹿にされたと感じたのか、犬飼さんは少し語気を強くする。

「そうじゃなくて、チラ視。チラッとしか見ないってこと」

 ああ、なるほどと呟くとゆるいパーマの先輩はこちらを一瞥した。先輩はまだ二十三歳だが、もうここに五年いるというベテラン選手だ。優しく、時に厳しく僕の面倒を見てくれている。

「普通の人は全部見てからチラシを捨てるか判断するなんてしないのよ。見えている面だけで自分に有用かどうかを判断するの。だから」

「一番見せたい面を表に折る、ですね」

 僕がそう言うと無言で先輩はにやりと笑った。

 『二百枚の父の日・母の日ギフトのチラシをポスティングしてくること』。それが店長から僕と先輩の犬飼さんに与えられた今日の仕事。「入っちゃいけない所とかは犬飼さんが知ってるから」と百枚ずつ束ねられたチラシを差しだしてくる店長に、まだ五月にもなっていないのに早すぎないですかと尋ねると、こういうものだ、むしろ遅すぎるくらいだと事も無げに答える。

 そんな店長の永井さんは白髪交じりの眼鏡の男性。アルバイト経験が初めての僕にも非常に丁寧に業務を教えてくれ、周囲やお客さんからの評判もとても良いのだが、ふいにふっと魂の抜けた様に明後日の方向を向く事がある。目尻に刻まれた深い皺や、事務所でため息交じりに見せる背中からは、とてもまだ三十代とは信じられない。

 コンビニの直営店店長にはノルマがあるという話を聞いたことがある。それでも僕は、いやこの店の誰もが、クリスマスケーキもお節も店長から買ってくれと強制された事は無い。もちろんそんな店長を見かねて自発的に購入する従業員もいるが、決まって店長は申し訳なさそうな顔をする。酷い時にはそれと同額のお金が賞与という形で給料に付されることもある。何故そんな事を知っているのかは聞かないで欲しい。

 とにかくそんな店長の要請を無碍にはできない。二つ返事でチラシを受け取ると、連れだって薄暗くなり始めた街へと飛び出した。

「とはいえ、どこに行きましょうか」

 地図を片手に住宅地を並んで歩きながら、僕は尋ねる。もちろん事前に地図上で撒くべきエリアに印は付けている。コンビニから半径三百メートル、駅からも程近い場所。だがどういう所に撒くかは聞いていない。僕がわかるのは早く終わらせたいのなら、集合住宅だけを狙って撒けばいいこと。だがそれが本当に撒くべきターゲットでなければただの徒労に終わると言う事も。

「香川くんは今回のチラシというか商品の売りは何だと思う」

「見た感じ千円台から高くても三千円という安価なものが多いですから、親元を離れて初めて贈るって学生とかに良いんじゃないでしょうか」

 なるほどね、と頷く。その顔は怒ってはいないが、かといって機嫌が良さそうでもない。

「じゃあそういう学生はどこに住んでいると思う」

「一軒家に住んでいる訳は無いですから、やっぱりアパートですかね。マンションでは無く」

 アパートとマンションの具体的な違いを言えるわけではないが、何となくマンションは鉄骨で高級なイメージがある。ふうんと犬飼さんは唸る。やはり眼鏡の奥の瞳は笑っていない。

「なんかなあ、香川くん、面白くないね」

 予想すらしていなかったその言葉に思わず、えっと声が漏れた。大喜利的な答えを期待していたのだろうか。

「言いたい事言われちゃって、先輩としてつまんないね。香川くん、やりがいが無いよ」

 褒められていたのか貶されていたのかわからず、喜ぶことはできなかった。


 そうはいってもその後の先輩の手際は実に鮮やかなものであった。僕には到底真似できないほどに。チャイムを鳴らし出てきた面倒そうな顔をした学生に対してにこっと微笑み、余所行き用の声でセールストークをする。高校時代放送部にいたと言うだけあり、その声は聞いていて心地良い。ドアを閉める頃には学生も笑顔でへこへこしている。さすがおじさまキラーの異名を持つ程だと素直に感心した。

「じゃあ次のアパートは香川くん、お願いね」

 先輩は鼻をふふんと鳴らしてチラシを渡してくる。先輩はアパートと言ったが、目の前にあるのは自分基準ではアパートというよりもマンション寄りの、先程よりも少し家賃の張りそうな三階建ての物件。オートロックこそは無いものの、各戸の前には玄関モニターが付いており、防犯性はそこそこ高そうだ。集合ポストを見ると表札がある部屋、無い部屋があるようだが、無い部屋にも人が住んでいないというわけではないようだ。

 セキュリティのしっかりした物件には女性が多い。物件選びの時に聞いた、巷でまことしやかに囁かれるその情報を思い出し、少し鼓動が高鳴った。

一○一号室の前に立つ。先輩は物陰に隠れるように、僕から離れた場所に立っている事が少し気になった。こう言う時は一緒にいてくれるものではないのか。

ふうと息を吐き、先輩のように出来るだろうかという不安が込み上げる。だがその不安は杞憂に終わった。

 インターホン越しにしょぼくれた野郎だとばれた為だろうか。一階二階で出てきてくれる人は皆無だった。全く反応が無いか、一声かけるとインターホン越しに断られるかのどちらかだった。仕方なく反応が無かった部屋にはそのポストにチラシを詰めていく。

 残るは三階。三○一号室。出ない。少し待つが中からは物音ひとつ聞こえない。三○二号室、反応は無い。階段の陰から「次に行こう」と先輩が促す。三○三。チャイムの直後に不意に電気が消えたためすぐに居留守初心者だなと察した。ポストからはみ出る歯医者からのお知らせには、吉村沙耶とばっちり名前が書かれている。初めての一人暮らしで余りにも不用心だが、これから揉まれていくんだろうな、と顔も見ぬその女性に思いを馳せた。

 三○四は存在しない。三○五、チャイムが鳴り終わる前にガチャリと開く扉に呼吸が速くなる。このマンションで初めて出てきたのは、どう見ても日本人には見えない浅黒く堀の深い男性。僕が何かを言うより早く、イラナイヨと勢い良く扉を閉められた。

 先輩はまあ、そんなこともあるさと背中を叩きながら撤収の合図を出す。三○一の前の階段から降りようと、その部屋を通り過ぎる時何気なく目に入った。部屋の前に掲げられた霧沢の文字。

『「霧沢って珍しいね」

「まあね、詳しくは知らないけど全国でもそんなにいないらしいよ」』

 そんな彼との出会いの時にした会話を思い出した。全国的にも珍しい名字、一人暮らしの部屋。桜木駅の隣の駅にも程近い立地。

 まさかと思ったが、その後のビラ配り中も脳裏からこびりついて離れなかった。まさかな。でも、もしかしたら……。


 完全に周囲が闇に包まれた頃、最期の一枚を配り終えた。

「やっと終わりましたね、帰りましょうか」

 頭の中のもやもやを拭うように、自分でも不思議なくらい元気良く言った。

「嬉しそうだね」

「そりゃあそうですよ、やり終えた後は良い気分ですよ」

 ふうん、と彼女が舐めるように見る。眼鏡にはきょとんとした顔の僕が反射している。

「先輩とのデートが終わるのがそんなに嬉しいんだ」

 そう言って一人、振り返りもせず歩いていった。ほんの冗談なのか、単にからかわれているのかも判別が付かず、僕はただ数メートル先にいる先輩の背中を走って追いかけた。その間もあのもやもやは消えはしなかった。



「あなたはあるセールスでボロアパートの部屋を廻っています。ある部屋から出てきたのは明らかに日本人では無い黒人男性。その男は英語でも無い言語であなたに説明を求めましたが、あなたは迷い無く応対することができました。なぜでしょうか」

 それが二日ぶりに会う藤森が、開口一番僕に言ってきた言葉。ただの遊びだからと前置きをして。僕はてっきり春香さんとの事を聞かれると思っていただけに面食らってしまった。まだ来ていない霧沢と広瀬の席を開け、僕は座り込んだ。

 真面目に考えるつもりは無かった。藤森が「俺はすぐわかったけどね」としたり顔で言うまでは。

なぜって、ボディランゲージを使って? トライリンガル? いや違う。答えが第三の言語もできますというのでは問題にならないだろう。

「はい時間切れ」

 憎たらしい顔でそう言う。むきになるのも負けた気がするので、さも真面目に考えていませんでしたと言うように、ふうん、じゃあ答えはと聞いた。

「さぬっきーは固定観念こりこりだね。どうして外国人が英語と母国語しか話せないと思うのか」

 それを聞いて思わずあっ、と声を漏らした。

「日本語だったから」

 その通りと微笑む藤森。問題の答えはわかったが、その出題の意図はさっぱり見えてこない。それでこれにどんな意味が、とぶっきらぼうに返した。

「なんだよ、最初に言っただろ。ただの遊び。娯楽の一種だよ。さぬっきーは娯楽に意味を求めるのか」

「いきなり聞いてきたから何か意味があるのかと」

「じゃあさぬっきーが土曜日にSnow Dropをいきなり買ったのにも、何か意味があるんだな」

 はっ、と間の抜けた声が漏れた。一瞬心臓が止まってしまったのかとさえ思った。藤森はにやにやと笑みを浮かべている。

「由里ちゃん、憶えてるか」

 すぐに核心には連れて行ってくれないこのやり口。そんなサディスティックな彼の口から出てきたのは聞き覚えのあるような無いようなその名前。そもそも僕が下の名前を知っている中で、ちゃん付けが許されるほど若そうな女性など数えるほどしかいない。妹、春香さん、あとは犬飼さんをはじめとしたバイト先の女性数人。だがその中に由里と言う名前はいない。

「おっぱいの大きい」

 その張り付いた笑顔のまま藤森が続ける。そういえば最近、そんな話を聞いた気がする。確か藤森が車の窓からって話をした時に。あっ。

「広瀬の彼女」

 ぽつりと呟くとご明察と藤森が拍手をする。

「それでその広瀬の彼女、由里ちゃんと何の関係が」

 できるだけ目の前の彼と視線を合わせないようにして尋ねる。早く結末の部分が知りたいが、教えてもらうためには藤森の掌の上で転がされるしかないのだろう。

「何だと思う」

 これまで何度も彼を憎たらしいとは思ったことがある。しかしこの時初めて彼を殴ってしまえたらとさえ思った。興奮を抑えわからないなあと言うのが精一杯だった。

「じゃあヒントを出します。由里ちゃんは何学部でしょう」

 記憶の中から引っ張り出す。彼女はそう、文学部だ。

「その通り、じゃあ文学部と言えば」

 文学、本、図書館……。あっ。

 文学部だから本屋でアルバイトをするという安直な考え。それをヒントとして出した藤森。先程の話ではないが、固定観念こりこりなのはどちらだと言ってやりたい。何にしてもわかった。あの童顔店員が由里ちゃんね。そう言えば一度だけ会ったことがあったな。あとは由里ちゃんから広瀬へ、広瀬からと言うわけか。

「さぬっきーが自発的に急に恋愛小説なんて買うわけ無いし、どうせ春香ちゃんに影響されたんだろ」

 春香ちゃん、と親しげに呼ぶことも気になりはしたが、それ以上にどきりとした。まさか購入に至った理由もばれているのだろうか。心臓の奥がざわつく。一秒でも早く寝込んでしまいたい。胸を抑えながら藤森を見ると、彼は探偵が犯人を追いつめた時のように、自信にあふれたいやらしい顔で笑っている。

「主演が春香ちゃん似だから妄想してたんじゃないか。まさかイッちゃってたりしてな」

 苛々していたはずなのに、思わずふっと吹き出しそうになった。本当に察しが良いな、こんなにも惜しい所までにじり寄ってくるとは。そうはいっても本当の理由をしつこく追及されても困るので、藤森の言った事は真実ではないが、僕は静かに、さすがだねとしか言う事が出来なかった。それでも心の奥底は先程までとは打って変わって落ち着いていた。

 彼も急に落ち着き払い、冗談めいた僕の様子に毒気を抜かれたのか、つまらなそうに椅子に座った。どうやらここが彼の一番聞きたかったポイントのようだ。

「それで、春香ちゃんとのドライブデートは」

 霧沢のやつどこまで情報を流したのかは知らないが、それにしてもと彼を見る。いつもならここを食い入るように聞いてくるはずの話題なのに、今の彼はあまり興味が無いかのように毛先で遊んでいる。

「特に何も無かったよ」

「そうだと思った」

 藤森と目が合う。いつものいやらしい笑顔だ。訳も無く二人ではははと笑った。

 それから程なくしてやってきた霧沢と広瀬に詰め寄ったのは言うまでも無いだろう。

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