ep.4 再会

 講義終わり。僕たちは今、大学からも駅からも程近い喫茶店に来ている。マスター夫婦で個人経営するという小さな喫茶店だ。僕一人だったら一生この空間に足を踏み入れることはなかっただろう。

僕たち、と言っても姉に恥ずかしいから絶対に他の人は連れて来ないでくれ、と強く釘を刺されたらしく、四人がけのニス塗りの木のテーブルには入口に背を向けて座る僕と、その右向かいに座る霧沢のみである。

「霧沢はよくここに来るの?」

しっとりとしたピアノジャズのBGMに紛れ込ませるように霧沢に耳打ちすると、まあねと返ってきた。


 ここに来るまでに霧沢から彼女が二歳年上であること、女子大に通っている事、昔から男には引っ切り無しに声を掛けられているが過去には一人か二人しか付き合ったことが無いこと、そして現在は彼氏がいないらしいということを聞いた。強引に聞いたのは藤森であるが、この時ばかりは僕も彼によくやったと贈りたくなった。

 意外と少ないんだねと素直に口にしたが、頭にはあの悲しげな表情と鼻血姿が過ぎった。藤森の言う通り過去にもいろいろあったのかもしれない。霧沢も姉ちゃん、そう言う恋愛感情に鈍感だから、と付け加えた。

 しかし兄弟の恋愛事情を語るのにこの語り口とは。僕ならもし妹に彼氏ができたと聞いたら、こんなに冷静にはいられない。頭を下げてどうかよろしくとお願いするだろう。あっ、でも一度は通過儀礼として『お前に妹はやらん』とは言ってみたい。

 とにかく僕と女兄弟への想いにこれだけ齟齬がある以上、もう二度と霧沢の前で妹の話題を出さないと心に誓った。

話を戻そう。

「もう来るかな」

 僕はもう何度目かのそのセリフを言い、そのたびにコーヒーに口を付ける。何とも言えない苦味が口いっぱいに広がる。数口程我慢したあとでソーサーに置いてみるがやはり殆ど減っていない。こんなことなら見栄を張らずオレンジジュースにするべきだったか。


「今、駅に着いたみたい。もうすぐ来るって」

 霧沢が端末に目をやりそう言う。いよいよか。僕は深呼吸をして数十分前にした、自称恋愛マスターの藤森との会話を思い出す。


『いいか、恩着せがましいのは男じゃないが、明らかにペースはお前にある。それは絶対に忘れるな。それから、グイグイ行こうとするな。まあもともとそんな感じじゃないと思うけど。で、これだけの上物なら、今までどれだけの男から言い寄られたかわからない。当然、お前より数段上のイケメン高スペックからにだ。そいつらと勝負しても勝てっこない。それはわかるだろう。あとは可愛いとか、綺麗とか間違ってもそう言う事は言うなよ』

『確かに女性は褒められると喜ぶって聞いたことがあるけど、初対面でさすがにそれは軟派すぎるよ』

『さぬっきー、そういう意味ではない。ただ奇しくも褒められると喜ぶってのは俺もそう思う。だがはっきり言う。この子に可愛いとか綺麗って言うのは褒めていない。ただ事実を言っているだけだ。例えばさぬっきーが眼鏡を掛けていないんですね、とか髪が黒いんですねと言われて嬉しいか』

『いや、何とも』

『それと同じだ。もし褒めたいなら彼女は外せ。これが鉄則だ』

『彼女を外す?』

『わかりやすく言うなら彼女自身には触れずにその周りを褒める。例えばネイルだったりアクセサリーだったり、バッグだったり。そこから彼女のセンスと言うふんわりしたものを褒める。すると彼女は自分自身を肯定されたと喜ぶんだ。あとはブラコンの毛もありそうだから、姉の前で弟がいかに良いやつかべた褒めするのもありだ。まあこれは様子をみながらだがな』

『そんなもんなのかな』

『まあこの程度の事は他の男もやったはずだ。そしてもう一つの鉄則。彼女にのめり込ませろ』

『のめり込ませる? いまいちピンとこない』

『何度も言うがこの子に言い寄ってくる男はいくらでもいる。だから好きとか可愛いと言われるたびに彼女は思うはずだ。またか、どうせ顔が目当てなんだろうと』

『うんまあ、飽き飽きしてるよねってのはわかる』

『今日の謝罪の場も多分、彼女はこう思っているはずだ。どうせあの男の子も私に惚れてしまうのねと。そこでお前が予想外にそっけない態度をとったらどうだ』

『そんな傲慢な人じゃないかもしれないし』

『いや、これは傲慢とかそう言う事ではないんだよ。俺は逆に謙虚だからこそだと思う。これだけの子なら小さな頃から良くも悪くも目立っただろう。それこそ本人の意思とは関係なく。だから彼女は身をもって知っているはずだ。自分がいるだけで恨み嫉みいろいろ買ってしまうということを。その結果、彼女は人より前に出ることを嫌う。これは幼少期から少しずつ形成された物だ。』

『ほえー、そんなことよくわかるね』

『より確実に知りたいなら彼女が過去に付き合った人数でわかる。もし片手で数えられるほどなら間違いなく、謙虚な良い美人だ』

『まあゼロって事は無いよね』

『あの容姿でゼロの子が良いならそれこそ美少女ゲームでも広瀬から借りていろ。話を戻すぞ。お前は今日、全くあなたに魅力を感じていませんよと言う態度を押し通す。すると彼女はあれ、この人今までの人と違う、もっとこの人の事を知りたい、となるはずだ。これがのめり込みの第一段階』

『おお、さすが』

『ただそれでオトすこと自体が目的になるかどうかはお前次第だぞ』

『なかなかオチない僕にむきになって、オトしたらそれでもう満足ってこと?』

『そういうこと。そうならないようにそれまでに彼女との関係を作れってこった』

『がんばります。指南ありがとうございます、マスター』

『まあ行って来い。骨は拾ってやるから。もしかしたら彼女、意外にゲテモノ食いかもしれないしな』

『どういう意味だよ』


 若干信じがたい点もあったが、今は彼の言葉を信じよう。そうだ、僕は今日この場で彼女に惚れてはいけない。例え彼女が運命のあの人であったとしても、だ。

今日来るのはあの人前で恥ずかしげも無く鼻血を撒き散らした女性。鼻血女だ。


 その時、今どき珍しい手動式の扉がカランカランと音を立て開いたのを背中で聞いた。霧沢が立ちあがり、こっちこっちと手招きをした。ヒールの音だろうか、凡そ男性ではしないであろうコツコツという音が短い感覚で近づいてくる。

「遅くなってすみません」

 可愛らしい、それでいてわざとらしくない澄んだ声。心臓は無意識にスタッカートを刻むが無理矢理押さえつける。そうだ、目の前にいるのはあの鼻血女……。

「昨日は本当にすみませんでした」

 目の前にいるのは……。


 出会って五秒。すでに陥落しそうです、マスター……。


 そのまま敗け戦のはずだった。

ところが、だ。すぐにこちらと女性とではかなり温度差があると言う事を悟った。その女性は僕の顔を見るなり深々と頭を下げたからだ。彼女は謝罪に来ているのだから当然と言えば当然なのだが、まさに平身低頭とはこのことだろうというくらいに。

 二十年近い人生で、人にこれだけ頭を下げさせたことは未だかつて無い。やられて初めてわかったのだがただこうしてその女性のうなじを見降ろしているのは非常に気分が悪かった。好きとか嫌いとか考える暇も無く体が動く。気が付くと僕も女性と同じ姿勢を取っていた。その状態のまま目だけを動かしちらりと彼女の方を見る。彼女が左手に下げた紙袋が目に入った。このあたりでは有名なチョコレートブランドのものだ。独り暮らしの僕には一回の嗜好品としてはとてもではないが手が出ない代物。


 周囲の視線が集まったのを感じたのか、霧沢はまあまあと僕達を席に座るよう促した。彼女は僕の正面に座る。

彼女が注文したミルクティが運ばれてくると甘くて良い匂いが広がる。僕もそれにすれば良かったと少し後悔した。

 改めて向かいに座るその顔を眺める。ぱっちりとしたまつ毛を携えたその垂れ目は優しい印象で、その瞬き一つで惹き込まれそうだ。薄らと化粧をしているのかほんのりと朱に染まった頬を辿ると、思わず触りたくなるほど艶のある唇。ここから奏でられる音も美しいのは当然だと納得させるものがある。それらを包みこむ手入れのされた黒いミディアムヘアは真ん中で分けられており、右耳の後ろにかけている。それがまた可愛らしさの中で妖艶な大人の色香を演出している。

恐らくこのような場でなければ、僕は彼女の顔を直視することさえできなかっただろう。役得、と言っていいのだろうか。

「本当にすみませんでした。酔っていたとはいえ、許されることではありません。申し訳ありませんでした」

 そんな魅力的な女性が再びテーブルに額をぶつけるのではと言うほど深く頭を垂れた。やはりどうもこうして人の謝罪を見ているのは心が痛い。ましてやこんな普通にしていれば明らかに僕よりも遙か上の女性にだ。居心地の悪いこの空気を何とかしたい。

「ちょっと、止めてください。こちらはもう気にしてませんから」

 と制したはいいものの、顔を上げた女性は今にも泣き出しそうな表情のままだ。

何か言わなければ。心ではそう思うが気のきいた言葉など出てくるはずもない。このままではらちがあかないので彼に取り仕切ってもらおうと、顔を上げ、霧沢、と呼びかけた。

 はい、と二人が返事をする。慌てて和と呼び直すと、女性は申し訳なさそうに目を伏せた。これに関しては僕が不親切だったと反省し改めて言い直す。和、悪いけど仕切ってくれないかな。

「それが良さそうだね」

 霧沢はそう賛同すると、淡々と状況確認から始めた。

「えっと、まずはお互いに昨日の相手で間違いは無いんだね」

 僕も彼女も無言で頷く。

「じゃあまずは姉ちゃん。香川に何をしたか、何をされたかは憶えている?」

「ティッシュを頂いた事だけは。その、あと私が出した」

 言い辛そうにもじもじとしていたが、霧沢が鼻血ね、と事も無げに口にすると、少し頬を赤らめてこくりと頷いた。

「その、私の出した血を拭いてくださったのでしょうか」

 鼻血を血と言い換えたことにしおらしさを感じた。

「えっと、まあその床に落ちた分とポールに付いた分だけですが。それよりもう大丈夫ですか」

 すみません、おかげさまでと言う彼女は、消え入りそうなほど小さく見えた。何とかしてあげようと、その血の付いたティッシュは僕の宝物ですよと冗談の一つでもかまそうかと思ったが怖くなり止めた。代わりに出た無難な一言。

「気にしないでください」

 目の前の女性は相変わらずすみませんと俯く。

「じゃあ姉ちゃんが覚えているのはそれくらいみたいだから、香川。他に何かしたこと、された事は無い?」

 無いことは無いが、弟の手前体面も保たせてあげたい。どこまで言うべきだろうか。

「はっきり仰って頂いて構いません。他に、あなたにどんな失礼な事をしましたか。私にできることならお詫びさせていただきます」

 これだけ無言になってしまったらありますと言ったも同義か。こうなった以上、このまま無いです、と言うのではどうやらお互いにすっきりとは帰れなさそうだ。実害でいえばあとは……。

「あの、席に座ってもらう時に肩を貸したのですが、その時にシャツに血が」

「申し訳ありません。もちろんクリーニング代はこちらで、いえ、新しい服の代金を」

「ああ、そんな。洗ったら落ちますから。もうやめてくださいって」

 お金云々もあるがそれ以上に僕としては彼女の悲しい顔は、これ以上見ていたくはないということが大きかった。こんな謝罪を何千何万回されるくらいなら、一回笑顔で会話をしてくれた方がずっと嬉しいのだが。

「桜、お好きなんですか」

 唐突に話題を変えてみる。えっ、と驚く彼女。桜並木がお気に入りだったようですからと補足するとあそこは特に綺麗ですからねと小さく賛同してくれた。まだまだ笑顔では無いがその声色は幾分か明るくなった。

「私、そんな事言っていましたか」

 少し恥ずかしそうな表情でそう言う彼女。

「はい、どんな辛い事があってもこの景色を見たら忘れられるって。僕もそう思います」

 僕は緊張のあまり引き攣っているのが自覚できる笑顔で言うと、霧沢と彼女の目線が交差した気がした。少し間が空いてそうですよねという彼女の声。横にいる霧沢はなぜかつまらなそうな表情だ。

「桜、お好きなんですか」

 霧沢に注意が向いている僕に向けられたのは、先程と一言一句変わらないその質問。答えは当然、

「一目惚れです」

 言ったは良いが、本当に桜に対しての答えなのか自分でも解らなかった。恥ずかしくなり慌てて付け足す。

「実はあそこのすぐ近くに住んでるんです」

「それは羨ましいです」

「そう思ってたんですが。あのあたり実際に住むと中々大変なんですよ、坂が多くて」

 そうなんですね、と言った彼女は、この場で初めて笑っていた。笑顔とまではいかない微笑。それでも僕の心に突き刺さるには充分だった。しどろもどろにカップを手に取り、口いっぱいに含んだ。はずなのに今は全く味がしない。

「えっと、霧沢……のお姉さん」 

「はるかです。二人とも霧沢じゃあ呼び辛いですよね。私はるかって言います」

はるかさん、ですかと聞き返す。緊張していた割にはスムーズに発音することができた。

「はい、春に香りで春香」

「良い名前ですね、お似合いですよ」

 お膳立てでもおべっかでもなく、素直にそう思った。本当に春の香りのように暖かくて希望があって、そこにいるだけで毎日を楽しくしてくれるような女性。ありがとうと微笑む彼女はまさにそんな女性。でも僕にとっては『遥か』でもあるんだろうなと思うと、少しだけ悲しくなった。


「じゃあこれでもう解決ということで」

 コーヒーが完全に室温に戻った頃、霧沢がそう締める。

「本当にすみませんでした」

 結局、ここの支払いを春香さんが持つという事で話が落ち着いた。彼女は最後までそれだけではと渋っていたが、僕と霧沢に宥められ渋々折れた。渋々と言ったが、実際にはあの後チーズケーキも御馳走になったので僕としても充分だ。ドラマなどではここで、じゃあ今度は食事でも~などと言うところだが、万年チェリーの僕にはそんな勇気も無く解散の雰囲気だ。

 それは良いのだが、僕は先程からあることが気になって仕方が無い。このあとは解散、それはいい。問題は霧沢は原付で実家へ帰る、僕は電車で池ヶ谷方面へ、そしてそれは春香さんも同じ……。

「今日は車で来ているので」

 あっ、はい。そうですか。寂しいような、ホッとしたような。

「良かったらお送りします、あの桜並木の近くですよね」

 不意の一言。えっ、と声が漏れる。僕が霧沢を見るより早く彼は言う。

「ええ、姉ちゃんが? まだ取ったばっかなのに大丈夫なの」

 弟の憎まれ口に、僕には聞こえないようにどういう意味よと反論する春香さん。そのやり取りはなんとも羨ましい。今まで何人の男が彼と代わりたいと願い散って行ったのか。僕もその数多の男のその一人、か。


 霧沢と別れ喫茶店の裏手にあるコインパーキングに案内されると、待っていたのは新品同様に輝くエンドウ豆色のマーチ。車内は綺麗にされているものの殆ど女の子っぽい華やかさは無く、天井からゴリラの縫いぐるみが吸盤で吊るされているくらいである。女の子特有の甘い匂いは一切無く、代わりに新車特有の何とも言えない香りが充満している。

 彼女自身もそうだが、決して派手な装飾で必要以上に飾り立て無い所が逆に可愛らしいと思った。もっとも飾り立てる必要も無いという自信の現われなのかもしれないが。

 走る車内ではこれといって、会話らしい会話はあまりしていない。それでも不思議と気まずくは無かった。決して良いとは言い難い乗り心地の中でさえ、むしろ居心地の良ささえ感じていた。何より助手席から見る真剣な表情の彼女は美しかった。

「ここでいいんですね」

 十分ほどのドライブの最後、そう言ってマーチを並木道に続く路側帯に着ける。はい、ありがとうございましたと返す。フロントガラス越しに見える夕日に染まった桜はやはり絵になる。

「本当に綺麗ですね」

 その光景に負けないほど絵になる声が隣から聞こえた。並木道に並ぶ数種類の桜の中でも最も開花が遅い染井吉野。例年よりも遅い開花とはいえそのオオトリももう散り際。ここで桜を見られるのは今年ももうあとわずかだろう。

綺麗ですね、ええ、とそのまま二人、暫くその風景を心に刻みつけた。

どれくらい経ってか、送ってくださってありがとうございますと僕がドアを開けると、彼女もわざわざシートベルトをはずして車外に出てきてくれた。

「本当にご迷惑をおかけしました」

 今日何度目かわからないその姿勢。白いスカートが風に靡き、露わになった膝に一瞬目を奪われる。

「もういいですって、それよりもお酒は程々にしてくださいね」

 そうですね、と恥ずかしそうに微笑んだ後、それではと再び乗り込もうとする彼女。

 行ってしまう。

 その背中にあのっ、と呼びかける。不思議そうな顔で春香さんが振り返る。

「あの……お気をつけて」

 電車での別れ際と同じ言葉。


「はい、ありがとうございます」

 結局言えなかった、また会えますかという言葉。僕はその豆色の車を文字通り豆粒ほどになるまで見つめていた。その車は迷う様子も無く、ビルの影に消えていった。

 ふっと左手から下げた紙袋から伝わる優しい重量感。お詫びの品ですと渡されたチョコレートだ。少し遅いバレンタインだと洒落こもう。

喧騒のある桜通りをゆっくり振り返りそういえば、と思い出す。藤森のアドバイス全く使わなかったな。


 誰の言葉だったか、恋はチョコレートに似ていると。甘いか苦いかは齧ってみなければわからないと。

そもそもこれが恋なのかすら、今の僕にはわからない。


ただ、今この瞬間感じている、この胸の高鳴りは確かなものだろう。

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