ep.3 姉ちゃん

 一夜明けた金曜日。昨日の一件をどう処理するべきか、僕はこの一晩考えあぐねていた。

やっぱり僕が思った通りの解釈で良いのだろうか。ここまでのことは、やはり彼らにも報告するべきだろうか。

重い足取りで講義室に入る。

既に三人は揃っていて、いつもの場所に集まっている。ただ霧沢を中心にというのは珍しい。僕は挨拶もそこそこにどうしたのと声を掛ける。霧沢は浮かない表情でこちらを見るが、その目の下にはくっきりと隈があった。ああ、おはようと張りの無い声で言い、ぽつりぽつりと話してくれた。

「昨日さ、もう深夜遅くに姉ちゃんから電話があったんだよ。二時かそれくらい」

 彼に姉がいるという情報は初耳だ。一瞬姉萌えの自虐風自慢の線を疑ったが、表情からしてどうもその類ではなさそうなのでそれは大変だったねと調子を合わせる。

「用事は他にもあったんだけど、まあそれはいいよ。話の中で姉ちゃん、電車のなかで大変だったということを言い出して」

僕も藤森も広瀬も、霧沢の次の言葉を待つ。

「一体どうしたんて聞いたらさ、昨日の帰りの電車のなかでポールに頭をぶつけて鼻血を撒き散らしたんだって」

 目の前がぐにゃりと歪んだ気がした。さすがに迷惑だよね、ねえ香川と呼びかけられた気がしたが、すぐに反応する事は出来なかった。

「鼻血……大変だよね」

 間違いであってくれという願いを込めて、やっとの想いでその言葉を絞り出した。

「お姉さんは大丈夫だったの?」

「それが、丁度乗り合わせた大学生位の男の子にティッシュを貰って介抱してもらったんだけど、自分が何を言ったかとか憶えてないらしいんだ。ただその時は凄く酔ってたから間違いなく迷惑な対応をしたんじゃないかって。なんせ家に着いたら手は血で真っ赤だわ、鼻にティッシュが詰まってるわらしいから。って言うのが二時の電話。で、朝になって、急いで電車の交通局に連絡したんだって。そうしたら設備には血とかは付いてないから大丈夫ですよって言われたらしいよ。だからその人が綺麗にしてくれたんじゃないかって言ってる」

 その話が終わると同時に、はははと言う乾いた笑いを聞いた。紛れも無く僕自身の口から出たものだと気が付くのに数秒掛った。不思議そうな六つの目が集まる。

「おいおい、大丈夫かよさぬっきー」

「いや、おかしい。霧沢実家暮らしだよね」

 そうだ。霧沢の家は真逆の方向なのに、その姉があの方向の電車に乗っているのはおかしいじゃないか。細い細い理論の糸。

「俺はね。姉ちゃんだけ一人暮らししてるんだ」

 無念にも糸は垂れ下がることなく千切られた。他人を押しのけたわけではないのに救いの手は差し伸べられない。

……いやまだだ。偶然、昨日電車で鼻血を出した女性が複数いたとは考えられないだろうか。

「じゃあ、その電車って何時頃? どの駅付近?」

「なんだよ、やけに食いつくねさぬっきー。もしかしてそういうフェチなの?」

 確かに美女の鼻から出血シーンなど一生に何度も見られるものではない。貴重度で言ったら失禁にも匹敵するだろうし、そういうフェチがいるとしても理解できなくはない。だが声を大にして言いたい。恥じらいも無く初対面の女性にあんな事をされたらいかに美人でもドン引きするよ、と。

「そんなんじゃないけど、ちょっとね。で、どうなの霧沢」

 その勢いに押されたのか、霧沢はえっとと言い慌てた様子でスマートフォンを弄る。直後にバイブレーションが鳴り、重々しい表情でその画面を読み上げる。

「時間はたぶん夜の十時過ぎ、この大学の近くか少し前の駅だって。恐らく……だけど」

 僕の中の何かが音を立てて崩れた気がした。運命の女性が泥酔鼻血女でそのうえ友人の姉?

 だが仮に昨日の鼻血さんが霧沢の姉だとしても、だ。その姉があの日の女性だという確証はない。僕が勝手に思い込んでいるだけだ。第一眼元に黒子がある女性なんて五万と存在する。

すわと霧沢の両肩をぐっと抱き、その白黒している瞳を見つめた。

「一回そのお姉ちゃんに会わせてよ。頼むよ霧沢」

 どうやら僕には自分でも知らない積極的な一面があったようだ。


「つまり、霧沢のお姉さんを介抱したっていう男子学生は香川で、さらに香川が前言ってた運命の女性がそのお姉さんってこと?」

 一つ一つを確認するように広瀬がゆっくりと言う。僕はかもしれないと弱弱しく頷く。

 ふいに藤森が世界は狭いねぇと毒づいた。

「しかし、チャンスじゃないか」

 ずい、と藤森がにじり寄ってくる。エッジの効いた柑橘系の整髪料の臭いが鼻につくところまで近づき続けた。

「それが本当なら、さぬっきーは憧れの女性に一つ貸しができた状態だ。仮に相手がそう思ってなくとも、少なくともこれで切っ掛けはできたわけだ」

「貸しって……そんな大袈裟な」

そんな僕の言葉を無視し、なんなら、と続ける。

「なんなら、俺はお前のあられもない姿を知っているぞ、って脅す事も出来るわけだ」

 そう言うと、今までの悪い顔とは打って変わって、子供のように目を輝かせながら霧沢の方を向いた。

「ところで、その姉ちゃんって可愛いの?」

 霧沢はその質問にすぐにははいともいいえとも言わない。ただ困ったように首をかしげた。妹のいる僕にはわかる。この反応はある程度は第三者から見ても可愛いと評価しているパターンだ。そして決して僕には出来ない反応。

「俺はあんまり気にしたことないけどね。この前、篠崎彩乃に似てるって言われたって喜んでたよ」

 ふーん、と意外にもそっけない反応の藤森と誰? と首をかしげる広瀬。ああ、そう言われれば確かに似ている気がしないでもない。

「ほら今やってる『茜色の約束』の主演」

「ああ、携帯会社のコマーシャルにも出てる……」

思い出したように広瀬が答える。

「そう、その子」

「パーツパーツが個性的な訳じゃないんだけど、凄く良くまとまってるんだよね。それで気が付けばものすごく美人て感じの」

さっきまで知らないと言っていた広瀬が饒舌に分析する。

「それで、写メとか無いの、霧沢くぅん」

 いつの間にか藤森は霧沢の肩を抱き、馴れ馴れしくプレッシャーをかけている。霧沢は困惑した表情を見せたが、僕の顔を一瞥すると仕方ない、とスマートフォンをまさぐり出した。

「ほら、この前実家で集まったときのやつ」

 三人でスマートフォンを覗き込む。家族四人の集合写真。庭だろうか、どこかのセットのようななかなか立派な佇まいの空間だ。一番左に霧沢……って、全員霧沢か。とにかく目の前の彼。そしてその隣にはしゃがんだ状態でプードルを抱えた女性。ふわりと内側にカーブした黒髪、すっと通った鼻筋、目元の黒子。髪の分け方に至るまで全部が昨日の彼女と一致している。それどころか

「えっ、可愛い」

 広瀬が思わずそう漏らす。それが彼女に抱えられた動物に向けられたものでは無いことは容易に理解できた。それくらい彼は僕の気持ちを代弁してくれた。

はいおしまいと霧沢がスマートフォンを取り上げるまで、僕らはただただその一枚の画像を見続けていた。こうしてみると確かに霧沢とも良く似ているような気もしてきた。

 あんな女性が昨日あんなことを……。彼女のきっちりとした顔を見た今なら、このギャップで楽しめたんじゃないかと秘かに思ってしまったのはここだけの秘密だ。

 さぬっきーと呟く声。はっとして声のする方を見る。その瞳は再びおもちゃを見つけた子供のように輝いている。隣の広瀬も同じだ。霧沢だけが伏し目がちに僕を見る。

「とりあえず、姉ちゃんに香川の写メ送ろうか」

 何でもないように霧沢は残酷なことをのたまった。


 五回、いや十回は撮り直しをさせただろうか。わざわざ日差しが斜めに差す窓際に移動し、周囲からは好奇の目で見られながらも何とか見せられるだろうという一枚を手に入れた。後ろで藤森と広瀬が全部同じじゃ無かったか、と囁いているのが耳に入ったが、とんでもない。

「じゃあ送るよ。文面は昨日の大学生ってこの人じゃない、でいいかな」

「うん、あとは凄くいいやつだよって」

 僕がそう言い終わるよりも早く、はい送ったよと霧沢は言った。すぐには返信が無い。そのまま二、三分経過した所で教授が教室へと入ってきた。仕方なく各々席に着くが、その講義に全く身が入らなかったのは言うまでも無い。

 九十分間のもやもやが終了した。父さん、母さん、高い授業料を払っていただいているのに講義を真面目に聞かない息子でごめんなさい。ただその息子は、もしかしたらあなた達の子とは思えないほどの彼女を連れていくかもしれないのです。どうか今は温かく見守っていてください。

心の中での懺悔を終えた頃、既に藤森はおいどうだったと駆けこんでいる。何を考えているのかわからない表情で霧沢は、来てるよとだけ答えた。

 それを見る前に、僕は一つ大きな深呼吸をした。まず間違いはない。霧沢の姉が昨日の鼻血の女性であることは。あとは彼女がそれを覚えているか、知らない素振りをしないかだろう。一体どんな反応が返ってきているのか。僕は差し出されたその端末を、半ばひったくる様に攫った。

『そのひと。かずくんのしりあいなの しゃざいとおれいがしたい あえないでしょうか 』

 変換もされておらず飾り気も一切無いその文面からは緊迫感さえ感じる。個人的にはあの姉にかずくんと呼ばれている霧沢が少し気に入らないが。そのままスマートフォンを、後ろから覗き込もうとしている藤森に渡す。

 かずくん、と興奮している藤森に反応したのだろう、少し赤らんだ頬で霧沢が言う。

「香川、そういう事なんだけど、今日この後良いかな」

 今日はバイトも無く一日開いている。仮にバイトがあったとしても即効で店長に連絡しただろうが。本当はすぐにでも声を大にして喜んでと言いたかったが、僕は一呼吸置くと出来るだけ落ち着いたように返事をした。

仕方無いな、と。

 つまらない男の意地。

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