ep.2 血痕-shotgun marriage-

 走り出した車輪は悲鳴を上げながら夕日に向かって走っていく。傷心の夕暮れ電車。そんな短編小説が一本書けそうなほど僕は今傷ついている。どうもこうもない、揺れる車内で思い出す。

「マジパないね、さぬっきー、それはロマンティックが止まらないな」

「気持ちはわからなくもないけど、顔も分からない相手ってのは……ねえ」

「ちょっと慌てすぎだよ。うん、夢が見たいなら、僕のお気入りの美少女ゲーム貸そうか」

 相談に乗ってくれとは言わない。僕自身だって半ば馬鹿げた話だと思っているのだから。だが、せめて頑張れよの一言くらいかけてくれてもいいじゃないか。それを寄ってたかって笑いものにして。

 この心を癒してくれるのはお前だけだ。到着のアナウンスとともに夕日をバックに広がる桜並木に目をやる。ああ、やっぱり綺麗だ。おそらくこの景色を綺麗だと思えなくなった時は、心か体が本当に病んだ時だろうな、と頭の片隅でそんなことを考えた。


 翌日、僕はなんとその人と運命的な再会を果した……などというドラマのような事があるはずもなく、独り寂しく電車に揺られた。

「おはよう、どうしたの浮かない顔して」

 講義室に着くなり広瀬が声を掛けてきた。霧沢と藤森はまだ来ていないようで、僕は肩かけの鞄を机の上に置きながら小さな声で答える。

「別に、どうせ笑うじゃん」

「ああ、昨日の話ね。別に笑ったりはしないよ」

 静かにのんびりとした口調で答えたその口元は、僅かに緩んでいるがこの笑みは馬鹿にする意図はない、と僕は思う。

「ちょっと、羨ましいなと思って」

「羨ましい?」

 もう四年も付き合う彼女がいる彼が、羨ましいだって。さすがにそこまでいくと俄かには信じがたい語り口だ。そんな僕の想いを悟ったのか、彼は続けた。

「ほら、僕達付き合ってそこそこ経つから、出会ったころのと言うか片想いの頃のドキドキっていうのが最近はあんまりないからね。そういう点では、香川が羨ましいなって」

「でも、長く一緒にいるから安心感みたいのはあるでしょ」

「まあ、そうなんだけどね」

 まあそうなのか。これでは勝ったような負けたような、複雑な気分だ。まあ実質は完敗なのだろうが。

「昨日は皆の前で勢いに押されて恋愛ゲームがって言ってごめん、僕、香川を応援するよ」

 広瀬がぺこりと頭を下げる。このままでは体の良いモルモットにされる気がしないでもないが、少なくとも僕よりも女っ気がある彼の言う事だ。無碍にすべきではないだろう。手放しでは喜べないが。

「ありがとう、よろしく頼むよ」

「とはいえ相手の手がかりもないんだろう、どうしたものか」

「何にしてもまずは出会わないと」

 それはそうだと相槌を打とうとした時だ。

「出会ってどうするつもりだ」

 鼻にかかった甲高い声が聞こえてきた。僕も広瀬も慌てて声の方を見た。右手の人差指と中指を少し内に巻き、おでこに着けた仕草でその男は立っていた。相変わらずチャラい。

「で、どうするつもりなんだ」

チャラいポーズをやめ、ずいと凄む藤森に思わずえっ、と声が漏れる。どうって、出会って、そりゃあ遠くから眺めて……。

「まさか、眺めているだけで満足、だなんてストーカーまがいの事は言わないよな」

 心の中を見透かされたようにそう言われた。自分でもわかるくらい顔の周りの温度が上がった。

「図星みたいだな」

 藤森がふうと溜息をつく。そしていいかよく聞けよと言わんばかりに僕の目の前に人差し指を突き出した。

「よくドラマなんかで、運命だなんだと言ってるが、実際そんなビビビと来る事なんて殆ど無い。女をとっかえひっかえしてるようなやつでも、だ」

 どこぞのCEOのように僕の周りを歩きながら熱弁を始めた。両手を広げ、身ぶり手ぶりが激しい。とてもではないが、ビビビと来ないからとっかえひっかえしてるのでは、と茶々を入れられる雰囲気ではない。

「つまりだ。さぬっきーくん、あなたは今人生で二度とないかも知れない、運命を感じる人と出会ったわけだ。君があと何年生きるか。五十年? 六十年? とにかくその長い人生の中でこんな出会いは二度と無いのだよ。それを眺めているだけで良い? そんな勿体無い事が良く言える。俺なら形振り構わず、玉砕覚悟で猛アタックするね」

 僕と広瀬は顔を見合わせるしかなかった。


 藤森に熱いアドバイスをされてから何日か経った。あの日から藤森は、僕と顔を合わせるたびに今日はどうだった、明日会ったら行けよとしつこく釘を刺してくる。横の二人も何だか楽しそうだ。

 当の僕はと言うと、確かにその間にどんどんとあの人への憧れは高まり、微かな記憶の中で美化されていった。だがもしも次に出会ったら柄にもないナンパ紛いの事をしなければならないのだ。それも知り合いもいるかもしれない通勤通学電車の中で。正直言って、もう一度会いたいという気持ちと、どうかもう会わないでくれという気持ちが半々くらいだった。


 大学二年。それは大学の生活にも慣れ、まだ研究室だ就活だというプレッシャーも無いのんびりとした期間。俗に言う中弛みの時期。ご多分に漏れず僕たちは講義が終わると、バイトが無い日は遊び呆けていた。

 それはそんな木曜日の事だ。本当は霧沢の誕生日を祝うという名目だったのだが彼は用事があるからと先に帰り、残りの三人でいつものようにカラオケで解散し、帰路に着いたのは二十二時頃。この日は大学の二つ先の駅で電車を待った。五分ほどで二つの目を光らせて電車が滑り込んできた。ゆっくりと流れていく各車両には人は殆ど乗車しておらず、一両に十人程だろうか。音を立て自動ドアが開く。

 向こう側、つまりこちらに背中を向けた状態で、丁度ポールの所に若そうな女性が立っている。女子大生かこの春からのOLと言ったところか。すらっとしていて後ろ姿だけだがそこそこ美人そうだ。

 だが七人がけの座席はまばらで、座れない訳はないため立っている彼女は不自然に浮いていた。しかもよく見るとその女性は眠っているのか、首がこくりと前後している。僕はその女性を避けるように入ってすぐ右側の座席に腰掛けた。

 悪いとは思いつつ、ちらちらと女性の方に目をやる。相変わらず女性は大きく舟を漕いでいる。何となく水を呑む鳥の玩具みたいだなと思った。あれは外部に仕事をしないから永久機関じゃないよと霧沢に親切懇意に教えたのは昨日の事だ。

 スマートフォンで日課の怖い話巡りをしていると、不意に前方からごんという鈍い音がした。すぐにあの女性だろうなと思いつつ再び彼女の方を見る。案の定。だがそれ以上だった。

 彼女は左手でポールに捕まり右手で鼻の頭を摘まんでいる。右手の下には……赤い血。

 気が付くと僕は、見ず知らずの只者ではないその女性にティッシュを差し出していた。女性は赤ら顔でこちらを一瞥する。その顔は想像していたよりも数段は綺麗だった。それが蕩けそうなほどふにゃりとしている。鼻から二本の赤いラインを伸ばして。

 左手は萌え袖というやつだろうか、薄手のジャケットに親指の根元まで埋ずまっている。

「これは、ご丁寧にどうもであります」

 それが彼女との初めての会話。朦朧とした口調でそう言うと右手をさっと頭に揚げた。他の部位がこれ程までに緩んでいるにも関わらず、右手だけはピンと肘、指先が綺麗に伸びていることに少しだけ気押された。

 こんな美人にこんな無防備な姿を見せられて惚れないはずがない、と思ったのは一瞬だけ。すぐに僕は気が付いてしまったのだ。鼻はもちろん、こちらに向けた掌にもべっとりと真っ赤な筋が付いている事に。無意識に一歩だけのけ反った。やっぱり近づいてはいけない人だったのだろうか。

 ぷんと酒の臭いが漂ってきた。お酒のせいかと少しだけ安心したのも束の間、長い時間右手を鼻から離したためだろう、雫が一滴垂れ、床に赤い染みを作った。

「あの、座ったらどうでしょう」

 たまらずそう促す。しかし、目の前の女性はふらふらとしたまま首を横に振る。その遠心力に引き伸ばされ、穴の突端では次の雫がスタンバイしている。頼むからとりあえず鼻にそのティッシュを詰めて欲しい。

「駄目だよ。そうしたら見えないでしょ」

 こちらの心配をよそに女性はそう言ってきた。僕は何のことかわからずに黙るしかなかった。車内が少しだけ揺れ、女性は慌ててポールに掴る。右手で掴んだものだからポールには当然、赤い汚れ。僕の中で彼女の立ち位置が、綺麗なお姉さんから血を塗りたくる酔っ払いに人事異動したが、女性は続けた。

「君知ってる? この先に桜がすごく綺麗な場所があるんだよ」

 赤い指をこちらに突き出しけらけらと笑った。鼻から続くバージンロードは既にその白無垢の歯をも染めようとしている。垂れますよと指摘し拭わせる。

 このご時世というかこの人に、知っているも何も僕はそこに住んでいますとは怖くて言えない。ああ、そうなんですかとだけ答えた。すると女性は嫌な事もあの景色を見たら忘れちゃうんだよと大きな声で言った。じゃあ今このことも忘れさせてくださいと強く思ったが、ふいに彼女はふっと悲しそうな顔で、どんな辛いこともね、と呟いた。一瞬だけ見せたその顔は、大げさでもなく一枚の絵画のように儚く、そして美しかった。

 気が付くと女性は、だから見ないとね、と再びけらけらと笑っている。じゃあそこまでは座っていたらどうです、僕はそこで降りるから寝ていたら起こしてあげますよと宥め、なんとか彼女を頷かせた。余りにも彼女がふらつくものだから、座る際に僕の肩を貸した。彼女が手を離した後で見るとシャツには赤い筋が掌の形に付いていた。溜息をつき一人半分のスペースを開け僕も座る。

 その後は特に会話するでもなく、車内は穏やかだった。余りにも静かなので不思議に思い左側を見る。女性は鼻にティッシュを詰めた状態で、静かに寝息を立てていた。大人しくしていれば結構な美人だなと改めて思った。それにしてもどこかで見たような横顔だ。

 この人が寝ているうちにと、僕は静かに立ち上がる。ティッシュを一枚取り出し、先程の床の染みに乗せた。幸いまだ乾いていなかったようで、ポンポンと叩くと少し伸びつつも綺麗に取れた。同じようにポールも。こちらにはカラオケ店から使わずに持ってきたおしぼりを使う。

 このままこの女性を一人にするのは心配だが、さすがにこれ以上何かする義理も無い。あまり調子に乗って事案にされても困りものだし。

綺麗な人なのに、酔っ払いって怖いな。もうすぐお酒を呑む日が来ても程々にするよ。ありがとうお姉さん。そんな教訓を胸に、女性の右肩を二回軽く叩く。女性は目を開けると周りを見渡し、うわぁと微笑んだ後、君は桜の木で降りるんだと少し寂しそうな声を出した。僕は何と言えばいいのかわからず、とりあえず思いついた気を付けてくださいとだけ言い、電車を降りた。もう掌の血液はある程度拭き取られているし、残ったのも乾燥しているみたいだから大丈夫だろう。


 降り様に見てしまった。バイバイと手を振るその女性、見えているのかと言いたくなるほど薄く広げたその左目尻にあるその黒子を。

 電車は小さく悲鳴を上げ、少しずつ小さくなっていった。肩口に残った血の跡だけが、今の出来事が夢では無いことを静かに主張していた。

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