プロローグ
冬至を過ぎたとはいえまだまだ日の出は遅い。サンシェードの隙間から太陽が射し込むにはまだ早い、そんな時刻。
薄暗い街は昨日の喧騒を忘れたかのように物静かだ。もっとも、既に今日と言う日を迎えている者も僅かながらいるようで、耳を澄ませばそこかしこで彼らの息遣いが聞こえる。
どこかで鈍い音を立てながら上がっていく雨戸。新聞配達のスーパーカブのエンジン音、それに反応したのだろう、尾を引くように吠える飼い犬の鳴き声。それぞれが迎えるいつも通りの朝だ。
そしてここにもいつも通りの朝を迎える者たちの音。聞こえてくるのはカチャカチャという金属の触れ合う音、小気味よく何かが刻まれる音、そして蒸気が吹き出そうとする音。よくある朝食を準備する光景。
ただ一つ、その風景にあえて珍しさを指摘するならば、その朝食を作っている人物が、まだあどけなさが残る少女であるという点だろうか。
その初々しさが香るセーラー服の上に身に着けているのは、かつて家庭科の授業で造りましたと言わんばかりの可愛らしいピンクのエプロン。それが彼女の中の年相応の女の子らしさを引き立てている。だがその見た目とは裏腹に、その動作は実に手際よく、狭いキッチンの中をまるで踊るように動き回る。髪は頭の後ろで一纏めにされており、彼女がキッチンを忙しなく移動するたびに、その馬の尻尾も右へ左へ優雅に靡く。
やがてキッチン一杯に味噌とだしの良い匂いが広がり始めた頃、
「朝だよ、ほら」
少女は振り向くでもなく、ただただそう呼びかけた。それと同じタイミングで彼女の背後、そう遠くない場所でアラーム音が鳴りだした。彼女がいるダイニングキッチンと扉一枚隔てた空間、つまり隣の部屋からだろうか。
そのアラーム音が意図的に止められたにもかかわらず、その後隣の部屋からは物音ひとつ聞こえてこない。が、少女はそれを特に気にするでもなく、今完成したばかりの品をダイニングテーブルへと並べ始めた。
並んだのはひじきの煮物、ほうれん草の御浸し、出し巻き卵に長ネギの味噌汁。それにご飯と納豆。それがテーブルのこちら側と向こう側、つまり二人分配膳されている。この少女が作ったにしては、いや、一般のどこの家庭であってもご機嫌な朝食だ。少女は机に並んだそれらを見回すと、軽く頷き
「早く起きないと冷めちゃうよ」
再び扉に向かい声を飛ばした。少し間が空き返ってきたのは気だるそうな男性の声。あと五分だけ、と。じゃあ五分だけだからねと少女が言い終わるより早く、あぁという間延びした返事だけが聞こえて来た。少女はふうと溜息を一つつき、一人テーブルに着いた。いつも通りの朝だ。
「五分経ったよ」
枕元に立ち、先程よりも大きな声でそう呼びかける。が、不明瞭な返事が返ってくるだけ。少女は困ったように眉をハの字に曲げるが、それも一瞬。直後にその表情は何か悪だくみを思いついた子供のそれになった。足元に置いてある時計を弄ると再びそれを置き、膨らんだ布団をゆさゆさと揺さぶった。
「大変だよ、もうこんな時間。早く起きないと」
わざとらしく大きな声で呼びかける。その声を受け、少女の足元の団子はもぞもぞと動き、中から三十代と思しき男性がひょこっと顔を出した。寝ぐせで乱れたその髪、眠そうに薄く開いた目蓋。現状では男前とは言えない顔立ちだが、しっかりと整えればそれなりのものだろう。そのすっと通った鼻筋は、少女のそれと似ていた。
少女は男性が顔を出すや否や、時計をぐっと彼の前に持っていく。男性は目をこすりじっと見つめる。長い針が六、短い針が十二と一の間……なんだまだ六時じゃないか、と安心したのも束の間。その誤りに気づいた男は目を見開いてがばっと跳ね起き、バタバタと喧しく室内を走り回る。スーツはどこだ、寝ぐせがなんか気にしている場合か。
たちまち今日が動き始めたようだ。
背中で「出るならゴミをもっていってよ」という声を聞いた。そんな暇などないと言わんばかりに、男は乱暴にドアを押しのける。第一もう収集の時間はとっくに過ぎているだろう、と階段二段飛ばしで駆け下りた。
一階まで降りた先、男の視線に収集場所に置かれた数個の可燃ごみの袋が映る。脇の看板には『ごみ出しは朝七時まで』とでかでかと書かれているにも関わらず、それがまだそこにある、つまり回収されていない。その光景が男の脚を止めた。
ふっと自分の部屋を見上げる。そこで彼は、ドアの前でにこりと笑って立っている少女の姿を見た。彼は鼻の穴を大きく膨らませ、僅かに口の端を歪ませた。
「いつも言ってるよね、自分の発言には責任を持ちなさいって」
「……はい」
可愛らしい制服姿の少女を前に、正座して俯くスーツ姿の大の大人。その姿は目の前の少女よりも遥かに小さくなっている。傍から見たらなんと異様な光景だろう。少女は男性の情けない顔を見るとふっと吹き出し、解ればよろしい、と彼をテーブルへと促した。
少し冷めてはいるが十二分に美味しい朝食だ。それらを摘みながらふいに男性がぽつりと呟く。
「ホント、母さんに似てきたな」
少女はほんと、と嬉しそうな声をあげたが、すぐに険しい目つきを取り直し男性を睨みかえした。
「そうやって褒めても、さっきのは帳消しにならないからね」
その言葉に男性は飲んでいた味噌汁で噎せ返る。何度か咳をした後、そんなんじゃないさと弁解した。
「ホントによく育ってくれてるよ、お前は立派な母さんの娘さ」
その表情から嘘や煽てでは無いと感じたのか、少女はへへへと小さく笑った。
食事が終わると少女は洗面台に向かう。鏡の前で身支度を整えると頭に手を伸ばし、束ねたゴムをしゅるりと解いた。手入れのされた黒髪がはらりと揺れる。それを様々な角度から眺めると、満足そうに頷いた。
「じゃあ私はもう行くから、片づけはよろしくね。いってきます」
洗面所から出てきた少女はそう言うと鞄を手にし、駆け足で部屋を出ていく。その背中を見つめる男性の姿。
ほんと、自慢の娘だよな。
それにしてもよく似てるよな、あいつにも……。
男性は目を細め、小さくそう呟くと腕をまくった。
いつも通りの一日が始まる。
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