ep.1 春の香り

 春爛漫。暖かい風の匂い。真新しいブレザーを着た女子高生の集団。新しく芽吹きだした黄色い蒲公英。そして……。

 いつものようにその道を通り、大学に向かう電車に乗り込む。この時間この場所からでは席が開いていないのはいたしかたない。そのまま前進し、特等席のドア付近のポール前を陣取る。この桜木駅から大学までは駅二つ。大体十分程度だ。新しく大学でできた友人たちは、それくらい自転車で来られるだろうと笑ったが、実際に住んでみればわかるだろう。昔は小さな山だったと言うだけありこのあたりは起伏に富み、とてもじゃないが自転車で通う事は出来ない。そう伝えれば彼らが次に言う事は当然、じゃあ何故そんな所に、である。理由は先程歩いたし、この窓からも見えている。

 僕の住むアパートは小高い場所にあるため、そこから周囲の景色が一望できる。そこから見下ろす景色が好きだった。そしてなにより、アパートから最寄り駅までが壮大な桜の並木路になっており、下見の際にその光景にやられたのだ。即決だった。

 いつだったか顔に似合わずロマンチストな面があると言われたことがあるが、顔に似合わずというのは何とも失礼ではないだろうか。

 そんなわけで碌に内見もせずに決めてしまった。冷静に考えれば、夏になれば毛虫がそこかしこで死んでいる地獄だったり、ユニットバスというのは元々の希望では無かったしと、丸一年過ごしてみて不満が無かったわけではない。ただそれでも、一度決めた事をうだうだ言うくらいなら、どうしたら現状でもそれなりにやれるかを考えた方がよっぽど建設ではないか、というのが僕の持論だ。もっとも二万八千円という破格の家賃の安さがあってこそだが。その安さだって、僕には開示されていないのでおそらく僕の前の前の住人に何かがあったのだろうと思われるが、未だに天井に無数の手跡がとか、枕元に長い髪の女性がと言った事は一切ないため特に気にしないようにしている。

 とにかく安いのはいいことだ。友人には桜が、などとは気恥かしくて言えず、こちらが理由と言う事にしている。

 

 そんな事情で電車に揺られる毎日。実際この窓を流れていく桜通りは絶景で、少なくとも次の季節までは、ここに決めて良かったという気持ちは途絶えないだろう。

 いつも通りの風景を見届け、今日もそんないつも通りの一日が始まっていくと思っていた。いつも通り大学前の駅に到着し背中側のドアが開く。改札に向かいホームを抜ける。今まで乗っていたすぐ脇の電車が少しずつ加速し、ホームを歩く僕を追い抜いていく。何気なく車内に目を向ける。

 楽しそうにはしゃぐ制服姿の学生。僕も去年の今頃はあんな顔をしていただろうか。生きる事は重荷を背負うということとでも言わんばかりの表情で揺られるサラリーマン達。僕もいずれああなるのだろうか。

 

 そして……。

 見えたのは横顔、そしてすっと通った鼻筋。左の眼元に控えめに佇む泣き黒子。細くしなやかな肩にかかったセミロングの黒い髪。正面から見たわけではないが、間違いなく美人だと予感させる、そんな横顔だった。春らしいピンクのカーディガンに身を包み、その佇まいからは気品すら感じられた。ふわりと良い匂いがした気がした。

 時間にしたらほんの数秒。だがその数秒間、完全に目を、いや心を奪われた。彼女の姿が見えなくなり、聴覚から軋むレールの音が消え、電車自体が見えなくなるまで、僕は瞬きすら忘れその方角を見つめていた。

 ふっと我に返った僕は、朝から良い物が見られたな、今日は良い事がありそうだ。その時はそんな程度に考えていた。

 いい気分で大学に到着するといつものように友人と挨拶を交わし、中央やや右側の席に着く。この頃になると講義の際に座る場所も各グループで固定化されてきている。


 教授のありがたい話をBGMに、ふと思う。さっき見たあの女性は社会人だろう

か、大学生だろうか。歳は僕と同じくらいか少し上くらいだったよな。じゃあ大学生かな。いや、女性は年齢よりも大人びて見えるからな。バイト先でも女の子の年齢は見た目じゃわかり辛いから特に気をつけろと指導されたしな。

 でもこの駅で降りなかったわけだから、少なくともうちの学生では無いよな。あの先に大学なんてあっただろうか。そういえばあの人は僕がいつも乗り込む車両の恐らく二両後ろに乗っていた。向こう側を向いて、つまり乗り込み口は桜木駅と同じ側の駅から乗り込んでいるのだろうか。明日もあの電車に乗るだろうか、今日と同じ時間に。

 明日もあの女性を見られるだろうか。

「香川、次の物理は受けるんだっけ」

 その声にふっと我に返る。いつの間にか講義は終わっていたようで、霧沢が不思議そうな顔で僕の目を覗き込んでいる。彼の横には広瀬と藤森が控えている。

霧沢は特に外見にこれといった特徴の無い男だ。天然パーマと言う事も無ければ、眉毛が凛々しい訳でもない。鼻が高すぎるわけでも無いし、八重歯がチャームポイントと言う事も無い。

 平均と言う事は、特に秀でたところも無いが大きく見劣りする部分も無く、全てが程良くまとまっているということ。それが結果として万人受けする薄い顔のイケメンということで落ち着いている。ついこの間も一緒に繁華街を歩いていると、カラオケ店前で屯していた女子高生の集団から「うわっ、イケメン」「えっ、どこどこ」「ほら、あそこの中の下位の男の隣の人」「下の上でしょ」「どこよ、えっ嘘嘘。めっちゃカッコイイ」「写メ撮っていいかな」「しっ聞こえちゃうよ。あっちの男こっち見てるし、おめえじゃねーよ」という歓声が沸き起こっていた。さすがにあの時は泣きそうになった。

 学籍番号が近かったことや音楽の趣味があったこともあり、大学生活で最初に仲良くなった友人だが、本当に彼のような人間がこのグループにというか、僕とつるんでいるのが不思議でならない。ちなみに桐沢ではなく霧沢というのは全国的にもそこそこ珍しい名字らしい。

 僕たちはそんな霧沢、広瀬、藤森そして僕の四人で行動することが多い。教室の一番後ろに陣取る中心人物グループと言うわけでも、前の方に座るオタク組でもなく、よく言えば普通の、悪く言えば無特徴のグループという訳だ。ただ藤森、霧沢は過去に彼女がおり、広瀬にいたっては現在進行形で文学部の子と高校時代から交際中らしく、女性と無縁のグループと言う訳ではない。僕を除いて、だが。

「うん、受けるよ。高校時代にやってたから単位も簡単そうだし」

 悔しさが込み上げる前に答えた。

「ああそうか、さぬっきーは物理組か」

 横の伊達眼鏡の茶髪男、藤森が言う。何故か彼だけは僕の事を頑なにさぬっきーと呼ぶ。大方僕の名字が香川だからだろう。このなりとノリから分かる通り、藤森はこの霧沢組の中で最もチャラい。それでいて女の子からそれなりに人気らしいのは、この距離感の詰め寄りの巧さ故か。

「じゃあさ、教えてくれよ。俺も取ったんだよ」

 パンと頭の上で手を合わせる。こんななりだが、彼は基本的に僕よりも成績が良かったりするため、こんなセリフを彼の口から聞くのは珍しい。

「まあぼちぼちね」

「つれないなあ、俺のここ一番の時のお願いの仕方なのに」

「ここ一番を今使うのかよ」

 藤森と霧沢のせいで脱線しそうなので話を戻す。

「カリキュラム見たけどそんなに難しい事はなさそうだよ。最初の力学とかは完全に高校のレベルだし」

「力学?」

 霧沢が不思議そうに呟く。ああ、彼も生物専攻だったか。

「うん、例えば時速六十キロの車で」

「ああ、それなら俺知ってる」

 遮るように藤森が入ってくる。口元が緩んでいるから善からぬことを考えているのだろう。

「時速六十キロで走っている車の窓から手を出すと、その風圧はおっぱいにそっくりってやつ」

 急にぶら下げられた魅力的な情報に、僕は勢いよく前のめりになる。思わず今日一番のトーンで、そうなのと聞いてしまった。

「いや、実際触ってみたらそんなことないと思うけどな」

 若干引き気味に答える藤森。そのまま、なあと左右の二人に同意を求める。顔を見合せた後、うん、まあと同意する二人。どうやら実際に触ってみたら、というのは本物の方を指しているようだ。そうかこいつら全員、本物のおっぱいの味を知っていやがる。そんな僕の気持ちを知ってか知らずか、

「そうだよな、由里ちゃんのおっぱいに比べたら。いいよな、Eはあるんじゃないか」

 言い出しっぺの藤森が横目で広瀬を見る。悪い顔だ。今にも舌舐めずりでもしそうな。たまらず広瀬はやめろよと大きな声を出した。だが強気な言葉とは裏腹にその顔はどこか誇らしげに見えた。俺が勝者だとでも言いたげに。僕の心が汚れているだけなのだろうか。

「まあまあ、落ちつきなよ二人とも」

 これ以上続けられては堪らないと、両の掌を二人の前で広げ、宥めるように上下させる。二人は何事もなかったかのように元の位置に戻る。どうやらここまでで一セットのやりとりのようだ。結局彼らの自慢を聞かされただけかと少しだけ悔しくなった。

「そういう香川はいないの、最近気になってる子とか」

ふいに広瀬から発せられた何気ないその一言。気になっている子……。瞬時に脳裏に浮かぶのは今朝の光景。まだ名前どころか顔も知らないあの人。

「おっ、何さぬっきー。明るい話でもあるのか。気になってるなら行動しないと始まらないぜ」

僕が一瞬の無言を作ったためだろう。こういうところは本当に察しがいい。

三人の視線が集まる。

 確かに僕はイケメンでもないし、ただ待っていれば目の前に美少女が現れて告白してくれるとも思っていない。藤森の言うとおりだと思う、行動しないと何も始まらないというのは。もちろん行動の結果、ドラマのような運命的な恋が待っているとも思ってはいない。


だが、いいじゃないか、夢を見るくらい。


あまりにも不安定な憧れが走り出す。

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