第4話 02:アリスブルー
* * *
心細さや不安、心配や焦りを紛らわそうと、私はここへ来るまでの出来事すべてをアリスに話して聞かせた。
彼女は私に合わせてくれているのか相槌を打って、ときには笑い声まで上げた。
そうしているとちゃんと同い年の女の子と喋っているんだって気になる。
ハイトが花畑で襲われたくだりが大層気に入ったらしく、苦しそうになるまでくつくつ笑っていた。
やっぱりハイトのこととなると反応が違う。
アリスのほうこそハイトにぞっこんらしい。ニヤニヤ。
と、こんな状況だというのにニヤつく自分にふとわれに返る。
私、何を楽しげにおしゃべりしているんだろう。
明日殺される人間相手に、こんなにのんきに。
私の手足には依然として枷がはめられているし、目の前には冷たい鉄格子が立ち塞がっている。
鳥篭牢の中にアリスは囚われたまま。
楽しそうにしていたって、私の死角にあるアリスの端整な顔は、実は無理やり作った笑顔に引きつっているかもしれない。
沈黙に支配された地下牢の冷たい空気が、再び私に不安や焦りを持ってくる。
気を紛らわせたいばかりに、私は話を振った。
「ねぇ、アリス」
「うん?」
「私の世界に、ね、お話があるの。
アリスって名前の女の子が夢を見ていて、夢の中不思議な世界で冒険するお話。
ちょうど、今の私みたいに……というと、大きく語弊があるかな」
今まで起こったことをざっと思い返して、ちょっとげんなりする。
「ヒナは、その話が好き?」
「どうだろう……、本をちゃんと読んだことはないんだけどね。
でもたぶん、この世界は『アリス』がモデルになってる。
だからアリス。ね、きっと大丈夫だよ。
ここは私の夢なんだもん、きっとなんとかなる。ううん、なんとか、する」
この世界が私の見ている夢かもしれないということは、アリスに白状してある。
彼女は疑うでもなく、納得するでもなく、「きみがそう思うなら、きっとそうなのだろう」とまるでカワイソウな人を相手にするように答えてくれたっきりだ。
「そう、ありがとう。でも、いいんだよ。ヒナ」
アリスは穏やかに言った。
その声は心からの本心を述べているようで、強がりも嘘も感じられない。
アリスの言葉は超越していた。
心配するあたしやハイトたち、アリスを捕らえる女王をも。
「どうしてあきらめちゃうの?
ハイトもチェシャも、心配してるよ。ハイトのこと好きなんでしょ?
もう彼と生きるのもあきらめちゃうの。それでいいの?」
所詮夢、とはいえやっぱり後味悪いのはイヤだ。
めでたしめでたしで終わって欲しい。
私の頭の中で罪もない女の子(しかもかわゆく恋愛中の)が無残に処刑されましたなんてそんなの気持ち悪すぎる。
なんとかして「ああ、よかったー」って言って目覚められるようにしたい。
だって確か明日は月曜日。
週初めが目覚めて早々めちゃめちゃ鬱、とかそういうのすごいいやだ。
「ヒナはいい子だ」
かすれた笑い声とともに、アリスは言った。
「ヒナ、わかるかな。私は安心してしまったんだよ。
こうして捕らえられ、断罪され、罰を受けるということに」
「どゆこと? マゾなの?」
「そうだったら安心じゃなくて大喜びするだろうね」
「う、うん。えっと、それで?」
まともに返されるとふざけた自分が冷静に恥ずかしくなる。
「私が見たのは予知夢なのだ」
「よちむ」
読んで字のとおりの、未来が見られちゃうあれのことか。
「それも一度や二度じゃない。
幼いころから、毎日と言っていいほど。目が覚めたときに覚えている夢はすべて」
「どんな夢を見るの?」
「私が死ぬ夢」
答えを演出するように風が吹き込んで、じゃらりじゃらりと鎖を鳴らした。
まるで大掛かりな楽器みたいに。
鳥篭がきしみ、金属音を響かせる。
「それは……気が滅入るな。でも、あれ?
じゃあ、毎日のように……明日の、つまり、処刑される夢を見ていたの?
何年も?」
「いや、ちがう。処刑の夢はここ一年の間」
「前は、死ぬ夢じゃなかったの?」
「いいや、いつも。いつも死ぬ夢だ。
はじめてのときは八歳だった。家が火事になる夢を見たんだ。
私のせいで火事になる。私はクッキーを焼いている。
焼きあがる時間を待つ間につい寝入ってしまい、気づけばあたりは火の海になっている……。
死ぬのは私一人だ。家族は出かけて留守にしているから。
この夢を一年ほど見た」
「でも、今、生きてるじゃん。予知夢じゃないんじゃないの?」
吐息の震える気配がした。笑われた、のだろうか。
「ある日、ちょうどクッキーを焼く機会がめぐってきた。
その頃近所のお姉さんがクッキー作りに凝っていて、頻繁に私にも食べさせてくれた。
かわいい形をした、作りたての……――」
――リーナお姉ちゃんがかわいらしいクッキーを、素敵な包みとバスケットに入れて、持ってきてくれた。
それはまだ温かくて、今まで食べたどんなお菓子よりも美味しくて、びっくりした。
「リーナお姉ちゃん。わたしも、クッキー作りたい!」
「いいわよ、アリス。今度、一緒につくりましょ」
「うん。約束ね!」
私はずっと、リーナが約束を果たしてくれるのを待っていた。
自分が素敵な包みにクッキーを入れて、バスケットで兎の里まで運ぶ姿をよく思い浮かべてはご機嫌になった。
ハイトたちに食べてもらって、褒めてもらうのだ。
けれど、私にとっての一大事だったとしても、十歳も年上の彼女にとってそれは重大なことではない。
きっと忘れてしまったのだろう、それきりクッキーの話があがることはなかった。
楽しみが過ぎたのか、私はクッキーを焼く夢を何度も見た。
しかしそれは決して楽しい夢では終わらない。
クッキーを焼く過程で、自分が死んでしまうのだ。
酷く鮮明だった。
目が覚めて、にわかに現実との区別がつかず、よく混乱した。
夢を見るのは悪いことだと幼い頃から言い聞かせられていたけれど、幼い私にはそれが『夢』であることが理解できていなかったのだ。
だから目を覚まして大泣きしている私を抱きながら、母は困惑気味に言った。
「アリスはもうおねえちゃんなのにねぇ。こんなに泣いて、おかしいねぇ」
そうして宥めるように撫でて、抱きしめる。
私は母にすがりついて、わけのわからない涙に戸惑う。
その頃の私はまだ、自分の不安を明確に説明することができなかった。
ただ、無力に、母にしがみ付くことしかできなかった。
ある日、両親が揃って出かけた。
何の用事だったか今ではもう思い出せない。
とにかく幼い私はその機会を喜んだ。
夢で何度も見た通り、クッキーを焼こう。
そう考えて、でも、気がついた。
もしかして、このまま夢と同じことをしたら、夢と同じようなことが起こって、私は死んでしまうのではないか?
そう思うと怖くて、一人で留守番をするのが心細くなった。
「ハイトのとこ、遊びに行こっ」
家に鍵をかけ、それを首からぶら下げて、遊び場だった鏡の森を奥へ進む。
「ハイト、あーそーぼっ!」
「あっ。アリス! 今日は遊べないんじゃないの?」
「ん……大丈夫になった」
「やった~! ね、あっちに変なきのこ見つけたんだ。行ってみよ!」
「うん!」
今でこそ頼りないけれど、当時のハイトは四歳年上のお兄ちゃんだ。
私はハイトのそばに居れば安心だと思って、心配事を忘れて遊んだ。
兎の里の子供たちと鬼ごっこをして、疲れたらおままごとをして、木の実をもいで食べた。
遊び疲れすっかり恐怖も悪夢も忘れた頃、私は兎の里を出た。
心はすでに、帰ってきたママが準備を始めただろう美味しい夕飯に向いていた。
足取りは軽く、家に帰ったら今日楽しかったことを話すのだと、うきうきしていた。
やがて異変に気付く。
なんだか辺りが騒がしい。
みんながどこかに集まって、今にもそこへ人が走り寄る。
空に黒い何かが染みていた。
嫌な臭いが漂っていた。
私も――幼いアリスも走って、人だかりへ向う。
胸がどきどきして苦しい。上手に呼吸ができなくて、頭がしびれてくる。
状況を把握できないまま、ただとても怖かった。
人だかりに居たリーナお姉ちゃんがこっちに気づいて、蒼白な顔をして叫ぶ。
「アリス!」
どうしてそんなに怖い顔をしているのか分からない。
人が群れになって私の帰り道を塞いでいる。
困ったな、と思いながら、小さな体を生かして足の間を潜り抜けて行く。
後ろから慌てて寄ってきたリーナお姉ちゃんが幼いアリスを抱きとめようとする。
リーナお姉ちゃんの血の気の引いた冷たい手が、私の目を覆う、その瞬間。
私はそれを見た。
「燃えていたよ、家が。帰っていた両親も共に」
「それは……」
ハイトが言っていたアリスの過去はこれに起因するのか。
アリスは淡々と続ける。
「その次の一年。寒い日、氷の張った湖でスケートをする夢を見た。
私は、氷の割れ目に落ちて溺れ死ぬ。
ある日、氷の張った湖を見つけた。
一瞬惹かれて、でも夢で見た光景だと気がついて、私は暖かくなるまでその泉を避けた。
そして春、そこで幼い少年が溺れ死んだと知った。
まあ、後も大体こんな具合だ。
私は死ぬ予知夢を見る。
夢が現実になりかけると私は死から逃げようとする。
それは成功して、代わりに誰かが死ぬ」
アリスは空を仰いだ。
うなじに垂れた短い髪がきらきら、きらきら、月光を反射する。
つまりアリスは不吉な予知夢の回避によって他人を犠牲にしてしまうから、こうして大人しく処刑を待っているのか。
「どうにもならないの?
前がそうでも、今度は大丈夫かも、しれないじゃん?」
「今まで、そう思って九人犠牲にした。親しい人も、知らない人も含めて。
……最後の犠牲はリーナ嬢だった。
流石にもう……穏やかなままでは生きられないよ」
「そんな……そんなのっ……」
八方ふさがりなのだろうか。
アリスは静かに言葉を募った。
まるで歌うような口調で、どこか誤魔化すように楽しげに。
「次は誰が犠牲になる? 私の代わりに死ぬのは誰?
名も知らぬ民か、ヒナ、あなた?
それともチェシャか、嗚呼……、あるいは――」
ハイトかも。
最後の名前を、アリスは言わなかった。言えなかったのだろう。
「そう思うと、私には生きるのが辛い」
言葉はほとんど囁きになる。
そうか、アリスは本当に、あの駄目兎のことが好きなのだ。
だけど、でも、なんとかならないんだろうか。
「で、でもさあ、次は城の奴等とかかもしんないじゃん?」
「直接面識がなくとも、たとえ憎く思っていても、自分の引き換えに誰かが死ぬのは嫌なものだよ」
「うぅ……」
色んな事が思い浮かぶ。そんなの偶然かもしれないじゃん、とか。
予知夢自体、もともと他人の死を婉曲的に予知しているのだけなのかも、とか。
でも、もう、何を言っても無理なのだろう。
彼女の意志を曲げることは、私には出来ない。
アリスの固い決意が、深い覚悟が、私の口からでまかせの言葉で揺らぐなんて思えない。
もしかしたらきっとアリスは予知夢の現れた頃、一年も前から、こうしようと決めていたのかもしれない。
私ははじめて見たアリスの姿を思い出す。
凛として美しかった姿勢、堂々とした表情。
何よりも綺麗な彼女の横顔。
今は見えないけれど、きっと目隠しの下で彼女の瞳は強く澄んでいるのだろう。
どこまでも淡く深い、アリスブルーの瞳は。
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