第4話「私は目覚めた。」
第4話 01:死刑執行前夜
「嫌な風じゃ」
紫煙の漂う方向を見据え、キャタピラは呟いた。
大樹の枝の上に腰掛け、枝葉の間から見つめる先には堅牢な城が建っている。
小さな手でキセルを支え、口元から細い煙を吐き出す。
彼女の表情はこの国の行く先を案ずるように曇っていた。
「この世界が少女の夢、一夜の幻でしかないと言うのなら」
可視の嘆息が夜に漂う。
冷たい空気が髪と遊ぶ。
月は依然として城を照らし、その光景は現実として確かにそこにある。
「――暁よ。急ぐのじゃ。早く夜が明ければいい」
最後の呟きは不安げな子供の声になった。
キャタピラは小さな身体を丸める。
「キャタピラ嬢。珍しいですね、そんなところで」
「……チェシャか。やはり戻ってきたか」
影の中に黒衣を認め、キャタピラの声が外見不相応の老獪さを取り戻す。
チェシャの衣類は戦闘のためところどころがほつれ、穴が空き、土や血で汚れていた。
頬に切り傷、目の上に腫れが出来、尻尾の毛はけばけばに逆立っている。
満身創痍の様相でありながら、足取りは確かだ。
「ええ。二人は今ごろ城内へ……無事でいれば良いのですが」
「珍しいのはそなたのほうじゃ、主以外を気遣うなど。成長したな、チェシャ」
「何を言うんですか、いつまでも幼虫の貴女が」
軽口のなかに照れを隠してチェシャが枝を上ってくる。
軽やかな身のこなしでキャタピラの隣へ来ると、彼女に倣って腰をおろした。
「キャタピラ嬢」
「なんじゃ」
「アリスは、救われるでしょうか」
沈黙が下りる。
チェシャは平静として振る舞いながら、しかし尻尾が落ち着きなく揺れていた。
「一体何が、アリスを苦しめていたのでしょうか……」
飼い猫として、チェシャはチェシャなりにアリスを案じている。
チェシャはハイトよりも多く、アリスの内心に存在する暗がりを見てきた。
それ故に、ハイトのようなまっすぐな行動が出来ずに居る。
それはもどかしい。
だけれど、すこし誇らしい。
アリスを理解した上で、行動を弁えることができるのだから。
「チェシャ」
キャタピラが静かに囁いた。
「主人に道を示すペットが居ても、悪くはないと、わしは思うのじゃ」
ぴた、と尻尾の動きが止まる。
「おりこうに命令だけ従う? それも良いだろう。でもな、チェシャ。
ときに飼い主の意に添わぬからといって、そなたらの関係は崩れてしまうものなのか?
意地になり自分を偽り、後悔しても遅いのじゃ。
チェシャ、アリスの愛した黒猫よ。
主の思いに従うのもよかろう。
しかしな、主への思いに従うのも、また良いと、わしは考えるのじゃ……」
元気なくしょげていた黒猫の耳は、いまやキャタピラの言葉を全て吸い込もうとするかのようにピンと立っている。
ハイトのような、常識的でまっすぐな行動を、いつしか躊躇っていた自分にチェシャは気付く。
恐れがあった。
アリスに嫌われて、ペットと主人の関係を失ってしまったら。
――だとしても、もう構わない。
アリスに嫌われてしまうより、アリスとの関係を失うより、もっと恐ろしいことがあるのだ。
「俺は……アリスが死ぬのは、嫌です」
「ふむ」
「アリスが居なくなった世界で生きてくのは、嫌だ」
震えを抑えきれないチェシャの言葉に、キャタピラは嬉しそうに唇を歪めた。
キセルをくわえた八重歯が覗く。
「行くがよい、黒猫。その爪は誰が為、その牙は誰が為?」
「嬢、礼を言わせてください。――俺の全ては、とっくに彼女に捧げていました」
キャタピラが笑みを深めた時には、すでに黒猫の姿は消えていた。
キャタピラは城に向直る。
笑みを消して見つめた。
罪人を孕んだ城を、明日の狂乱が胎動する場所を。
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