少女と罪の獣

詠野万知子

第1話 罪人と、罪の獣

00.


 鐘の音が死刑の執行を報せる。

 獣は雄たけびを上げた。

 自らの声で鐘の響きを打ち消そうとするように。

 そうすることで、事実を否定出来ると信じているように。

 鐘の音の響く間、ずっと。

 彼は叫んでいた。

 それは、獰猛な獣の激しい吼え声だった。 

 それは、悲しい男のか細いすすり泣きだった。


第1話:罪人と、罪の獣


01.


 昔犯した罪のために、地下牢獄に閉じ込められた男が居る。

 何年も、何十年も、あるいはもっと長い年月。

 一体いつから男が囚われているのか国の王も正確には言えなかった。

 ただ、すでにそうあるものとして、彼らは彼を罰していた。



 テュットがその牢に入れられた理由は二つある。

 一つは他の牢の管理が間に合っていなかったこと。

 それからもう一つ。

 テュットには生きて出獄する必要がなかった。

 まだ成長途上の、栄養不足の細い体に、一枚だけの肌着姿で彼女はその牢へ案内された。

 裸足のつま先がごつごつして湿った冷たい岩を踏む。

 地下牢では初夏の嬉しい好天気の気配が少しも感じられない。

 ここは岩壁で自然に出来た真っ暗な横穴。

 丁度小部屋のように岩壁が抉れているところへ後から鉄格子を嵌めて利用していた。

 粗末な、しかし頑強な牢。

 洞窟の中には湖が沸いて、牢の縁まで水が迫っていた。

 どこを見ても外の世界と少しも似た景色を持っていない。

 だからテュットは(本当にここは私が居た世界と同じなのかしら)と不安に思う。

 明かりは案内の者が手にした松明と、牢の奥でぼんやりと揺らめく蝋燭の炎だけだった。

「出獄は一月後。食事は日に一度召使が運ぶ」

 テュットの手足の枷を外して、案内の男がそれだけ言った。

 松明の光と共に立ち去っていく。

 遠ざかる光と人の気配をいつまでも追いかけて、やがて、一人残されたことを知った。

 そうだ、ここは牢の中。

 しばらくの間、テュットは格子の前で立ち尽くしていた。



 遠い過去、罪を犯した男に下された罰は三つあった。

 一つは洞窟牢に死ぬまで閉じ込められること。

 もう一つは、罪の記憶以外の思い出を捨てること。

 そして最後に、人の姿を奪われること。

 今や彼は人間と呼ぶにはあまりに異様な姿をしていた。

 人をはるかに凌ぐ巨体に厚い毛皮を纏う。

 ペンを持つことも出来ない固い爪の並んだ手。

 鹿のような後ろ足は地面を固いひづめで踏んで、二足で立って歩くことの難しい骨格へ変わった。

 顔には人に似つかない大きな逆三角の鼻がある。

 裂けた口、薄い唇と大きな犬歯。

 顎から胸へかけては更に毛が伸びている。

 いつの間にか尻尾まで生えていた。狼を思わせる、毛に覆われた長い尻尾。

 この変化がいつ起こったのか、どれ程の時間をかけて生じたのか、男にはその記憶がなかった。

 元々の姿さえ思い出すことはできない。

 人の言葉を話せなくなり、そうする必要もなかったために思考を忘れた。

 男は獣となった。

 遠い過去に犯した罪の、鮮明さを欠いた記憶だけを抱いて。

 本能のまま空腹を満たし、狭い格子の内側でただ眠るだけの毎日を生きている。

 遠い過去から、今までずっと、誰にも会わずに生きている。

 


 喉の渇きを覚えて獣は湖の縁へ歩いていった。

 昔、格子は湖の外にあった。

 年を経るにつれ水かさが増したため、今は湖の縁が牢獄の内側にある。

 それは、いつからか男にとっての丁度良い水飲み場になっていた。

 大きな体の上半身を屈め、前足で体重を支えて肩を低くする。

 赤い厚い舌を伸ばしてぴちゃぴちゃと水を舐めた。

 不意に、覚えのない匂いを嗅いで男は顔を上げる。

 匂いの元のほうに何かがあった。

 小さな生き物の影だ。

 小さな影は後ずさり、背中の格子にぶつかって、その衝撃にびくっと震える。

 思考を忘れた男は何の感慨も抱かず、踵を返して寝床へ戻った。

 狩って食べるほど空腹ではなかったのだ。



 今、何が居ただろう。

 テュットは大きく呼吸することで恐怖と動揺を鎮めた。

 ふいに、小さな頃に叱られた時、母親が言った言葉を思い出した。


「悪い子は土の下から悪い獣がやってきて食べてしまうよ」

「聞き分けない子は罪の獣に食べてもらうよ」

「罪の獣がやって来ないうちに早く寝なさいな」


 母はテュットに忠告した。


「洞窟を見つけても、決して入ってはいけないよ。

 そこには人を食べる罪の獣が棲んでいるのだから」


 大人の使う他愛ないしつけ文句だとずっと思っていた。

 幼い頃に感じたようにテュットは怯えた。

 悪の獣が本当にいる。

 人を食う罪の獣がここにいる。

 これが私への罰なのだ。テュットはそう考えた。

 震える足が仕事を放棄して、テュットは冷たい岩の上に座りこむ。

 地下洞窟の冷気が急に身に染みて、肩を抱いて温めた。


「お父さん――」


 家族の姿を思い浮かべて、体の震えを止めようとする。


「マーニ。メリ、ピエニ。タルヴィ。……小さなユニ」


 まだ伸び盛りの仲良しの弟妹たち。

 一番下の妹は四歳になったばかり。


「お母さん」


 可愛いユニの訪れと共に去ってしまった温かな母親を思い浮かべた。

 考えてみれば、テュットもユニを嗜める時、同じように言って聞かせた。

 そんな悪いことをする子は罪の獣に食べられるのよ。

 あなたみたいな分からず屋は悪い獣に食べてもらいましょう。

 そうやって脅かして泣いてしまったユニのことを思い出して、テュットは悲しくなった。

 もっと優しくしてやるのだったと今になって悔やむ。

 もうこの手で抱きしめてやることもできない。

 ユニは暖かかった。

 母に似た金の綺麗な髪はふわふわして柔らかかった。

 宝物みたいな女の子。

 次々に弟妹たちの姿が克明に頭に浮かんでは、触れることもできずに消えていく。

 テュットは一人ぼっちだった。

 つい先日まで暮らしていた家が天国みたいに思えた。

 父親の涙に崩れた顔が最後に思い浮かぶ。

 胸の痛みがいっそう強くなってテュットは息を吐いた。

 一ヶ月、ここで暮らす。

 きっと最後にもう一度だけ家族に会うことができるはずだ。

 希望の旗を痛みの上に打ち立てて、テュットは顔を上げる。

 視界の向こうに小さな炎が揺れていた。

 そこに居るものを思い出してテュットはまた震える。

 あの明かりは少女の希望を脅かす炎だった。



 牢獄にしては広い地下の洞窟牢の、出入り口となる格子戸の前。

 そこから数歩も離れることができないまま一度目の食事を迎えた。

 テュットを案内した者とは別の召使の女性たちは、肌の露出を最低限に抑えていた。

 顔をベールに隠している。体つきで女性と判断するほか、彼女たちについて何かを知ることはできない。召使は三人いた。

 一人が静かに食事のトレーを置いた。

 水と、具のわからないスープと、見るからに固そうな乾いたパン。

 それがテュットの食事だった。

 残り二人の召使は大きな皮袋を運んでいた。

 地面の上で口を開け、それをひっくり返す。

 ネズミやイヌや、仔ヤギなどの家畜の死んだものが、ものによってはバラバラになって袋から転がり出た。

 テュットは悲鳴を上げそうになる。


「あの。教えてください。この牢に何が居るの?」


 震える声でテュットは問う。

 顔のわからぬ女達は言葉なく首を横に振った。

 牢を施錠する鉄の冷たい音が響く。

 今になって死骸の生臭い匂いを嗅いでテュットは食欲を失くした。

 そもそもスープは冷めていて、水も濁っている。

 パンは古く傷んでいることが一目で判るほどだ。

 食事の前に座りこんで、だけど死骸の小山から少しでも遠ざかろうと立ち上がる。

 気付けばそこに獣がいた。

 悲鳴すら出ないほど驚いて全身が強張る。

 気配が少しも感じられなかった。

 獣は死骸の小山に向かい、少女のことは知らん振りでいる。

 大きな体だった。

 テュットはこんな大きさの獣を、牛よりも大きな生き物を知らなかった。

 こうして初めて見る巨体の生き物に圧倒され、畏敬の念すら抱く。

 その大きな口では細い少女の体など食べるのに三口もいらないだろう。

 獣は腐肉の山へ顔を突っ込む。

 骨を噛み砕く音が洞窟に幾重にも反響して、テュットは気が遠くなった。

 意識せずに後ずさりした裸足のかかとが知らぬ間に湖の中に入って、水の冷たさに声を上げる。


「ひゃっ」


 咄嗟に両手で口を塞いだ。

 獣がぴたりと動きを止める。

 心臓がどくどくと焦って鼓動を打ち鳴らす。

 テュットはその音を止める術を知りたかった。

 獣がこちらを振り返るまで、たった数秒。これほど時間を長く感じたことはない。


 獣がテュットを見た。


 縦長の黒い瞳孔に少女の姿が映っていた。

 獣は喉の奥から唸り声を上げている。

 空気が回転するような音が乱杭になった犬歯の間から聞こえている。

 不意に喉が上下して口の中のものを飲み込んだ。

 獣は何も見なかったかのように平然と顔を背けて食事を再開する。


 テュットは身動きも取れずに、獣をじっと見ていた。

 それがかつては人の姿をしていたとも思わずに、異形の獣を見つめていた。


 どの動物にも似ていて、どの動物にも似ていない。

 冷たく生臭い血に似た匂いがした。

 家畜舎で嗅ぐのとは違う、もっとずっと嫌な匂い。

 生き物が発しているとは思えない不快なもの。

 吐き気のするような匂いを嗅ぎながら、鼻をつまむことはできなかった。

 口を押さえたまま、息を潜めて、存在を隠すように身を固くする。

 獣の後姿は少し狼に似ていた。鈍重さより鋭敏さを感じる姿は肉食獣のそれだった。

 箒のような尻尾が地面を撫でるように揺れている。

 骨を噛み折り咀嚼する音はまだ続く。

 獣がさらに姿勢を低くした。

 顔を地面に近づけて、残った細かい餌を長い赤紫の舌が舐め取る。

 ぴちゃぴちゃと湿った音がして、やがて止まった。

 獣は体を起こし後ろ足だけで立ち上がる。

 ふと顔を地面へ向けて、まだ食べ物が残っているのに気付いたようだった。また体を伏せて食事に近づく。

 テュットには固くて到底食べられないパンを、舌先でぺろりと持ち上げて一飲みした。

 鼻先でスープの椀をひっくり返し、地面に広がった中身を舐めた。

 伸ばした舌先で鼻の頭を撫でて、喉の奥から息を吐く。

 そして更に横を見た。


 今度は、テュットは声を上げずに済んだ。

 既に自分の両手が口を塞いでいたからだ。


 獣は四足で歩いてテュットへ近づく。

 少女が何歩も歩いた道を、たったの三歩で湖まで辿り着く。

 足先が水面に大きく波紋を作った。

 すぐそばで獣は少女の匂いを嗅いだ。

 少女の手に余るほどの鼻が、ひくひくと動いてテュットを探っている。

 少し湿った鼻がテュットの髪に触れた。

 間近に吐き出された息は死んだ動物の匂いがした。

 テュットは呼吸を我慢した。

 目の端に涙が浮かぶ。恐怖と、息苦しさと、生理的な拒絶の表れだった。

 耳の奥で、死骸の骨の折れる音がまだ鳴っている。

 目の前にある大きく鋭い犬歯が体を貫く想像にテュットは怯えた。

 瞬きもできないくらい体は緊張に固まっている。

 とうとう獣の口が大きく開いた。まるで洞窟のような口内が覗く。

 でも洞窟はこんなに赤い色はしていない。

 喉の奥は無限であるかのように暗い。


 テュットはぎゅっと目を閉じた。


 呼吸を我慢していることができなくなって、とうとう息を吸い込んだ。

 同時に、獣の口から生暖かな息が漏れ、まともにそれを吸ってしまう。

 全身に鳥肌が立って、目に刺すような痛みを感じた。

 テュットはぎゅっと閉じた目を、恐る恐る開ける。

 目の前でくあぁ、と獣が喉を鳴らした。

 獣は少女に背を向けて、のろのろと洞窟の奥へ歩いていく。


「……」


 どうやら獣は満腹になったみたいだ。

 テュットの食事はなくなったけれど、命はまだここにある。

 それに、生臭い獣の匂いのせいでもう食欲なんて沸かなかった。

 途端に気が抜け、おぼつかない足取りで湖を出て、途端にその場に座り込んだ。



 ここでは時間の流れが分からない。

 テュットは眠ろうと思う。

 だけどこの固い岩の上に、毛布の一枚も与えられず眠ることは難しかった。

 岩壁に背中をあずけて、膝を抱えて座っていた。

 ずっと同じ格好でいるとお尻が痛くなって、その上冷えてしまう。

 だから時折立ち上がり、また座って、その繰り返しで夜を過ごした。

 考えるのは家族のことばかり。

 お父さん、もう深酒していないかしら。

 小さなユニはちゃんと寝付けたかしら。

 弟妹たちは喧嘩せずに仲良くいるかしら――。

 緊張の連続で身も心も疲れていた。

 家族のことを考えているうちに、テュットは眠りに落ちた。


 

 蝋燭の小さな光だけで照らされた岩の部屋の、最奥のくぼみが彼のベッドだ。

 体を横たえ、喉の奥をかすかに震わせながら呼吸を繰り返す。

 ふと目が覚めた。

 鼻をひくつかせて、冷たい空気を嗅ぐ。

 感じるのはあの新しい匂い。

 何も変わらぬまま長い歳月を過ごしたこの巣にもたらされた、異変。

 獣は大きな体をゆっくりと起こして、匂いのもとを探した。

 蝋燭の明かりが届くか届かないかというところにそれはあった。

 いかにも食べ足りなそうな細い胴にほとんど骨みたいな手足がくっついている。

 体を小さく縮めて眠る、その姿は見るにつけても固そうだった。

 獲物にしては物足りない。

 獣は鼻を近づける。

 この新しい小さいものが何なのか、嗅ぎ取ろうとした。

 食事なのか。敵なのか。危険なものか否か。

 鼻先は温かさを感じ取った。

 長い間触れたことのない、生き物の温かさだった。

 新鮮な餌か。

 しかし不思議と食欲が起きない。

 それよりも眠気が勝って、獣はそこに身を横たえた。

 獣にとってこの牢の中全てが寝床だから、別段変わった行動ではない。

 新しい小さいものは、固いくせに温かい。

 それが心地よくて、獣は深く眠った。

 長い間、触れることのなかった他人の体温に寄り添う。

 獣は、久しぶりに、しかしそうとは気付かずに、とても安らかな気持ちで眠った。

 

 

 目を覚ましてテュットは反射的に悲鳴を上げていた。


「いや! いや! お父さん!」


 叫びが洞窟のなかで何重にも響く。

 反響した自分の声を聞いてやっとテュットは冷静になる。

 獣が隣で眠っていた。

 毛むくじゃらの、大きな、生臭く湿った罪の獣。

 テュットの悲鳴に目を覚まし、咄嗟に身を起こして危険を探っている。

 少女が原因とは思わなかったのか、もっと遠くのほうを見て、一瞬体を緊張させた。

 それもすぐに解いて立ち上がる。

 獣は四足で歩いた。

 猫のような顔をしていた。

 ただそれは、狐のようにも熊のようにも似ていて、そのすべてと異なっている。

 猛禽の瞳で見ていた。

 狼の口で呼吸をした。

 二度目になる、間近で見る獣の姿に、匂いに、少女は顔をしかめた。

 獣はテュットに頓着せず、あっさりと背を向け奥へと歩いて行ってしまう。

 息をするのも忘れていたテュットがようやくほっとして、気付く。

 眠る前に感じていた凍えが体に残っていない。

 温かさに包まれて眠っていたような気がした。

 獣の体だ。それが温かかった。


 ――あれもまた生き物なのだ。

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