第26話 最後の引き金

「あれ……?」


 視界に映る一面の床に、頭はついてこれなかった。

 ともあれ自分は倒れているらしい。四肢に力を込めながら、記憶にある最新の出来事を回想する。


 ――理解は遅い。

 しかし、後悔は直ぐにやってきた。


「くそっ、助けに――」


「行くのかい?」


 本来なら無視したいところだが、いなかった筈の声に動きが鈍る。

 イピネゲイアだった。ひと騒ぎ起こした後に捕まったのか、身体の所々に治療の痕がある。疲れきった顔付きは彼女らしくなくて、反対に状況の深刻さを代弁していた。


 改めて思う。彼女の言葉で心が揺さ振られるわけでもないのに、どうして立ち止まったりしたのか。

 こうしている間にも、アルクノメは命の危機にさらされているのに。


「捕まった……んですよね?」


「ああ、アンタと一緒でね。ヘレネスとの混血だから、まとめて駆除しようって腹らしい」


「なるほど、合理的です。だから僕を呼び止めたんですか?」


「ああ。――アルクノメを助けたところで、アイツは二耀族すべてから恨みを買うだろうよ。それでもいいのかい?」


「まったく問題ないです」


 他人の怒りだなんて、ふざけてろ。自分たちには関係ない。

 むしろ面白くなってくるじゃないか。帝国以外の国は、二耀族の割合が多い。下手をすれば、世界が敵ということになる。


 相手にとって不足はない。

 でも。


 アルクノメは、それを許容してくれるんだろうか?

 それだけがナギトの不安だった。らしくないのは分かっていても、嫌な予感ばかり浮んでくる。……きっとさっき、彼女の理想を真っ向から否定した所為だ。


 故に、問いを放ったイピネゲイアから目を逸らせない。この応答が、自分に課せられた試練だとして。


「アンタは、あの子をどうしたいのさ」


「手に入れます」


「はあ?」


「欲しいんで、手に入れます。後のことはまあ、逃げながら考えますよ」


「……まさかアンタ、意外と女性軽視してたりすんのかい? まともな頭をしてるやつじゃないとは気付いていたけど」


「えっ、僕まともじゃないんですか?」


「鏡見てから言いなよ!」


 探してみるが、窓ぐらいしかない。自分の姿を見るにはちょっと不便そうだ。

 にしても女性軽視とは、何て失礼な人だろう。間違っても口にしちゃいけない言葉だ。


「守るだけだっていうのに、それがどうして軽視に繋がるんですか?」


「いやアンタ、いまアルクノメのこと物扱いしたろ」


「自分以外の他人なんて所詮はモノでしょう?」


「……」


 反論のはの字もなく絶句している。ナギトにはやっぱり、その理由がチンプンカンプン。他人を目的に対する手段として見るなんて、当り前の話だろうに。


 でも、特別だ。

 アルクノメと過ごした時間は、金輪際消えることがない。誰かと替えがきく存在じゃない。


 故に、彼女は過去という器物。ナギトにおける、一番の隣人。

 それが道具だと言われるのなら、認めよう。


 だが善悪の話は別だ。

 他人を道具にするのが悪いことだなんて、それは余所から持ち込まれた理論でしかない。この色は黒だ、と言われて、素直に信じるぐらいつまらない話。――もしかしたらその色は、白かも知れないのに。


「理想を果たすために、人間は人っていう道具を使うんです。だから良いも悪いもない。あるのは情熱の程度ぐらいなもんでしょう」


「……解せないね。惚れた女を、利用するっていうのかい?」


「ええ。それを悪だと言うイピネゲイアさんの方こそ、僕には解せませんけど」


 邪険な、火花でも散らしそうな空気が露わになる。

 凄みを増した視線が突き刺さっても、ナギトは微動だにしなかった。むしろ見下してさえいる。この人は当り前の、何の変哲もないことしか言わないと。


 アルクノメだったら、もう少し気の効いた返事が聞けたろうに。


「アンタら、一回離れ離れになったらどうなのさ。そうすりゃお互いの大切さも分かるだろうに」


「もう十分分かってますよ。僕の理想には、彼女が必要不可欠なんですから」


「へえ、どんな理想だい?」


 決まってる。


「彼女と田舎にでも引き籠って、子供や孫に囲まれて老衰で死ぬことです」


「……平凡すぎやしないか? 普通、世界をどうこう、って考えたりしないかい? 男なんだし、夢はでっかく持つもんだろう?」


「僕、世間に興味がないんですよ」


 だから、アルクノメの夢を否定した。

 大勢に尽くすなんて馬鹿らしい。人間であろうとするなら、自分の意思で周囲を振り回すことぐらいは当然じゃないか。それが、力のある生き物ってことなんだから。


「なんで、僕が戦う理由は一つです。世界のしがらみとか、縋ってくる連中すべてを断つ」


「彼女が望むのかい? それを」


「さあ、どうでしょうね。本人に聞いてください」


 拒絶されるのなら、それはそれだ。最終的な話、ナギトとアルクノメが相容れないことの証明でもあるのだから。


「イピネゲイアさんも来ます?」


「……いや、アタシはここに残るよ。弟も近くの部屋にいるだろうしね。アンタがひと暴れして脱出する目安が出来たら、動き始めるさ」


「意外ですね、てっきり見捨てるのかと思ったんですが」


「はは、バカみたいだろ?」


 後悔が乗った口調。オレステスを排除できない自分へ、彼女は嘲笑を向けている。


「後ろめたさ、でいいのかね。まあ肉親を切り捨てることに、罪悪感を持ってる自分がいてさ。……下らないよねえ、ホント。一緒に過ごしただけで、庇おうとするなんてさ」


「でもある種、当然の反応でもあるんじゃないですか?」


 ああ、とイピネゲイアは首肯する。後悔の色は強くなる一方だった。

 彼女の考えは当然であり、凡庸な反応とも言える。渦巻いているであろう忸怩たる思いは、他人に距離を置くナギトでも予想可能な代物だ。


 家族という指標ではなく、善と悪。

 独立した基準の元、イピネゲイアは弟を処すつもりだった。


「……ほら、さっさと行きなよ。独善独悪のバルバロイさん」


「こ、このタイミングで差別用語はどうなんでしょうか?」


「知るかっての。ほら、あんまり時間も残ってないよ?」


 確かに、その通り。

 イピネゲイアに礼をしてから、ナギトは部屋の扉をぶち開ける。両脇にいそうな兵士の姿はなかった。それどころか人の気配すらなく、ナギトの破壊行動が煩いぐらいに聞こえてくる。


 舐められているのか、誘導されているのか。クリティアスのことだからどっちもありそうだ、と予測して廊下を走る。


 直後。

 世界が区切られる感触を、ナギトは自覚した。


「やはり行くのか、兄様」


「リオ……」


 小さな手には、純潔狩猟ボウ・アルテミスが。

 意味するところは、一つしかない。


「彼女に何を背負わせるつもりだ? 地下空間のことは兄様も知ってるだろう? ……あんな苦しい場所を残すことに、兄様は協力するというのか」


「うん」


「同胞たちが、結晶生物の元として利用されてもいいと?」


「うん」


 答えは変わらない。

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