第8話 紅い獣牙
「意外と早いものだな」
「ナギトから離れて。目的は私なんでしょう? テストミアから手を引けば、素直についていくわ」
「ふむ……」
よっぽどアルクノメが重要らしく、ナギトの眼前に迫った刃は戻っていく。
結界が解除されたのも直後だった。戻ってきた風景は、何一つ変わっていない。ただ、決まってしまった勝敗があるだけだ。
果たされた約束に対し、アルクノメは静かな足取りでクリティアスの元へ。彼は校門の前に移動しており、撤退する流れにあることを示している。
「では私の責任で、この町から兵を引かせよう」
途端。巨大な影が、学校の敷地を再び揺らす。
ドラゴンだ。
「――とでも、言うと思ったかね?」
「っ……!」
平然と告げられた裏切り。立ち上がろうとするナギトだが、結果は直前と変わらない。
「どういうことだ!?」
アルクノメは勿論、皇子の代理であるリオまでもが、クリティアスを批難する。
「本気でこの町を侵略するつもりか!? 皇帝陛下が黙ってはいないぞ!」
「――残念だが、この作戦は貴族たちの同意を得ている。彼一人が反対したところで、覆すことは出来ないな」
「クリティアス、貴様……!」
「冷静になりたまえ。私に構っていると、君の兄が死んでしまうぞ?」
満身創痍。今のナギトには、裏切った男へしがみ付くことも出来やしない。
一歩ずつ近づいてくる巨体を、憎悪と共に見上げるだけだ。
「兄様……!」
割り込もうとリオが走る。
だが、間に数頭のドラゴンが降ってきた。彼女は直ぐに
ドラゴンたちは、もはや彼女に構うこともしなかった。
巨大な手で、死にかけの獲物を掴む。
「っ、く」
刃物のような牙の向こう。紅い、底なしの口が見える。
終わった。
「退きなっ! 馬鹿どもおおおぉぉぉ!!」
間に入ってきたのは、男以上に雄々しい女の一喝。
正体の視認すら許さず、彼女はドラゴンの腕を一閃した。重力に引かれて落下するナギト。叩きつけられれば十分痛い高さだが、寸前で妹が救出する。
乱入者の猛攻は止まらない。
真紅の外套を
「ほほう、まさか貴女が来るとは」
手駒が倒されているというのに、クリティアスは少しも焦らない。彼女の動きに魅せられているわけでもなさそうだった。
駒は、駒に過ぎないのだと。
ナギトとの戦闘でさえ、本気じゃなかったと彼の顔には書いてある。表情としては一つの笑みであり、子供のように無垢な精神を現していた。
「第一皇女・イピネゲイア。……オレステス皇子の姉であれば、弟を救うのが道理ではないかね?」
「はっ、アタシは馬鹿な弟の尻拭いをする気なんて、コレっぽっちもありゃしないよ。むしろ叱りに来てやったんだ」
まったく、と呟きながら、皇女は倒したドラゴンの上に乗る。
女性であることを忘れさせるほど、鋭い眼光の持ち主だった。短く切った髪も、彼女をたくましい生き物に見せている。
服は帝国の色である赤一色。
余計な装飾は一つもなく、本人の雰囲気もあって質素な鎧に思えてくる。
「おら、まだ駒があるんなら出しなよ。アンタだってのんびりしちゃいられないんだろう?」
「……確かに、面倒な連中を待たせているのは確かだ。この世で一番騒がしい連中をね」
「なら早く帰んな。アタシだって、そいつらが騒ぐのは見たくない」
「だろうな」
口端を釣り上げ、クリティアスはこれ以上なく皮肉を込めて笑った。
一匹のドラゴンが彼の近くに降り立つと、アルクノメを連れてそのまま乗り込む。周囲から聞こえていた帝国兵の声も、同じように離れはじめていた。
「アルクノメ……!」
巨大な翼が生み出す風を、ナギトたちは黙って見届けるしかない。
飛び立ったドラゴンは見る見るうちに小さくなった。侵略という喧騒も引き連れて、帝国領へと戻っていく。
残された三人はただ無言だ。遅れて現れたメルキュリクにも、視線を向けようとはしない。
「――弟が迷惑をかけたね。肉親として謝っておくよ」
「い、いえ、そんな……」
「ま、とりあえず傷を治しな。
一息空けて、イピネゲイアは校門を見る。
そこにいるのは武装した兵隊だった。右胸には議会所属を示す紋章が。……表情にどことなく安堵があるのは、入れ違いで敵が撤退したからだろう。
しかし彼らの目には、ナギトを
奥からは市長も姿を現し、眉根を曇らせながら一行を見つめていた。
「ボウズを連れて行こうってのかい? 市長さん」
一応の外野であるイピネゲイアは、彼らの前に立ち塞がりながら言う。
市長の首振りはもちろん縦。後ろに控えている形の兵士たちは、敵の動きに備えて身を屈めている。
どうするつもりなのか――第一皇女の前後から、数人分の視線が注がれた。
彼女はまず、握っていた剣を鞘にしまう。
「ボウズの代わりにアタシが行くよ。いくらか手土産もあるし、構わないだろう?」
「い、いや、だがねえ……」
「そもそも市長さん、こんなボロ雑巾みたいなやつを大衆の前に引きずり出すのかい? 市長ならもっと、でかい器の持ち主だと思ってたんだが」
「……はいはい、分かった分かった」
「よし」
市長の態度には誠意の欠片もないが、イピネゲイアは満足らしかった。身の危険をまったく省みず、大股で彼の元へ急いでいく。
助けられてしまった。
情けない思いの中、ナギトは安心して意識を手放す。
―――――――
目覚めた時に出迎えてくれたのは、真っ白な天井。
薬剤の匂いを嗅ぎとって、ここが病院だと当たりをつける。まあアレだけの怪我をしたのだから、推測するまでもない必然的な結果だが。
「……はあ」
試しに片腕を動かして、包帯だらけの指先に嘆息する。
あそこでまさか、クリティアスと戦うことになるだなんて。昨日のやり取りはいったい何だったのか。アルクノメが生存することを、彼は利用していたんじゃなかったのか――
帝国へ連れていかれたとなれば、彼女は死を逃れることが出来ないだろう。例え現皇帝が拒否しても、貴族や市民たちはアルクノメを許容しない。
そうなれば処刑まで一直線だ、今の皇帝にはそこまで絶対的な権力がない。革命が起こる前であればともかく、現皇帝はあくまでも市民の代表。後ろ盾が消えれば、すぐ貴族たちに足を
まったく。
そんな連中の言葉、聞かなければいいのに。
オレステスやイピネゲイアの親がどういう人物が、ナギトはそれなりに知っている。
端的に言ってしまえば甘い人だ。民の生活を第一に考える、と評価すれば聞こえはいいが、裏にあるのは市民への恐怖心だろう。
もともとあの人は、革命に反対だった。
アルクノメの父と兄弟同然に育ったのもある。娘のイピネゲイアと共に、革命派の貴族を説得に回ったそうだ。
しかし、見ての通り失敗している。
それどころか看板に祭り上げられ、皇帝の座に据えられた。
私では器が足りない――未練も後悔もなく、彼が笑っていたのをナギトは覚えている。
今の皇帝は、ただの追い詰められた草食獣にすぎない。
革命など、本来は起こるべきじゃなかった。世間が暴君と呼ぼうが、先代皇帝は間違いなく名君だった。でなければ、どうして貴族たちに敵視されることがあろうか。
腐っているのは皇家じゃない。……まあオレステスは例外だが。
貴族、市民、それら大多数の人々。
彼らから、高貴に生きるという夢が消えた。
残っているのは、ただ存在することに対する未練。少しでも生き残ることに執着する、醜いまでの生存本能。
恐らく手段は問わない。テストミアに兵を連れ込んだのは、その余波と言える。ひたすら支配領域を広げ、考えなしに自分たちの世界を広げる。
「……なんだ、良かったんじゃないか」
口にするのは自分への肯定。
やっぱり腕の一本ぐらい、切り落としておいて正解じゃないか、と。
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