第7話 風は台湾から吹く

大師入唐漂着の地、福建省霞浦県赤岸鎮で私が生活しはじめた2006年頃、すでにある程度の中国語の基礎があり、生活するうえで不自由しないくらいは、中国人の話す言葉を聞き取ることが出来ました。しかし、ニュース番組のキャスターがしゃべる言葉の中には、聞き覚えのない、見知らぬ単語がたくさん出てきました。その中のひとつが「両岸関係リアンアングアンシイ」という言葉です。この「両岸関係」という言葉は、日本語で言うと、「中台関係」、つまり中華人民共和国と台湾の関係を意味します。台湾は、中国以外の多くの国家にとって、「中華民国」という、れっきとした国家と見なされていますが、中国国内においては「台湾省」という、中国の一部であると見なされています。ですので「中台関係」という言葉を中国国内で使用するのは、台湾を一国と見なしている言い方になるので、非常に具合が悪いのです。そういった背景があり、苦肉の策で生み出された言葉が、この「両岸関係」という言葉なのです。逆もまた然りで、中国には「中琉関係ジョンリウグアンシイ」という言葉もあります。これは、中国と琉球との関係を意味します。この場合は、日本国沖縄県を、一国と見なしているのです。明朝の時代、かつて沖縄を「大琉球」、台湾を「小琉球」と呼んでいた時代がありました。時代が変われば、土地の呼び名も変わります。



大陸の中国人も、台湾人も、北京語を標準語とします。

台湾人は、一体、自分たちのことをどう認識しているのでしょうか。中華人民共和国の人民と思っているのか、それとも中華民国の国民と思っているのか。高野山で参拝されている方々、もしくは大阪などの繁華街で観光されている方々が、北京語で会話しているのを耳にしますと、私は見知らぬ方であってもすぐに北京語で話しかける癖があります。民族的におおらかなので、皆様、気さくにおしゃべりしてくれます。こういったおしゃべりは、私自身の語学力を錆び付かせないための、いわば、辻斬り的な武者修行でもあります。私が、「あなたは中国人ですか?」と聞きますと、大陸から来た中国人は、「是、我是中国人」(はい、私は中国人です)と答えますが、台湾人は必ず、「我不是中国人、是台湾人」(私は中国人ではありません、台湾人です)と答えます。



1895年、日本は清国と「下関条約」を結び、日本による台湾統治が始まりました。日本の仏教各派、八宗十四派がこぞって台湾での布教活動を行いました。その中で勢力が最も大きくなった宗派は、他でもない高野山真言宗でした。1899年に、「護国十善会」が組織され、会員に毎月、雑誌「真言」を配布し、お大師さまの教えを弘めました。寺の境内には無料宿泊所が設けられ、生活に苦しむ民衆を収容し、仕事を紹介しました。1910年には、信徒の寄付と、総本山金剛峯寺の資金援助により、台北市西門町に「新高野山弘法寺」が建てられました。第二次大戦後、日本は台湾から撤退し、弘法寺は「天后宮」という、台湾人の民間信仰の廟に改装されました。しかし、今日の天后宮には、今なお、お大師さまの御尊像がお祀りされており、お参りされる現地の方々が絶えません。台湾にはたいへん親日的な人が多く、東日本大震災の際には、この天后宮を通じて、日本円にして2000万円もの復興支援金が集まりました。


台湾は、選挙権も信仰の自由もある民主主義です。中国は、言うまでもなく社会主義です。福建省にある「空海紀念堂」はあくまで、「紀念堂」という名の観光施設であり、「寺院」という扱いは許されません。私が大阪の中国領事館でビザを申請するたび、「一切、宗教活動に従事しません」という旨の誓約書を書く必要があり、「国家安全部」という、アメリカのCIAにあたる機関から、スパイの疑いをかけられ執拗にマークされていた中国での日々を思うと、つくづく民主主義のありがたみが身にしみます。


2013年9月、「台湾高野山真言宗」という全国性社会団体が、台湾政府の認可を得て、 正式に発足しました。その影響からか、今年は高野山で伝法潅頂を受け、阿闍梨になろうという台湾人が豊作でした。 先進国の富裕層には、なぜか菜食主義であったり、無農薬野菜を自家栽培していたり、趣味でヨガや禅を学んでいたりするような、ストイックかつ、エコな生活を好む方々が、ある一定の割合で存在します。台湾の高野山真言宗の信徒もそういった類の方々が多く、普段の職業は企業の経営者であったり、医者であったり弁護士であったりします。彼らの仲間が、今年10月に大師教会で行われた、教師検定試験の講習会合宿にも参加しておりました。合宿中は、規律の厳しい集団生活を送ります。読経や声明しょうみょう行法ぎょうぼうなど、真言宗の僧侶として学んできたはずの作法を、この合宿を通じて再確認します。この合宿には、地方寺院などで、名ばかりの修行を終えただけの不心得者を締め上げるという目的もあります。時には指導陣から容赦のない檄が飛びます。「お前ら、坊さんの資格だけ取って、楽に寺を継げると思ったら大間違いやで、やる気ないならとっとと帰れ」。こういった厳しい言葉も当然、私の職務上、通訳して台湾人の彼らに伝えましたが、彼らは事情が違います。なぜなら彼らはもともと継ぐべき寺院も無く、僧侶になって食べていくつもりもなく、純然たる興味と情熱だけを動機にして、貴重なお金と時間を犠牲にして修行に励んできたのです。彼らの知識も作法も、日本人受講者に決して引けを取らず、むしろ日本人以上の者もおりました。彼らは食う手段のために学んだのではなく、ただ、学ぶために学んだのです。求道とは、本来そうあるべきでした。明治以降の肉食妻帯、出家したはずの僧侶が家業を継ぐという矛盾、日本の仏教が「葬式仏教」と揶揄されて久しく、最近では、葬式すら仏式で行わず、樹木葬などの自由葬が流行しており、日本人の仏教離れがますます深刻な昨今。私たち真言宗の僧侶は、お大師さまを支えているつもりが、いつのまにか、お大師さまにぶら下がっていたのかもしれません。僧侶とはそもそも、身分でも職業でもなく、「生き様」であったはずです。袈裟を着たコンパニオンに成り下がってはいけません。そのことを気づかせてくれたのは、かつて「小琉球」と呼ばれた島国からやって来た、素敵な仲間たちでした。中国大陸には13億もの衆生がひしめいています。台湾で流行したものは遠からず、大陸でも自然に流行します。新しい風は台湾から吹いてきます。高野山真言宗が大陸に活路を見出せるかどうか、台湾は絶好の試金石になります。「物の興廃は必ず人に由る。人の昇沈は定めて道にあり」。真言行者よ、大師を奉り、大志を抱け。

                         合掌




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