第7話 コイン
速く、速く、と走る。暗夜の夜道で途切れ途切れの吐息だけが響いていた。もう息がつらい。
「……ッ、はッ……」
ツンと冷気が肌に染みた。しかし、すぐに汗に流されてしまう。秋と言っても、今夜は冬のように寒い。口から洩れる白い息がそれを物語る。
「……なんで?」
蛍が消えてから、一か月が経っていた。新聞部全員が蛍を取り戻すために、全力を尽くした一月でもある。まず、佳純が神敷基地の地図を作製した。もちろん、完全なものではなかったものの、それはある程度捜索できるレベルに達していた。また、実地調査を行い、軍機の出入の時間を記録することができた。これである程度のパターンを知ることができる。
(それがまずかったかな……)
一瞬、後悔したがすぐに頭を振って訂正する。いや、冬華を救うために必要なんだから――
甲高い急ブレーキの音が耳を刺す。後ろから追ってくる車は大きくドリフトして、再び、新の方を向いた。追いつかれるのも時間の問題のように思われた。
数分前のこと、新がコンビニから出てきた時に、黒ずくめの男たちに取り込まれたのだった。
「少し、いいですか」
「なんですか? 警察ですか?」
「いや、怪しいものではありません。少し同行していただきたいだけなのです」
「ちょっと、無理ですね。知らない人についていかないようにと教育されているもので」
「そうですか。こちらとしても、穏便な手を取りたかったのですがね……」
ぐっと右手を掴まれた。そして、そのまま意のままに引っ張られそうになる。
(やばいッ――)
そう思った新は全力で振り払い、逃げてきたのだった。
「……ッ、はあ、はあ、もう無理か……」
煌々と光る夜景の下で新は立ち止まる。急な坂では車の方が圧倒的に有利であった。新の右側には追ってきた車がぴったりと張り付いている。そして、ゆっくりと車の窓が開いた。
「そこまで、です」
聞き覚えがある声だった。思わず、脚を止めてしまう。
「お前は――」
「そうです。覚えててくれましたか? 私、上坂悠莉って言います。ユリって呼んで下さい」
そんな言葉と裏腹に、悠莉は拳銃を突き付ける。
「これは、サービスみたいなものです。私と新君との親交の証としてね。さあ、一緒に行きましょう」
2
雨が降っていた。大きな音もたてることもなく、呼吸音のように静かな雨が。
「……」
目が覚めると、眼前には白い天井がずっと広がっていた。体を起こしてみるが、それでもまだ白の世界は広がり続けている。
新が放り込まれたのは真っ白な部屋だった。家具すらも白で、どうにも居心地が悪い。まるで、境界線が失われたような空間だった。
「……ん?」
一つの人影が見えた。
「冬華……?」
新は目を擦った。夢ではない。冬華だ。
冬華は寝ていた。様々なチューブに繋がれ、隣には心電図も見える。
「どうしたんだよ、おい!」
すぐに駆け寄って声をかけてみるが、彼女は何も答えない。いや、それどころか起きる気配すらもなかった。
「彼女はもう一週間も寝たきりのままだ」
しゃがれた老人の声が背後から聞こえた。その老人は、真っ白な白衣を羽織り、さらには髪も白髪である。
「あなたは……」
「この施設の医者だよ。ずっと、彼女を見続けている」
「僕は……何のためにここに連れてこられたのですか?」
とにかく分からないことだらけだった。なぜ拉致されたのか――なぜ冬華は寝たきりなのか。
「……君はこの子と仲良くしていれば、それでいい。それだけでいいんだ」
硬い声だった。新に有無を言わせない――そんな意志がこもっているように感じられた。そして、医師は冬華の体を摩る。
「私はこの子の運命を呪うよ……」
「それはどういう……」
「文字通りの意味さ。彼女ほどの実力を持ったパイロットが他にいたら、ね」
「……」
「じゃあ、私はこれで。とにかく、看病してあげなさい」
医師はそう言って、部屋を出て行った。
3
冬華と共に暮らして一週間が経った。未だに、冬華は目覚めない。給仕や医学的なことは全て医師が行っていた。どうやら、体調には問題がないらしい。
「冬華! 冬華!」
新にできることは声をかけることだけだった。そのときには常に右手を握るようにした。
「君も熱心だね」
「君は……上坂悠莉」
新の眼前に現れたのは、自分を連れ去った張本人――上坂悠莉だった。
「そんなに深刻な顔されちゃあ、私も悲しいよ。一度は敵対した中だけれども、今は同じことを願ってるじゃないか……」
そう言って、悠莉は数秒間、冬華の顔を見つめる。その眼には優しさがこもっているように見えた。
「君たちはどういう関係なんだ? それに、君は冬華のことを――」
「蛍。ソーファ・チカ・ミーシャ・蛍……それが名前だ。憶えておきな」
目には軍人特有の気風が流れていた。意志を持った冷淡な目であった。
「君よりも私の方が蛍といる時間が長いんだ。誰よりもこの子のことを知ってる。」
「でも、俺だって…………冬華のことが好きだ!」
「それは、本当の蛍……いや、冬華なのか?」
「……!」
「私と蛍が初めて会った時、蛍の性格は見違えるようだった……私の知ってる蛍は気高くて、冷淡で、かっこいい蛍だ。お前はそんな蛍を見たことがあるか? 天然で、お茶目で、かわいくて……そんな蛍じゃなかったか? つまり、君らの前ではお面をかぶっていたんだ。冬華という隠れ蓑だ。名前は個人を表すというが……それがいいように作用したのかもしれない。蛍は新しい自分を作り出したんだ。でも、それが、本当の蛍ってわけじゃないだろう。それだけは絶対に違う。結局、君たちは、表面だけ見て内面を見ていなかったんだよ。君が知っているのは偽りだ」
ピピと悠莉の携帯が鳴る。
「じゃあ、私は次の任務があるから。また」
そう言い残して、彼女は部屋を出て行った。
「冬華!」
次の日の朝、医師から渡された蛍の朝食を運ぶために、一度外へ出た時だった。帰ってきた新を待っていたのは体を起こしている蛍だった。
「……新」
「大丈夫? もう何週間も寝ていたんだ」
「うん、少し頭がグラグラするが……問題はない。冬華、か」
声は同じはずなのに、その口調とイントネーションは新の知っている冬華とはまた違った印象を受けた。
「……上坂悠莉って知ってるか?」
新は尋ねる。口調も別人に語り掛けるようになってしまう。
「ああ、もちろんだ。それが、どうした?」
「……昨日、彼女に言われたんだ。お前が知ってる蛍は偽りだって。表面だけを見て、内面を見ていなかったって……でも、俺にはあの冬華の振る舞いが全く偽りだとも思えないんだよ……」
新の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。新は思い出していた。冬華と過ごした新聞部の日々を。ただ、楽しかったあの日々を。
「……偽りだよ。はっきり言ってしまえば、嘘だ。私が……自分を守るためについた嘘だ」
「自分を守る……?」
「ずっと、私は壁の中で暮らしてきたんだ。幼いころから、一つの世界……一つの価値観で過ごしてきた。言わば、鳥かごの中の鳥であり、井の中の蛙であったわけさ。だから、私はずっと外に出たかったんだ。あの日もね」
蛍は新に目配せをする。新の頭には一つの答えが出ていた。
「もしかして――」
「そう、神敷高校に落ちた日だよ。あの日、私は日米共同訓練の実地演習のために関東へ行く予定だったんだ。そこで……脱出したわけさ」
はあ、と蛍はため息をつく。
「かなり強引な計画だったよ……コックピットから降りて、そのままパラシュート降下するなんて、ね。まあ、パラシュートは昔脱出する際に使ったことがあるから、多少の自信はあったのだけれども……。
神敷高校にしたのは、まだ上空して間もなくの場所にあり、高度が高い位置ではないためパラシュート降下が可能であったのと、プールがあったからだね。着陸の衝撃が和らげるから」
そう言って、蛍は髪を摩った。艶やかなアッシュブラウンの髪が宙を舞う。それは、白い背景に溶け込んで、思わず目を引いた。
そのとき、新には一つの考えが浮かんでいた。どうしても聞かなければならない問い、が。
「じゃあ、あの冬華は嘘だった、ってこと……? 記憶喪失ってのことも、俺たちと過ごした時間も全てまやかしだったのか……?」
声が震える。それでも、新の目には力がこもっていた。
蛍の目はしっかりと新を向いていた。強い視線であった。
「……私の中の理想的な自分ってところかな。こうありたい、こういう風に生きてみたかった……そういう願望。もう一人の自分だ。」
「……そうか、君はそういうやつなんだな。分かった」
新は身支度を済ませると、部屋のドアに語り掛けた。
「帰らせて下さい」
医師たちの話声が聞こえる。何やら、会話をしているようだが、はっきりとは聞き取れない。
しばらくして、ドアが開いた。
「わかった。君が望むなら、そうしよう。私達もやるべきことは終わったからね。ただし、このことは他言無用だ。分かったね?」
「はい……大丈夫です」
「じゃあ、またいつでも来てくれ」
「……気分が良ければ」
4
「どうやら、コントロール出来るようになったようだね」
白い部屋で白髪の医師が蛍に話しかける。その表情はとても硬い。
「すみません……でも、おかげで何とかなりました。ただ、いつまた暴走し始めるのか分かりませんが……」
蛍は、きまりが悪そうな顔をしながら答えた。
「それについては、考えてある。つまりは、適時発散していけばいいのだろう?」
「ええ、まあ……」
「なら、もう対処法は考えてある。結局は、主人格の君がコントロールできればいいのだ」
医師は踵を返して、部屋から出ていく。いつの間にか、ベッドの隣には神敷高校の制服が置いてあった。
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