第5話
原点
いつもなら開いている本屋が閉まっていて、〝棚卸のため本日八時に閉店しました〟の貼り紙が一枚貼られたシャッターの前に人が座っていたんです。どの道帰る方向だったからその人の前を通ると、不意にライトが一つ灯りました。センサーで点くタイプのやつ。それから、耳に音楽が飛び込んできたんです。アコースティックギターと、男の人の声。暗い、短調の曲でした。
「聴いていかないか? マンガ一冊分くらいの暇つぶしなら提供出来る。しかも無料だ」
はじめましてもこんばんはもなくそんな事を言ってきた彼の声は、低くて優しい大人のそれでした。その頃のわたしの周りにいたのは、ようやく社会の入口を知り始めたらしい、未開の土地の猿みたいな男子ばかりだったからなんだか新鮮だったんです。真っ黒な髪を短くしていて、茶色っぽい目がスポットライトの中で光ってました。目が合ってるのににこりとも笑ってくれなくて、わたしはどうしたらいいのか分らなくなって、そのまま立ち止まっちゃいました。動いてはいけないような感じだったんです。それは運命に背く事になるような気がした、と言うか。まあ、この辺りは結構後付けです。
ちょっと順番が前後しちゃうんですけど、この頃のわたしって、結構問題を抱えていて……いや、まあ、今でもその問題は継続しているんですけど。とにかく、家にあまり帰りたくなかったんです。いつかは帰らないといけない事は分かり切っていても、それでも出来るだけ引き延ばしたかった。だから、彼の言い方を借りるなら、マンガ雑誌一冊分の暇つぶしは、すごく有り難かったんです。わたしが頷くと、彼はオープンコードのGを一度鳴らして、それから、ゆっくりと唄い始めました。『そして、還る場所へ』。そんな表題のつけられた、優しい歌。
* * *
庇の下、地面に当たって跳ね返る雨の雫が足元を濡らしていく。淡々とした声で話すフウと、部屋で交わした約束通りに、時々頷きながらそれを聞く俺。時間は優しく、足音を潜めているかのように静かに流れていた。
何処かから何処かへと走る車のクラクションが、印象的な響きを街中に放り出した。雨音が少し弱まった。世界がもう一つ深いところへ移行していく。
* * *
気が付けば 怖れていた夜も明けて
待ち望んだ朝も過ぎ去り また夜が来る
これから何処かへ行くのだろう
それぐらい分かっているよ
どうか怖がらないで最後には
あの雲の欠片が迎えに来るよ
そしていつしか見上げていた世界へ
消えていくのだろう
大丈夫。何も怖くない。
還るべき道は、記されているから
――そして、還る場所へ
幾つかの物語を読みふけって
時間は過ぎ去り きっと君は強くなれただろう
後戻りは出来ないのだろう?
それぐらい分かっているよ
見送る僕から先を行く君へ
「約束するよ。きっとまた会おう」
やがて僕も君が消えていった世界へ
足跡を辿るのだろう
大丈夫。何も怖くない。
何を信じるべきか僕は知っている。
そしていつしか見上げていた世界は
僕たちの中に消えて
新しい朝はやわらかな光とともに
約束は、ぬくもりとともに
大丈夫。何も怖くないから さあ、行こう――新しい世界の扉は、音もなく……
* * *
彼が歌い終わって演奏と一緒に動きを止めると、一分もしないでライトがふっと消えました。
「俺専用スポットライト。止まると消える。便利でいい。そういう玩具みたいだろ、俺」
笑う彼の口元、物凄く歯並びが良くて、なんだか本当に造り物みたいだった。ほら、あれです。気に入った相手の特徴って全部良く見えちゃうんです。歯並びも、あんまり笑わない目も、いかにも大切そうな白すぎる肌も、持ってたギターも、使ってたピックも、全部。どれも、それまでのわたしが見たことも無いような別世界と言うか……触っちゃいけない壊れ物みたいな光り方をしていたんです。そういうのって、ほら、触りたくなっちゃうじゃないですか。
彼の名前はユウ。年齢はあたしより四個上。ギターを弾くのは、他に出来る事が何も無いからで、だけど別にプロになりたいわけでもなくて、向こう数年適当にギター弾いてアルバイトしながら西風が吹いてくるのを待っているんだ、なんて自己紹介をされました。マザーグース。西から風が吹けば皆、幸せ。初めて聞いたその時から、この言葉はわたしの宝物になったんです。彼はそういう、わたしが目を丸くして驚いたり喜んだりするものを本当に沢山持っていたんです。わたしはすぐに彼が好きになって、好きで仕方がなくなって、毎日、毎日ユウの路上ライブに通いつめました。雨が降っていなければしばらくは毎晩十一時四十五分からやるって教えてくれたんです。十一時に本屋が閉まって、シャッターが降りて、それから午前零時四十五分まで。通って、通って、二か月くらいして、程良く成績が落ちた頃、その代わりとでも言うみたいに彼から連絡先を貰ったんです。
かろうじて留年せずに進級は出来ましたけど、それで別に何かが変わるわけでもなくて、相変わらずライブ通いでした。三年生になってすぐに彼が引っ越して、ライブの場所が変わったんです。それが、この街。わざわざそんな、いかにも思い出が転がっていそうな場所を選んで引っ越して住んでるなんて、いかにもぶっ壊れてますよね。自分でもたまに気持悪くなります。本当、冗談抜きに。
しつこく終電に乗り遅れ続けているうちに泊めてくれるようになって、以下略って感じです。三人称的な〝彼〟が、愛すべき〝彼氏〟になって、半同棲状態。鍵はもらえなかったけど、それでもあたしは幸せでめでたし、めでたし……それが、三か月くらい続きました。ユウは毎晩ライブを続け、学校へ行かなくなったあたしは、ユウのために洗濯をしたり、掃除をしたり、簡単な料理も覚えました。
わたしが何かあってしょんぼりしていると、いつでもユウは優しくて低い声で「すぐに西風が吹いてくるから、大丈夫」なんて励ましてくれました。それは、彼の一番強い言葉だったんです。彼も、自分でその風を待っていました。西から風が吹けば、みんな幸せになるって、何かある度に、わたしに言い、自分自身に言い。彼の一番強い言葉。それにべったりと寄り添った、わたしの穏やかな日々。まあこんなの、いつまでも続くわけがないんです。
ある日、彼はいなくなりました。きちんとした手続きの上でいなくなってくれればこんなにわたしがぶっ壊れる事も無かったって思うんですけどね。そういう、流れとか全部無視した形で、ぷいっと消えちゃった……世界が滅びる前触れかと思ったくらい。
メールを送っても、電話しても駄目で、家に行ってもずっと留守。無理矢理にでも鍵を奪っておけば良かったって、後悔で死にたくなったり……何と言うか、依存っていうのはいつでもそうやって、崩壊と引き換えなんですよね。
その当時彼がアルバイトしていたドラッグストアに行って訊いてみたら無断欠勤でクビになってました。出来る事全部やった後は毎晩、時間になると彼が路上ライブをしていた場所に行って待ってました。そんなのを二週間くらい続けていたら、声をかけられたんです。警察官二人組。制服は着てなかったけれど手帳見せられて、ユウの事でって。
ユウはアパートの中で手頸ずっぱり切ってたらしいです。傍らには、ギターと、一枚の紙だけ。歌詞でも書こうとしていたのかもですけど、そこにはこう書いてありました。「When the wind lies in the east ?」。それだけ。他には何も無くて、細かい部分はまるっきり不明です。実はわたしが何か、しちゃいけない事をしたんじゃないかって、今でもたまに思うくらい。
「一応変死ですから調べなきゃいけないんです」
二人組のうち、背の小さな、爺さん警官がそんな事を何だか言い訳がましく言ってきました。お前のネクタイのセンスのが百倍くらい変だよ、なんて思いましたけどね。
しかもね、わたしはわたしで家出娘として捜索願いが出ていたみたいなんです。もう、全力で怪しいじゃないですか。家出娘。その恋人の変死。話を聞くだけだよ、なんて警察は言ってましたけど嘘ばっかり。
こうしてわたしの穏やかな日々は終わり、その結果、わたしは完全に壊れました。高校を中退して、大学受験なんかさっぱり忘れて家にこもるようになりました。それから……まあ、ユウがいた頃からずっと裁判してたらしいんですけど、両親の離婚がめでたく成立して、母親が大喜びで姿くらましたりだとかでごたごたして、おじいちゃん……マスターの力を借りて家を出たんです。
少しずつ治ってきているけど、実際のところはこうしてまだ故障中なわけです。ぶり返すきっかけなんか、本当に簡単な事ばっかり。一度何かを思い出し始めちゃうと、もう駄目なんです。小さな爆発物が幾つも連なっていくみたいに、頭の中が砂嵐になっちゃう。そういう時、世界は白と黒できっぱり塗り分けられた、完璧な牢獄。出られなくて、そんな、出られない自分が嫌い過ぎて、泣いたり喚いたり大忙しで、限界を迎えた時にはこうやって収容されます。
変な表現だけど、ユウはね、わたしにとって帰ることが出来る場所だったんです。牢獄みたいな世界で、わたしが休める場所はそこだけ、みたいな。それがふっと無くなっちゃって、わたしは何処でも休めなくて、墜落、そして故障……で今に至る感じです。
* * *
雨は、再びその勢いを増したようだった。落ちて潰れる雨粒の出す音が強く、冷たい。喋り終えたフウは、満足そうな様子で、雨降りの街を眺めていた。
しばらくの間は、言うべき感想を自分の手持ちから探した。見つからなくて、何かしらそれっぽい台詞の引用元を記憶中引っ掻き回して、それでも見つからなくて諦めた。
「ごめん、俺さ、あんまそういう経験無いからちゃんとした感想言えない」
「いいですよ。残念な感想言われて幻滅しちゃったら嫌だし」
「その……きっとすぐに良くなると思うよ。大体がそういうのって、時間が何とかしてくれるものだと思うし……何か、俺が力になれる事があれば協力するよ」
「幻滅しました……なんて、嘘ですよ。ありがとうございます。タカダさんって、何か、こう、邪気が無いって言うのかな、押し付けっぽくなくて安心出来るんです。だから、つい話したくなっちゃいました」
悪い気はしなかった。誰かに肯定的な評価をされるのなんか、本当に、振り返るとうんざりしてくるぐらいに長い事無かったのだ。とても漠然と、とにかく何かをしてあげたいと思った。そんな俺を馬鹿にするみたいに、雨が更に強まった。
「……タカダさん、わたしの帰る場所でなくてもいい……そう、止まり木になってくれませんか? 」
声に出しての返事は止めておいた。何を言おうとしても間抜けな声になりそうだった。だから、頷いた。それで十分だと思った。
「実はね、これはわたしも気づいたばっかりなんですけど、タカダさんが今住んでいるアパート、前にユウが住んでた場所です」
「……本当に? 何その偶然」
「嘘に決まってるじゃないですかそんなの。タカダさん、本当に、そのうちとんでもない騙され方とかしますよ」
その後、俺達は階下へと戻り、フウはもう一泊の入院で、俺は入口近くの事務室にいた吉村さんに報告。そこには、いつ来たのやら、マスターもいた。俺が来ていた事は既に聞き知っていたらしく、顔を見るなり謝られた。身内の事なのに申し訳無い、と。疲れた顔をしていた。ついこの間、吉村さんからの報告の封筒で喜んでいた事を思うと、なんだか可哀想になってくる。
「本当、タカダくんには申し訳無い。ようやく、治りかけだってのに今回また戻っちまって……参るよ」
「せめてご両親がちゃんとしてくださればいいんですが。フウの場合、その点が回復を遅らせているのは明らかです。」
吉村さんが淡々とした表情でそう言うと、すぐにマスターが不満そうな声を上げた。
「結果として引き離して回復傾向なんだから、今さら頼りになんかする必要無いね。責任を果たさないような無能どもに何を期待する事があるって? 実際、さっきまで親父の方の職場に行ったがあの小僧、私と会おうとすらしない。金だけ出してれば良いと思ってるんだ。あのガキはそういう奴だ」
「あの子にはもっと根本的に依存できる存在が必要なんです。強くなれれば良いけれど、まだその準備に入る段階だから」
「そして依存して、間違えて、また壊れる。準備は永遠に準備のままだ」
マスターと吉村さんのやり取りのかすかな隙間に挨拶をして、俺は外に逃げ出た。これ以上聞いていたくなかったし、聞くべきでもないと思ったのだ。自分が守る? 馬鹿げている。馬鹿げているけれど、それをフウは望んでいる? 何にしても、俺の中に物事を落ち着かせる必要があったのだ。余計な話なんか聞きたくない。入り口の傘立てからビニール傘を回収することすら忘れた。雨粒に打たれて気が付いたけれど、戻る気にはとてもならなかった。
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