第4話

分岐点


 思いきり壁に投げつけたけれど、残念ながら壊れなかったらしい。いっそ粉々にでもなってくれれば少しは気も晴れたかもしれないのに。そこそこ大きな傷がついていたから、とりあえずわたしの勝ちという事にしておく。一つも〝大丈夫〟なんかじゃないし。

 やっぱり、何度かけてもつながらなかった。いつまで経っても何も変わらない事に一番驚いているのはわたし自身。また、振り出しだ。きっと、がっかりさせる事になる。

 空白の五線譜を何枚か、丁寧にちぎってキッチンで燃やした。悪霊みたいな色をした煙がふらふらと立ち上がって生まれた順番に換気扇に吸い込まれていった。

 ピアノが目に入る。もう弾けない時間帯だから指を動かすだけ。もし鳴ってしまっても被害を最小限に食い止められるように、マフラーペダルは常時踏み下げ。五分で何もかもどうでも良くなった。ペダルから足を離して、指を粗雑に動かした。すぐに部屋は音に満ちた。十分も経たないうちに、隣室の住民が壁を殴る音が聞こえた。死ね。今死ね。ただちに、すぐに、速やかに死ね。何だったら一緒に死んでやらないこともないから。

ちょっと気持ちが上向いた。死ってやつはいつもそうだ。普段は、自分なんか全然関係ありませんよって顔をしておきながら、出番だと知るやいなや、すぐに出しゃばってくる。全部を自分が解決出来るみたいな顔をしてすり寄って来る。敵でも味方でも無いくせに、時には誰も彼も敵に回すような真似してみたり、また別の時には万物の救世主を気取るのだ。何も解決なんか出来ないくせに。分かっていながら、わたしは何度も騙される。

 薬を飲んだら楽になる。それも分かっている。けれど、いつまで経っても、一番深刻な部分は何一つ変わらない。分かっている。薬を飲むのは、自分を誤魔化すためだ。薬を飲んだからもう大丈夫って、信じ込ませる。こういうの、偽薬って言うらしい。

 机の中からカッターを出して、指先に薄くラインを引く。血が滲んできた。ちゃんと赤くて温い血が流れている。そこに理由なんか無い。わたしがいつまでもこんな有様なのと同じ。理由なんか無い。

 五十二ある白鍵の低音側から順番に、指先でしるしをつけた。赤黒い染みが幾つか並んだところで血が足りなくなった。もう一筋切って補充。最後には面倒になって、手頸にラインを二本。もう、馴れた。致命的な血管は避ける。こんなの、遊びだ。

 白鍵全部にマーキングが済んだところで、とにかく薬を飲むことにした。このままだと死ぬ。それでも構わないと本気で思い始めていた。引き返せなくなる限界点だ。いっそこのまま進んだら、見たことも無い世界が見えるかもしれないとも思うけれど、駄目。きっと、まだ心の奥底に余裕があるのだ。本当に駄目になったら、周りなんか気にしなくなるらしい。他の人の事を考えられる間は大丈夫。大丈夫なわけねえだろうが嘘つきめ。手元に残っていた薬、全部ありったけ飲んでやった。これで満足だろう? こういうの、何て言うんだっけ? 確か、オーバー・ドーズ。死ねるかな? 多分無理。そんなに沢山は無かった。

 たまらなくなって電話をかけた。こういう時のホットライン。向こうの受話器が外れる音がしたけれど、何を言うべきか分からなかったからそのまま切断ボタンを長押し。電源ごと切った。ゴミ箱に捨てた。誰とも繋がりたくなんかない。

 ピアノに戻り、『猫ふんじゃった』を出せる限りの早さで弾いた。曲目なんかどうでも良かった。音が満ちれば、まだいくらかは救われる。すぐに壁が殴られる。全ての音符を、限界までフォルテで弾いてやった。しばらくの間続いた妨害音はやがて止まった。数分後に、部屋の扉がノックされる音。無視した。『猫ふんじゃった』に飽きて次はショパン、『幻想即興曲』。何度もつっかえたけれど、それも無視。つけたしるしが手汗で溶けて、鍵盤もぐちゃぐちゃだ。くらくらする。手頸からはまだ血が流れている。ピアノを弾きながら失血死。一風変わった自殺としてニュースになるかもしれない。それに何の意味がある? 知った事か。

 眩暈がしたから、目を閉じた。椅子から自分の身体が転がり落ちたのが分かったけれど、痛みは殆ど感じなかった。目をどれだけきつく閉じても、世界は回り、揺れ動いていた。吐きそうだった。扉がノックされ続けている。世界は問題なく運ばれている。嘘とかはったりとか誤魔化しとか、人殺しとか聖者とか偽善者とか正義とか悪とかわたしとか、まとめてひとくくり。皆同じだ。皆、消えてなくなれ。

 全部嘘なんだって言って欲しかった。今日まで、これまで全部嘘で、また明日からやり直せるって。そういう優しい言葉が欲しかった。もうすぐ風が吹き始めるって、新しい世界に行けるって、優しく低い声で、誰かに言って欲しかった。それはきっとわたしの止まり木になる。少しだけ休ませてくれれば、すぐに元気になれる。わたしにはその自信がある。

 空も、地面も、もう見飽きた。いくら見たって、全部、何もかも真っ黒で、真っ白だ。何も始まらないし、終わらない。ぴっちり閉じた殻。完成された牢獄。もう、見飽きた。相変わらずの白黒世界だ。何も見たくない。何を見ても、ろくな事にならない。思い出す、痛む。つらくなる。皆、死ね。わたしも、死ぬ。死んだらわたしのやるべき事ってどうなる? 作られる筈だった曲は? どうでもいい? 良くない。わたしの果たすべき事は? わたしって、そういえば、そもそも何の為に生きている? 誰も答えてくれないだろうから、誰にも聞かない。死ね。くたばれ。消えてなくなれ。

 風は今日も何処からも吹いてこない。



 問題なく仕上げられていた履歴書の筈だったのだが、一体何が気に障ったのやら。送った三通は、不合格通知付きで全部送り返されてきた。個人情報保護とやらで最近はこうして返送するのがスタンダードらしいけれど、そんな事はどうでも良い。強いて例えるならば、期待して乗ったジェットコースターが、最初の登り坂の途中で故障して、ゆっくりとプラットホームまで下げられた感じ。〝貴意に副いかねる結果となりました〟。はっきりと「不合格」と書いてくれた方がまだ救われると思うのだけれど。

 空気を読んだかのような曇り空だった。降りそうで降らない雨と、ずしりとした湿気。瘦せ我慢している様にも見える。快晴なり土砂降りなり、はっきりしてくれればまだ気分も変わりそうなのに。

 三通目の履歴書が返送されてきて、あっさり振り出しに蹴り戻されたのが今日の午前中の事で、今はもう午後二時を回っていた。ベッドの上を転がりながら、喫茶店に行こうかどうかを考え中。行けば多分、結果報告と称して愚痴を言う事になる。マスターはきっと、困惑した笑顔で慰めてくれるだろう。それに頼る二十六歳成人男性。そろそろ本気で自分が嫌いになりそうだ。けれど、我が家には美味いコーヒーを淹れる用意も無いし、この気持ちを癒してくれるような上質な音楽も無い。それに、フウのことも気になっていた。〝大丈夫? 〟のメールへの返信は、あれから二日経った今日も、未だに無い。マスターがその後について何か知っている可能性だって低くはないだろう……沢山の言い訳がいつも通りに精製出来たのを確認し、外に出た。

 喫茶店には行くけれど、絶対に愚痴や結果報告はしない。そう心に決めて出発。家を出て二分で雨が落ち始めた。馬鹿にしやがって。途中のコンビニで新しいビニール傘、五百円。無駄な出費。家に引き返すよりはマシだったけれど気分は最悪だった。とにかく、一刻も早く快適な空調の下で美味いコーヒーが飲みたかった。

 到着した逃げ場、喫茶Disce gaudere。扉は、〝都合により半日休業〟だなんて貼り紙一枚で閉ざされていた。きっと、俺のそんな心境の変化を見越しての事に違いない。誰かしら、俺なんかじゃ絶対に触れる事の出来ない存在の悪意を感じた。誰かが俺を陥れようとしている。

 そんな、おそらく多くの人の「あるある」を集めそうな怒りに身を震わせていると、そんな俺を驚かそうとしたとしか思えないタイミング――ちょうど、時間を見ようとポケットから取り出した直後だった――で携帯が鳴りだした。流れからして、吉報はまず無い。知らない番号で、固定回線だった。書類選考不合格は間違いでした……まずあり得ないけれど手の中で鳴り続けている以上は出ないわけにもいかず、通話ボタンをプッシュ。聞こえてきたのは、深刻そうな響きの女性の声だった。

「突然ですみません。ミカムラフウのことでお願いしたい事があってお電話いたしました」

 もしもし、も無く突然始まった話に対して俺が投げ戻せるのなんか、せいぜい、あやふやな返事だけだ。はぁ、とか、へぇ、とか。フウ? 

「私、ナンブイインの吉村と申します。どうしても、貴方の力が必要なんです。急で申し訳無いのですが、今すぐ駅前まで来ていただけませんか? 縞模様のワイシャツを着て立っています。傘は、無地の水色です。お時間がどうしても都合つかなければ仕方ありませんが……あの子の為にも、なるべくお願い致します」

 そこまでで電話は切られた。何が起こってどういう事なのかは一切不明。俺に時間がある事を十分に把握しているかのような口調だった。だとすれば知り合いか、とも思ったけれど、ここ最近の俺の知り合いには吉村さんは居ない。

 少し迷ったけれど、行くことにした。どうせ他に予定は無かったし、このまま帰ったところで、やっぱり行くべきかもしれないとかなんとか悩む事になるのは、俺の性格からして明らかなのだ。

 電話の主、ナンブイイン。医院? 前に聞いた病み上がりがどうこうの話だとしたら、普通、呼ばれるのは家族だ。もしかしたらマスターが行っていて、それで店が閉まっていたのかもしれないけれど、それならそれでますます俺が呼ばれる理由が分からない。電話番号は多分フウから流れたのだろうけれど、確認するまでも無く、俺はフウの家族でもないし恋人でもない。友達かどうかは定義が曖昧だから置いておくとしても、わざわざ第三者が呼び出される状況が、ちょっと想像出来なかった。


*  *  *


「この部屋です。あまり深くは考えないで接してあげてください」

吉村さんは囁くような声でそう告げ、元来た方向へ戻っていった。

 駅前にいた吉村さんは、先日喫茶店に来ていた〝センセイ〟だった。よく考えるまでもない。報告されていたのは〝病み上がり〟のフウの病状についてで、マスターは、快方に向かっていたフウを喜んでいた。そして、それが若干後戻りした。そういう流れらしい。

通されたのは、白基調の飾り気の無い部屋だった。白い床、白い壁、白い天井と蛍光灯。ベッドの上には白いシーツ。そして、白いパジャマ姿のフウ。左の手頸に白い包帯。青白い顔をして、相変わらず良く似合う、眠たそうな目でこちらを見ていた。

「……大丈夫?」

安い言葉だ。とりあえず口から出るこの手の言葉は、誰も傷つけないかもしれないけれど、誰かのためになる事は殆ど無い。せいぜい、こんにちは、程度のものだ。

「何がですか?」

 低くて冷たい声が戻ってきた。目が合った。すぐに逸らしたくなった。次に何を言えばいい?

「前に言った通り、病み上がりです。ちょっと昔でも思い出しちゃったらすぐこうやって壊れるんですよ。そんな困った顔しないで下さい。もう此処に二日も閉じ込められているんですから。そんな顔されるとわたしまでぐったりします」

「俺が外に誘ったせい……?」

「何も知らないタカダさんに非はありません。わたしの油断です。それより、どうして此処へ来たのか、早く。声出すのって、結構疲れるんです」

「呼ばれたんだ。俺の力が必要だって。上手く言えないけど、どうせ、ほらさ、俺、暇だし……何か協力出来ないかな……って」

「多分先生はわたしのノート見て、一番上に名前のあるタカダさんを呼んだだけだと思います。親友とかその類だと思ったんじゃないですか?」

 重くて、痛みを感じる時間がすり鉢のような軋み音を響かせて前進していく。何の準備も無くこの部屋に俺を放り込んだ吉村さんが悪いのだ、なんて他責感が少し。実際のところは、言うべき言葉をきちんと用意出来ない俺が悪い。どうせ三日か四日経ってから、〝こう言えば良かった〟が思い浮かぶのだ。

「タカダさん、ちょっと遠い。声出すの、面倒なんです。もうちょっと、近くへ」

 言われた通りにした。言うべき言葉を考えるのなんか、やめだ。現在段階で俺には、この場で言うべき言葉のストックは無いし、俺の独力でフウに何かをしてやる事は不可能だった。

「せっかく来てくれたんですから、お願い、聞いてくれませんか?」

「いいよ。何?」

「なるべく低い声であたしの名前呼んでください。出来るだけ優しそうに、もっと、もっと近くで……言葉が台無しになるのなんて、一メートルもあれば十分なんです」

 近づくと、清潔な匂いがした。一瞬、重さを失った沈黙が横切っていった。距離一メートル。もっと、と言われた。更に一歩。もう三十センチだ。白いパジャマの袖から伸びる白過ぎる腕。手首の包帯だけが種類の違う、冷たい白さをしていた。見ていると何もかもが吹き飛んで行ってしまいそうだったから、真っ直ぐにフウの顔だけを見て、低く、優しく名前を呟いた。一度呟くと、フウは頷いた。もう一度呟くと「あと三回お願いします」と注文が入った。

「フウ、フウ……フウ」

「ありがとうございます。子供ってね、叶わない我儘の代わりに、こうやって叶いそうな希望を通してみたりするんです。それで自分を誤魔化すんです。自分は見放されてるわけじゃないんだって」

「希望、叶った?」

「はい……変な我儘だって自分でも思うんですけど。あの、もしタカダさんが興味があるならなんですけど……知ってくれませんか? わたしの事。マスターとか、先生が知っているのと同じくらいの内容。タカダさんが知りたいって思ってくれるなら、わたし、話したいんですが」

 聞いたところで何が出来る? 自分に問いかけ、その返事待ちであるにも関わらず、俺の首は縦に振られていた。出来ることの有無以前の問題として、知りたかったのだ、多分。出来ることなんか聴いてから考えても遅くないじゃないか、なんていうありがちな文句をつけておく。日頃から言い訳にまみれて生きている俺にはこの程度、雑作もない事だ。

 話を聞くにあたって、幾つかのルールがフウによって申し渡された。まず、途中で口を挟まない事。話が続いている以上は退席しない事。聞いている様子をちゃんと見せる事。最後に感想をきちんと述べる事。再度頷くと、少し笑われた。

「そんな、何でもかんでも頷いていたら、そのうち酷い目に遭っちゃいますよ。普通に聞いていて下さい。そんなに変な話でもないんで」

「雰囲気からして拒否しづらいって」

「根性無し」

「……気をつけるよ」

「ほら、また受け入れちゃうんですから。まあいいや……なんか、気が変わりました。せっかくですし、もうちょっと話すのに相応しい場所で話しませんか?」

 また笑われそうだったから、念のため、拒否する理由があるかどうかを探してみた。見当たらなかった。

 部屋を出てワンフロア上、屋上。施錠されていたけれど、鍵はドアノブに紐で結びつけられていた。きっと、誰かが自殺したり立てこもり事件を起こしたりするまでこのままなのだろう。チープな、金属の棒にしか見えない鍵。フウが差し込んでひねると、金属製の扉は特に抵抗を見せる事もなく開いた。外は相変わらず雨降りだったけれど、扉を開いてすぐのところに、三段だけのコンクリート製階段があって、その上には庇がついていた。俺達は並んでそこに腰を下ろした。

「さて……それじゃ始めますね。昔、むかしの出来事です。今から大体五年前だから、それはもう、かなりな大昔です……わたしにとっては、ですけど。平凡な高校二年生だったあたしは、ピアノと受験勉強にひたすら勤しむ、本当につまらん奴だったんです。予備校帰り、月が明るい夜で、大体九時くらい。秋と冬の、ちょうど切り替りの頃でした。それは、舞台の幕が開くみたいにして、いきなり始まったんです」

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