第3話
昨日、自分の中にある怠惰な心と一つの賭けをした。もし翌日、目を覚ました時に外が雨なら再び思考に戻る。曇りか晴天ならば、いよいよ活動開始。天気予報では午前中の晴れを予告していた。結果、やや雲が多いながらも晴天。午後一から雨が降り始めて、賭けに破れた側、俺の怠惰な部分が不満そうだったけれど無視だ、そんなもの。ついに求人雑誌を購入するところまで進む事が出来たのだ。職歴欄までを記入した履歴書も三枚作った。これは重大な進歩だ。
求人雑誌をめくり、とにかく興味が持てそうな募集に付箋を貼った。飽きるまでその作業を繰り返して、それから履歴書を記入。実際に動き出すための準備はほぼ整った。あとは、美容院に行って身なりを整え、写真を撮る。貼りつけて、エントリーしたい会社に送付する。多分、明日には終わる。一度動き出してしまえば、これまで立ち止まっていたのが何だったのかと思えるくらいに簡単な事だった。
夕方、準備に満足したところで喫茶店に足を向けた。動けた事をマスターに報告する。とにかく誰かに聞いてほしかったし、俺の収縮しきった世界では話を聞いてくれるのはマスターくらいのものだったのだ。
降り始めた頃よりも勢いを増した雨がビニール傘を騒々しく打ち付ける。まだ帰宅のピークには早い時間帯、街には、雨音だけがざわざわと広がっている。濡れそぼった鳥が雨を切り分けながら飛び去って行った。途中の公園も、太古の昔に置き捨てられて風化した遺跡のようになっていた。いっそこのまま、誰も彼もが消滅してしまったならそれはそれで面白いかもしれない。ふと、そんな事を思う。もしそうなったら、その時俺は何をするのだろう。勿論、俺だけは消滅から取り残される前提での話。
店の扉に、〝Disce gaudere〟と記されたガラスのプレートが取り付けられていた。先日までは無かったから、特注していたのが出来あがって届いた、とかそんなところなのだろう。丸みを帯びた方形のガラスに凝ったフォントで店名が記されたそれは現代的に洗練された雰囲気を持っていて、新しくなった店にとても良く似合っていた。その代わりなのか、ドアベルが取り外されていた。マスターなりの、店を築き上げる上でのルールがそこにはあるのだと思う。俺になんか想像も出来ないような、何か。
店内には他の客はいなくて、マスターはカウンターで文庫本。淡々とした表情でピアノを弾くフウ。入口から見渡すその光景は、何だか絵画じみていた。
「みんな次の演奏はいつだって訊くくせに、実際に演奏がある日には来ない。天罰みたいなもんだな。そんなもの関係無く来てくれる人だけがそこに行き当たる。世の中は上手く出来ているんだね」
マスターは少し不機嫌な様子だった。フウがそれを受けて、鍵盤を強く叩く。演奏されていたのは、ベートーヴェンの『悲愴』、第一楽章だった。細かくて、繊細な音の粒が勢いよく重ねられていく。不意に静かになる。音が渦になり、広がり、消え、生まれる。席につくかすかな物音すらはばかられる雰囲気が店中に張り巡らされていた。
「演奏中に客が来てくれて助かったよ。今日の彼女への時給、丸々無駄になるところだった。ブレンドでいいの?」
「今日はブルマンで」
「珍しい。何かあったかね」
俺は自分がようやく果たした〝進歩〟について報告した。マスターは、そいつは何よりだ、と笑顔を見せてくれた。
「タカダさん一歩前進ですか? じゃあ、わたしからもお祝いって事で、何か聴きたい曲があればリクエストに応じますよ。クラシックのピアノ曲なら……まあ大体弾けますから。あ、完成度については別のお話でお願いしたいですけど」
「じゃあ、ショパンのピアノソナタ二番、第三楽章で」
他にも何曲か候補は浮かんだけれど、口から出たのはこの曲だ。幾つかの余計な事を俺に思い出させる曲。けれど、それなりに俺にとっての推進力にもなり得る曲なのだと思う。確かに俺はこうして、今現在まで運ばれてきているのだから。
「……タカダさん、お祝いで葬送行進曲なんて、暗い人だと思われちゃいますよ」
「え……じゃあ、そうだな……」
「いいですよ、別に変えなくても。暗いけど、わたしも好きな曲です。気が合うのかもしれませんね」
おそらく、普段はあまり弾かない曲目なのだろう。俺にも分かるくらいのミスタッチが何度かあった。けれどそんなの何の問題にもならなかった。音はひとつひとつ全部綺麗だったし、温かかった。物語はちゃんと進んだ。確かに何かが見送られた。何の問題も無い。全ては順調だ。立ち止まる必要は何処にも見当たらない。確かに。何かが見送られた。葬られた。そして、取り残された俺たちの目前にはまだしばらくの時間がある。
「お祝いの返礼として、タカダさんにはわたしのオリジナル曲を通しで全部聴く義務が発生いたしました事をお伝え申し上げます」
それからは、次から次へと十数曲。技巧的で速い曲もあったし、改装パーティーで聴いた、物語的な曲もあった。フウのソロコンサート。演奏しながら、時折フウは微笑んだ。見ているこちらも笑いたくなってくる、素敵な微笑み方だった。
* * *
一時間半あまりの演奏会を終え、手持ちの曲を弾きつくしたらしいフウはピアノを離れ俺の向いの席へ腰を下ろした。マスターが、そういうサービスまでするのか、と笑っていた。
「失礼な事言ってないで、ブレンドお願いします。ここから先は普通のお客さん」
「最高級のものを用意しようじゃないか。お前のバイト代四時間分くらいの奴」
「ぼったくりバーですかここは……」
「実際そんなコーヒーもあるがね。まあいいさ。ちゃんと注文貰えるなら」
豆が電動ミルで挽かれると香りが店内に広がった。すぐに追えなくなるくらいのかすかな香りだ。フィルターに置かれて、そこに湯が注がれると、見失った香りなんかどうでもよくなる穏やかな気配がはじけるように溢れた。
「タカダさんって、何か音楽やってたんですか? 前、〝作曲は〟とか、変な言い方してましたよね」
「学生の頃にギターを少しだけ」
学生時代、都合四年間。楽器を演奏する期間として考えれば、本当に〝少し〟だな、と我ながら思う。
卒業して、就職をした時にきっぱりやめたのは予定通りの行動だった。どちらかと言えば、何かをしながら別の事をやるのが苦手なのだ。学生の間から周囲にそう公言していた。似たような考えの奴はごろごろいた。その分、学生でいる間は好き勝手に音楽しよう、なんて話で盛り上がった。ライブだってやったし、参加者全員でお金を出し合って、卒業制作CDも録音した。俺は仲間三人と一緒に滝廉太郎の『荒城の月』をハードロックアレンジで演奏した。
そして、就職、退職、今に至る。俺は今では全てのレパートリーを失った。ギターは、捨てられたり売られたりしていなければ、数百キロ彼方にある実家の押入れでみじめな余生を送っている筈だ。
フウに聞かれるがまま、俺はその辺りの事実関係を思い起こし、喋った。殆ど相槌も打たずに、フウはじっと俺の方を見ていた。思い出しながら周囲を彷徨う俺の目線が、時々それにぶつかった。
「聞いてて、なんだか羨ましかったです。わたし、大学諦めた人なんで……しかしあれだな、わたしってギタリストさんとご縁があるのかも」
「そうなの?」
「前の彼氏もギター弾く人でしたから。わたしはピアノにしか興味無いのに、どうしてかピアニストの人と深く付き合う事って無いんですよね」
「腕前が気になっちゃうとか、そういう?」
「ああ、そうかも。そういう事にしときます。次にピアニストの人と出会ったら気をつけてみますね……とは言っても現状、出会う予定皆無ですけど……まあ出会いたいわけでもないですが。これでもね、衝撃的な、ドラマみたいな別れを経験してるんですよ、わたし」
フウの表情や声のトーンにこれと言った変化は無かったけれど、それでも店内の空気の流れが少し変わった。マスターがこちらを見ていた。多分、俺じゃなくて、カウンターに背中を向けているフウを見ていたのだろう。マスターの、いかにも心配そうな様子のおかげではっきりと分かる。フウが言う〝ドラマみたいな、衝撃的な別れ〟は、結構重大な出来事だったのだろう。それは少なくとも、フウや、その身近な人にとって。
「正直ね、こんな風に普通に話せるようになったのも最近の事なんで、今は楽しいんです。誰かと話すって良いなあって。いかにも病み上がりなセリフでしょ?」
マスターが特別サービスのケーキ、とやらを持ってきてくれて、それで話題は打ち切り。消滅。無かったことになった。フウにしても無理やりに話し続けるつもりもなかったようで、それ以上に複雑なストーリーが目の前で広がることはなかった。空間の主導権を確定させるようにマスターはオーディオのリモコンを操作し店内を音で満たした。珍しくそれは音楽ではなくてAMのラジオ放送だった。慌てて間違えたのか意図の通りなのかは分からない。能天気で深刻そうなコメンテーターが次の選挙についてヨトウが、ヤトウが、と語っていた。
* * *
更に四日が経った。美容院で髪を切り、写真館で履歴書用写真を撮影し、俺は中途採用を実施している会社の中で、上場している大手企業に照準を絞って履歴書を送付した。そこには、胡散臭い訪問販売とは種類の違う誇りがあるような、そんな気がしたのだ。
そういうわけで書類選考の返事待ちだ。状況は悪くない。しかも今日は俺にとっては久しぶりになる、人と連れ立っての外出だった。状況は確かに上向きになりつつあるのだ。それは間違いない。
事の起こりは、喫茶店でフウとあれやこれやの話をした時だ。フウから一冊のノートを差し出された。中にはボールペンで表が描かれていた。〝御名前〟〝御連絡先〟〝備考〟。
「わたしの公式ファンクラブ名簿です。第一号の栄誉をタカダさんに差し上げましょう」
断るほど貴重な内容が俺の個人情報に含まれているとも思わなかったから素直に応じた。自分で自分のファンクラブを運営しようと考えつくあたり、いかにも子供っぽくて可愛らしかったし、フウはそんな手作りファンクラブにいよいよ会員が生まれる事が嬉しくて仕方無いらしい様子だった。嫌だなんてとても言えない。得意の自主言い訳。慣れた俺にとってはこのぐらいの内容ならばトイレに立つよりも簡単だ。
そんなわけで、ノートに名前と携帯のメールアドレスと住所を書いた。その日の夜にはフウからメールが来た。一方通行で連絡先を抑えているのはフェアではないとか、そんな内容だった。何回かやり取りをしているうちに、先日遭遇した路上ライブの話になった。〝今度一緒に観に行かない?〟と送ってみたら少し返信の間隔が空いて、俺がいくらか後悔の念を感じ始めたあたりで承諾。今日が、約束した日だった。
夕暮れを過ぎた駅前。帰宅する人々の中にフウ。長い髪を一つにまとめていて、淡い紅色のワンピースを着ていた。少し眠たそうな表情をしていて、それは、彼女にとても良く似合っていた。
「遅いです。一分三十五秒の遅刻ですね」
「秒単位か……」
「冗談に決まってるじゃないですか」
駅前の広場では、既に例のストリートミュージシャンが準備を始めていた。がっしりとしたギターケースと、大きな旅行鞄が地面に投げ出されていて、ストリートミュージシャンは、ジュースを飲みながら雑誌をめくっていた。時計を見ると、午後六時の二分前。時間に細かいタイプらしい。
「あの人ですか?」
頷くとフウから、見た目は十五点なんて声。
「厳しいんだな」
「ピアスしてる人、好きじゃないんです。わたし思うんですけど、世の中全部、判断は自分の好みでするべきなんです。いつ死んじゃうか分からないのに、誰かに譲ったり、自分に嘘をついたりとか勿体無いと思うんですよね。だからわたしは、わたしの個人的な好みにおいて人や自分を物理的に傷つける人の人権を否定する事にしてます」
フウの声は凛とした響きを持っていた。ここには嘘の一つも含まれていませんよ、なんて感じで。もしかしたらその声が聞こえたのかもしれない。何処か抗議めいたコードが二つ、三つ、と鳴った。
「今日も歌わせてもらいます。CD販売はいつものように一番最後なんで、そちらもぜひ」
そして演奏が始まった。すぐに数人が集まった。ここ一週間で彼の路上ライブはまずまずの人気を獲得したらしい。
足を止める人々の中には彼のライブを既に経験しているらしい人が何人かいた。そういう人はすぐに分かる。彼の歌声に合わせて口を動かす人、CDのブックレットらしきものを開いて歌詞を確認する人。そんな様子を見て、まだ彼の音楽を経験した事の無い人が寄ってきて、聴衆はちょっとした一団になる。彼の音楽が、それら全部をまとめて包み込むように、高らかに、心地よく響く。三曲目のあたりで完全に日が暮れた。少し風が出てきて、覆いかぶさっていた暑さがいくらか剥がれた。素敵な夜の始まり。数年後に振り返ったら、きっと、悪くない思い出の一つになっているだろう。そう思った矢先のことだった。
「違うよ、こんなの」
そんなつぶやきに合わせて隣に目を向けると、そこにはこれまでに俺が見たことの無いフウがいた。
深く俯いている。酷く断片的な言葉が、受信の上手くいかないラジオのように、こぼれ、途切れ、またこぼれた。違う、とか、やっぱり、とかそんな内容が幾度も繰り返された。フウは、震えていた。
「どうした? どっか具合でも悪い?」
「……何でもありません。あの、せっかく誘ってもらったんですけど、やっぱり帰ります。もしかしたらもう大丈夫かなって思ったんですけど、まだ時間かかりそうです……すいません」
言うなり、フウは人の群れをかき分けて歩いて行ってしまった。追いかけるべきかどうか、悩んだのはおよそ数分だ。追いかけたところで俺が解決出来るような問題では無いような気がしたのだ。ほんの少し前に知り合っただけの俺に出来る事なんかあるほうがおかしい……また言い訳だ。 結局、追いかけた。街中を探してしばらく歩きまわった。メールも送ってみた。返信無し。一時間かけて見つからなくて、駅前に戻ったらもうライブは終わっていた。数人がCDを買い求めていた。
家には戻らないで、そのまま公園まで行った。いなかった。喫茶店にも行った。CLOSEDと書かれた木製のプレートが扉に吸盤で貼り付けられていた。中から人の気配は感じられなかった。〝ごめんなさい、また今度〟とだけ書かれたメールが送られてきた。さんざん迷って〝大丈夫?〟とだけ返信。多分、フウはそんな返信が欲しくて送ってきたわけではない。いくら俺でもそれぐらい分かる。他に言葉が見つからなかったのだ。
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