第14話 箱に残された“希望”


 真っ白な病室の個室で、パンドラの箱のリーダーであった男がベッドで寝ていた。ただし、その手には手錠が掛けられ、ベッドの柵に繋がれているが。

 窓の外には鉄格子が填められ、換気のために窓を開けることはできても、外に出ることは叶わない。

 そのとき、窓とは反対側にあるスライド式のドアがそっと開かれた。

 病室に入ってきたのは、顔にガーゼを貼っている珠妃だ。


「……まだ、寝てるの?」


 ベッドに横たわったままの男に、珠妃はゆっくりと話しかける。

 だが、男は声に反応して目を開くことも、身動きを取ることすらしなかった。

 珠妃は小さく息を吐くと、ドアを閉めて男の眠るベッドに近寄る。置かれていた丸椅子に座ると、自然と視界に入った手錠に眉を顰めた。


「起きたら、何するか分からないからって、こんなに厳重にしなくてもいいのにね」


 先日の治安部隊本部襲撃において、主犯であった男は、昴の浄化によって意識を飛ばしてから一切目を覚ましていない。あれから一ヶ月余りが経っているというのに。

 心臓や脳波に異常はないため、あとは自然に起きるのを待つしかないと言われたものの、ここまで起きないとなると嫌な予感ばかりが脳裏を過ぎる。

 珠妃は深い溜め息を吐くと、膝の上に置いた手を見ながら口を開いた。


「あれから、パンドラの箱は壊滅したよ。もう、何も残ってない。欠片も全部渡したから」


 治安部隊に拘束された今、これ以上の抵抗は無駄だと察した。元より、珠妃はパンドラの箱の一員ではあったが、欠片の使用に関しては疑念を抱くこともあったため、引き渡すことに躊躇いはなかった。むしろ、渡すことで何かが変わる気がしたのだ。


「あの欠片は、今は治安部隊のほうで調査しているみたい。これから何に応用するかは教えてくれなかったけど。……でもね、一つだけ、良かったことがあるの」


 それは、襲撃がニュースで大々的に報じられてから、世間に広まった等級制度に対する疑念だ。

 治安部隊隊長は特等位ではあるものの、欠片による感情の高ぶりで堕ち、基獣も怨獣へと転じた。また、第三位であったはずの基獣が、己の意志の強さで一時的に特等位へと上がった。

 これらの結果は、特等位といえども完璧なものではないということ、変わらないとされていた響命力の強さは変動すると世間に知らしめたのだ。


「今は、いろんな専門家の人達が話し合ってて、等級制度は見直しをされるべき、ってなっているの。基獣がいない人についても、偏見の目があったともね」


 暴動や混乱が起きるほどでもないが、それでも、世論を動かせたのはパンドラの箱の本来の目的に添っている。

 珠妃は男の手をそっと握ると、温かさに表情を弛めた。


「早く起きて、その目で、その耳で確認してよね」



   ◇ ◆ ◇ ◆ ◇



「いーんですか? 一応、彼女も犯罪者ですよ?」

「だから私がいるのだろう?」


 病室の外で、凪は閉じられてから間もないドアから万里へと視線を移した。

 万里はドアのある壁を背にして、凭れることもせずに真っ直ぐに立っている。

 当然だ、と自信たっぷりに答えた万里だが、凪としては拘束中の珠妃を連れ出した挙げ句、病室に男と二人きりにさせていることを指したつもりだ。


「甘いなぁ」

「私も子を持つ親だ。いくら話せないとは言え、会わせないのもな。変に動かれても困る」


 難しい顔をして壁に凭れた凪に、万里は淡々と述べた。

 しかし、以前の万里なら、病室内まで一緒に入って行っただろう。念には念を入れて、と。

 凪は珍しい発言をした万里を見て、驚いて目を瞬かせる。


「……隊長、丸くなりましたね」

「なんだ、突然。太ってはいないぞ」

「いや、そうじゃなくてですね。世論という荒波に角を削られ過ぎたんじゃないんですか? ってこと」

「…………」


 今回の怨獣化によって、万里は隊長の座を退こうとしていた。一般人からのクレームも多く、責任を取って辞職するつもりだったのだが、引き留めたのは庵や、凪を始めとした治安部隊の隊員達だ。

 そして、何度も響命力のチェックを受け、仕事の傍らで更正プログラムも受けてから隊長の継続を認められた。一般人からのクレームはまだたまに入るが、そこは結果を出して示していくしかない。

 今度は万里が難しい顔をしていると、聞き慣れた声が右側から上がった。


「あ。パパ、ここにいた!」

「直斗?」


 駆け寄ってきたのは、万里の子供である直斗だ。

 無邪気に万里の足にしがみついた直斗は、すぐに凪へと視線を向けると笑顔を浮かべた。


「凪ちゃん、こんにちは!」

「はい、こんにちは。あと、せめて『凪君』な」

「パパ、お仕事?」

「おーい」


 また「ちゃん」付けで呼ぶ直斗に訂正を求めるも、彼の意識はすっかり父親に向いている。

 そして、息子を見下ろす万里の顔も、組織のリーダーのものから、一人の父親としてのものになっていた。


「そう。中でお話をしている人は、悪いことをした人だから、今はまだ入るなよ?」

「じゃあ、僕が怒ってくる!」

「「えっ」」


 危険をわざわざ伝えたというのに、五歳の少年からすれば正義感を煽られただけだった。

 驚きで固まった二人をよそに、直斗はすんなりとドアを開けて中へと身を滑り込ませた。


「いや、待て。待て、直斗」

「あーあ。悪いことをした人だって言うからー」


 ドアが閉じられた音で漸く、体を動かすことができた万里は、慌てて息子の行動を止めるべくドアに手を掛ける。

 凪は呆れから溜め息を吐いているが、非常時に備えて刀に手を添えていた。基獣は出せずとも、武器がある治安部隊が有利であることに変わりない。

 ドアを開けば、既に直斗は珠妃の隣に立っていた。


「お姉ちゃん、この前、悪いことした人?」

「なお――」

「うん。そうだよ」


 焦る万里だが、思いの外、珠妃は優しい表情で頷いた。

 直斗は素直に認めた珠妃に唇を尖らせながら、両手を腰に当てて堂々と言ってのける。


「悪いことしたら、パパに怒られるんだよ!」

「あはは。よく知ってるね。でも、君のパパには怒られたから、もう反省してるよ」

「ごめんなさいは?」

「……ああ、そうだ。君も巻き込んだよね。ごめんなさい」


 一瞬、正義感からくる発言かと思ったが、直斗も被害者の一人だ。それに対する謝罪はまだしていない。したとしても、許されるようなものでもないが。

 だが、謝った珠妃に直斗はにっこりと笑顔を浮かべて頷いた。


「うん。謝ったから、許してあげる」

(何に対する謝罪なのか、分かってないのかな……)


 子供の喧嘩で謝ったのではない。多くの重軽傷者を出し、物の損壊も多い。

 彼の発言は、自分に対する謝罪を求めたのではないと、漸く気づいた。

 すると、直斗の興味は眠ったままの男に向く。


「このおじさん、お姉さんの知ってる人? ずっと寝てるの?」

「……うん。この人も悪いことをした人で、もしかすると、このままずっと寝てるかな」

「えー! じゃあ、パパのお仕事終わらないよ!」

「ぶはっ! ――って!?」


 子供からすれば重大な問題だ。

 ただ、この場の空気を壊す発言には変わりなく、子供ゆえの純粋さに凪は思わず吹き出す。そして、万里に脇腹を殴られた。

 脇腹を押さえながらうずくまった凪をよそに、直斗は笑顔を浮かべて言った。


「僕が起こしてあげる! 清明、起こすのも得意なんだよ」

「いや、むしろ眠らせるほうが得意そうな気がする……」


 直斗が早くも顕現した基獣はカイチの清明だ。羊に似た外見をしているため、眠る前に数えられそうだと思った。

 清明はベッドで眠る男に歩み寄ると、細長い角で男の頭に軽く振れた。

 すると、振れた箇所が淡い光を放ち、男の体を包み込んでいく。


「うわ、ちょ、待った」

「直斗。大丈夫だ。外に行っておこう」

「ええー?」


 慌てた凪が立ち上がったと同時に、万里が息子を抱えて部屋の外に連れ出した。清明と凪も二人の後を追う。

 残された珠妃は、一瞬にして去って行った三人と一頭に唖然としていたが、光景を思い返すと笑いがこみ上げてきた。


「……ふっ。あははっ。治安部隊のトップ二人が、小さい男の子一人に振り回されるなんて、貴重なものを――」

「珠妃……?」

「……え?」


 背を向けていた方から、名前が呼ばれた。

 聞き慣れたはずの声だが、まさかこんなにも早く再び聞けるとは思わず、記憶と一致させるのに数秒かかった。

 振り向けば、ベッドで寝ていたはずの男が目を覚ましていた。


「俺は……今まで、ずっと、寝てたのか……?」

「…………」

「なんだか、酷い夢を見ていたような気がする……」


 ぼんやりとした様子の男は、目頭に手の甲を当てながら掠れた声で言う。

 自分が今まで何をしていたのか、記憶がまだ曖昧なのかもしれない。

 けれど、珠妃にとっては起きてくれただけで十分だった。


「うん。……うん、そうだよ」


 現実は変わろうとしている。

 あの悪い夢のような日々は、もう訪れないと願いたい。

 珠妃は滲む視界に男を映して、こみ上げる感情を抑えながら声を振り絞った。


「だから、今度はちゃんと、現実を見て、受け入れていこう……?」

「な、んで、泣いて……」

「起きるのが遅いせいだよ。



   ◇ ◆ ◇ ◆ ◇



「おはよ」

「あ。おはよう、凛ちゃん」

「よー」


 朝、恭夜と共に学校へと登校していた有栖は、正門をくぐる手前で凛と合流した。

 凛は、有栖の肩にいる鳩ほどの大きさの緋月を見ると小さく息を吐く。


「白銀がいないから判断しづらいけど、やっぱり、二匹同時はこの姿なの?」

「うん。今は、本来の大きさにすると周りに迷惑がかかるからこの大きさなんだけど、白銀が出ると本来の大きさにはできないかな……」

「まぁ、昴も前のままみたいだし、ニュースとかで言ってるとおり、響命力も定かじゃないものなのね」


 パンドラの箱が全員捕まってから約一ヶ月。

 有栖と恭夜は、治療などのために学校を一週間ほど休んでいたが、有栖が二匹同時に本来の姿で顕現できたのも、恭夜の昴が特等位と同等の力を持って姿を変えたのもあの日限りだ。

 治安部隊や研究者などに再現を求められても、何故か同じことはできなかった。


「だからこそ、今は等級制度をどうするか話し合ってるんだろ?」

「そうね。でも、撤廃なんてされた日には、今までちやほやされてきた上位の人達はどうなるんだろ」

「なくなっても、すぐには変わらないよ。何せ、長い年月、制度に縛られてきた人達が多いからね」

「御巫先輩!? だ、大丈夫なんですか?」


 凛の発言に返したのは、いつの間にか後ろに立っていた庵だった。隣には透真もいる。

 庵は、怪我も酷かった上に諸々の処理もあったため、有栖と恭夜よりも長く学校を欠席していた。

 心配した有栖に「ありがとう。もう平気だよ」と返したり、後ろを歩いている姿を見る分には平気そうだが、彼は苦痛を取り除かれている。あまり信用ならない。


「本当に大丈夫なんだよ? 現に、透真も何も言わないし」

「殺しても死なないような奴だってことはよく分かった」

「あはは。僕はしぶといだろう?」

「嫌なくらいにな」


 普通の人であれば、失血か激しい痛みによるショック死をしていてもおかしくはない状態だった。それでも動こうとしていたのだから、彼を殺すには差し違えるのを覚悟して望まなければならないだろう。最も、殺すつもりはないが。

 すっかりいつもと同じ様子の庵を見て、有栖はあることを思い出す。

 しかし、それを他の人もいる場所で話すことは憚られた。


「……あの、御巫先輩」

「うん?」

「少し、お話いいですか? ……あ。えと、すぐに終わります」

「有栖」


 きょとんとする庵を見て、有栖は始業までの時間を気にしているのだと思い、話は長くないことを付け足す。

 だが、恭夜は不満と不安を混ぜ合わせたような表情をしており、昴を顕現していれば耳と尾を下げた姿が見られただろう。

 それでも、第三者に聞かれるわけにはいかない。


「恭夜達は先に行ってて。すぐに行くから」

「……分かった」


 正門をくぐった所で恭夜達とは別れ、有栖は庵と共に校舎の陰に向かう。

 先を歩く有栖について行っていた庵は、彼女の話に目処はついていたが、ちょっとした悪戯心で言った。


「もしかして、告白でもしてくれるのかな?」

「え? ……あっ。いえ! ち、違います!」


 校舎の陰に呼び出すなど、そう捉えられてもおかしくはない。

 今さら気づいた有栖は、赤面しながら慌てて否定する。

 そこまで必死に否定しなくても、と少し残念に思いながら、庵は「ごめんごめん。ちょっとからかっただけだよ」と宥めた。


「そ、その……以前、御巫先輩が、龍樹に連れて行ってくださったときのことなんですけど……」

「ああ、あれね」

「……やっぱり、私にはできません」


 庵に何かあったとき、龍樹のことは有栖に任せると言っていた。

 今も龍樹の存在は有栖以外には話していない。時期を見て話すことも視野に入れているが。


「長く御巫先輩のお家の方達が守ってきたものですから、他人が介入していいものではないはずです。それに、経験も浅いですし」


 経験はいくらでも積みようはある。それでも、有栖には御巫家が守ってきたものを守るには荷が重すぎた。

 それならば、と有栖はある考えに至った。


「だから、御巫先輩のお力になれるよう、これからも頑張りますね」

「……うん。ありがとう」


 今や、龍樹は庵一人が抱えているものではない。有栖も存在と場所を共有している。

 ならば、庵が困ったときに力になれるよう経験を積んでいくほうが、龍樹を守るには効率がいいはずだ。

 期待しているよ、と話を締めくくれば、有栖は「はい」と笑顔で頷いた。そして、予鈴がなる前に……と教室へ向かった。

 庵も教室に行こうと校舎の入り口へと歩く。

 出入り口には透真が立っており、庵が来るのを待ってくれていたようだ。


「遠回しにフラれたか?」


 透真の肩に小太郎が飛び乗った。どうやら、小太郎を通じて聞いていたらしい。

 趣味が悪いなぁ、と内心で呟きながら透真の横を通り過ぎる。


「まだ告白もしてないよ」

「まだ、ねぇ」

「それをする前に、やるべきことが山積みだからね」


 意味深に言葉を取り上げる透真に、庵は口元だけで笑んでみせた。

 そして、有栖達の姿を思い浮かべながら言葉を続ける。


「“基獣”とは、人の心に響命力が反応して生まれた、『心の鏡』であるって芦屋さんは言っていたけど、どうして生まれたかまでは答えが出ないそうだよ」

「超常現象だし、答えが見つかるようなものでもないだろ」


 基獣の研究の第一人者である、芦屋清春。彼のその発言は、基獣学を学ぶ上で最初に目にするものだ。

 本人がこの世を去って年月は経っているが、何故、基獣が生まれたのかは謎のままである。

 しかし、庵はパンドラの箱との騒動を思い返していると、ある可能性が思い浮かんだ。


「うん。でも……発展していく現代で、人が人であることを忘れないために……自分を踏み留まらせて、見つめ直すために生まれた、“希望”なのかなって思ったんだ」


 ギリシャ神話では、パンドラの箱が開かれたとき、様々な災禍が世界を襲ったという。そして、箱の底には希望が残されていたと。

 組織としてのパンドラの箱も、世間に騒ぎを巻き起こしたものの、それによって気づくものも多くあった。

 透真は「なるほど」と納得しながら、小さく笑って言う。


「未来の基獣学に載りそうな言葉だな」

「ふふっ。そうなるよう、僕も頑張らないとね」




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