第10話 夜明けと共に


 町の中心部から少し逸れた位置にある治安部隊本部。敷地は背の高い黒い柵で囲われているが、隙間から中の様子を窺うことは出来る。ただし、建物自体は奥にあるため、細かな隊員の動きは見えない。

 日の出が近づく町はまだ薄暗さが残り、静けさに包まれていた。最も、本部内では怨獣の出現の後処理に追われた隊員が動き回っているが。

 その本部前を通る道に、突如として無数の黒い影が浮かび上がった。中から現れたのは、黒い靄を纏う人形と虚ろな目をした複数の人間だ。

 さらに、横一列に現れた彼らより一歩先では、一人の男性が影から出てきた。

 気持ちを宥めるつもりか、彼は本部を見て一度大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出す。


「……やれ」


 片手を小さく挙げ、手短に指示を出した瞬間、マネキン達から放たれたのは黒い影の塊だ。

 無数の影の塊は、真っ直ぐに本部へと飛んでいく。

 しかし、柵を越えるか越えないかのところで大きな破裂音が辺りに木霊し、影の塊は跡形もなく消えてしまった。


「結界、か」


 想定内のため、男に慌てる様子はない。鳴り響く警報を聞きながら、ズボンのポケットに手を突っ込んだ。そして、指先に当たったいくつかの硬い感触を無造作に掴む。

 襲撃に気づいた隊員達が本部内から出てきているのを見て、男はにやりと笑みを浮かべた。


「パンドラの箱か!?」

「いかにも。しかし――」


 問いかけに鷹揚に頷きながら、隊員達を眺める。まだ万全ではないのか、それとも大した戦闘力はないと思われているのか、隊長や副隊長の姿はない。

 下っ端ばかりか、と内心でぼやき、小さく息を吐いてから掴んでいた物を放り投げる。


「雑魚は散れ。そして、糧となれ」


 赤や青、紫などのガラスの欠片が宙に舞う。

 それが何であるかの知識は隊員達にもあるため、欠片に触れないよう基獣は顕現させずに距離を取った。

 何者にも触れない欠片は、顔を覗かせた朝日を受けてキラキラと輝く。

 すると、男の背後にいた人達が一斉に動いた。それぞれが基獣を顕現し、基獣は欠片に触れたり、食らいついてから治安部隊へと突撃する。また、黒い影を纏ったマネキンも地を蹴った。

 欠片に触れた基獣は次々と怨獣と化し、不気味な怒号を辺りに響かせた。


「ヴオオおオおォォォぉ――!!」

「迎え討て!」


 向かってくる怨獣に対抗すべく、隊員も基獣を顕現する。さらに、刀を抜いて各々が応戦態勢を取った。

 獣の争う声や基主の怒号、破砕音や金属のぶつかり合う音が、辺りを包んでいた静寂を壊す。

 男は戦闘を避けるように下がり、全体の様子を眺めた。マネキンが崩れれば、追加を投入しながら。戦闘に慣れているのは当然ながら治安部隊だが、数でいけばパンドラの箱が有利だ。


(このまま相手が弱るのを待つか、それとも――)

「貰った……!」


 腕を組みながら様子を窺っていた男に、一人の隊員が横から突っ込んできた。反対側からは彼の基獣であろう狼が。

 相手は丸腰の男だというのに、隊員は躊躇うことなく刀を振り抜く。狼もまた、鋭い牙で食らいつかんと口を大きく開ける。

 だが、刀は間に入ったマネキンを払い飛ばすことになり、狼の牙は別のマネキンに阻まれ、避けた男に当たることはなかった。


「ちっ!」

「おや。何か乗っているよ?」

「え……?」


 男は不意を取れずに悔しがる隊員に、口元に笑みを浮かべて刀の先を指す。

 振り抜いた態勢のままの刀の先。そこに乗っていたのは、一匹のリスだ。


「なっ!?」

「お疲れ様でーす」


 愕然とする隊員の後ろから、間延びした少女の声が聞こえた。

 隊員が振り向くより早く、声の主の意思に応じたリスが刀身を駆け上がり、隊員の首もとに噛みつく。

 痛みはほとんど感じなかった。代わりに、こみ上げてきたのは強い憎悪だ。


「っ、は、あっ……!」

「珠妃」

「はーい。……それじゃあ、いらないものは捨てようか。今のあなたには、憎悪だけでいいよ」

「ぐ、うっ……」


 隊員の手から刀が落ち、その場に膝から崩れ落ちた。基獣も苦しげに地面に伏せて足掻く。やがて、基獣の姿は黒い靄に包まれ、怨獣と化した。

 刀を杖代わりにしてゆらりと立ち上がった隊員も、纏う空気ががらりと変わっている。呼吸は荒く、仲間である他の隊員を見る目には、憎悪しか宿っていない。

 リス……珠妃の基獣の木葉は隊員から離れると、次々と別の隊員を噛んでいく。噛まれた隊員は同様に苦しみだし、基獣も怨獣へと堕ちていった。


「用があるのはお前達の『頭』だ。呼んでもらおうか。『パンドラの箱のリーダーが待っている』と」

「ひっ……!」

「ただし、生きていたならば、だが」


 腰を抜かした隊員に、熊の怨獣が狙いを定める。

 その太い爪が振り上げられたのと、雲一つない青空から雷が落ちたのはほぼ同時だった。

 鼓膜が破けそうなほどの轟音。反射的に目を閉じても分かるほどの眩い光。

 一体、何が起こったのか。

 怨獣による攻撃が一向にやってこない、と隊員は恐る恐る目を開く。まだ視界は明滅しているが、何度か瞬きをしている内に少しずつ収まってきた。


「……?」


 黒い大きな塊が、目の前に横たわっている。

 それが先ほどの怨獣であると認識したとき、本部がある方向から歩いてくる人影に気づいた。


「パンドラのリーダーからのご指名とあっては、表に出るしかないな。それと……」


 現れたのは治安部隊隊長である万里だ。傍らには二メートルほどになっている時雨と、さらに後ろには凪と雪影もいる。

 万里は次々と怨獣化していく隊員の基獣を見て、大きな溜め息を吐いた。


「俺は、部下をあっさりと堕ちるよう育てたつもりはないのだが」

「同士討ちとか、マジないんですけどー」


 万里の後ろにいた凪は、飛びかかってきた黒い鷹を一瞥する。鋭い爪が凪に届くより早く、雪影が食らいついて地面に叩きつけた。

 また、時雨は上空に昇ると、全体を見渡して怨獣の位置を確認。空から複数の雷を落とした。

 雷を受けた怨獣は地面に伏し、痙攣している。怨獣を中心として地面に広がった黒い煤や、体表を走る電流が、雷の威力の大きさを物語っていた。

 怨獣が落ちついたのを見て、時雨は空に暗雲を呼び起こし、優しい雨を降らせる。


(浄化の雨……。まずい。このままだと、怨獣が……)


 雨によって、倒れた怨獣から黒い靄が引いていく。

 浄化の雨であると気づいた珠妃は、新たな欠片を取り出そうと上着のポケットに手を入れた。

 しかし、それを牽制したのは、目の前に立ちはだかって刀を突きつけてきた凪だ。


「おっと。動かないでくれよ? お嬢ちゃん」

「グルル……」


 いつの間にか、木葉も雪影の前足によって地面に押さえつけられていた。木葉の視界は共有していたはずだが、雪影の動きは捉えられていない。

 気怠い雰囲気を纏っていても、やはり、治安部隊の副隊長の肩書きは伊達ではないようだ。

 珠妃の動きも抑止できたことで、万里は男に向き直る。


「さぁ、大人しくしてもらおうか」

「……その言葉、そっくりそのまま返そう」

「なんだと?」


 男から余裕が崩れる様子はない。

 怪訝に眉を顰める万里に、男はにやりと笑みを浮かべると、傍らに黒い影を生み出した。男やマネキン、パンドラの箱の一員が出てきた影よりもさらに大きい影だ。

 その中心から現れたのは、一頭の巨大なゴリラの怨獣だった。片手には何かを握りしめている。


「『これ』が何かなんて、言わなくても分かるだろ?」


 怨獣が見せつけるように握りしめたものを少し掲げる。大きな手から覗くのは、眠っている少年の顔と足先くらいだ。

 しかし、万里の表情が驚きへと変わるには十分だった。


直斗なおと……!?」

「えっ。嘘。隊長の子供?」


 万里が口にした名前は、凪には聞き覚えがあった。片手で数えられる程度でしか会ったことはないが、「仕事ばかりで、あまり遊んでやれないのが辛い」とぼやいていたことがあり、堅そうな万里も一人の親なのだなと感心したものだ。

 直斗はまだ五歳であり、基獣も具現化していない。だからこそ、何か起こったときのために、と警備は強化していたはずだ。

 一体、どうやって連れ出してきたのか。疑問は浮かぶが、危害を加える可能性がある以上、下手に動けなくなってしまった。


「お前の嫁は、こいつを怨獣から庇って死んだんだっけ? 可哀想に。基獣なんていなければ、こんな事も起きなかっただろうに」

「死ぬ覚悟はできているんだろうな?」

「ちょっ、隊長?」


 怒りを滲ませた万里が刀を抜く。近づいただけで切り刻まれそうなほど、万里の響命力が研ぎ澄まされている。

 隊員を注意することはあれど、彼が本気で怒ることは早々ない。

 珍しい感情の爆発に、凪は戸惑いを浮かべてどうすべきかと逡巡した。


(この女と基獣を放っておくこともできないけど……いや、キレた隊長とか、むしろ相手にとって不都合なんじゃ……)


 以前、町で凪がパンドラの箱のリーダーと対峙した際、彼は他の怨獣を生み出して戦闘から退いている。つまり、彼自身の戦闘能力はさほど高くないはず。

 万里を激昂させるほうが、パンドラの箱にとっては不利にはならないのか。

 そう考えたところで、凪はある仮説に辿り着いた。


(もし、特等位も怨獣化するとしたら……?)


 パンドラの箱は、欠片を使って一部の負の感情を増幅させ、怨獣に堕としている。訓練を受けている隊員と基獣ですら、あっさりと怨獣化しているほどだ。

 直斗を連れ出したのが、万里を抑えるためではなく、堕とすためだとしたら。


「まずい……!」


 凪の焦りを受けて、雪影は押さえていた木葉を一瞬で凍り漬けにした。また、珠妃には内心で謝りながら、刀の背で強く打って気絶させる。

 だが、距離としてはパンドラの箱のリーダーのほうがずっと近い。


「親として、その反応は当然だ。けど、隊長としては――」

「隊長! ダメだ!」


 凪の制止の言葉は、果たして万里の耳に入っていたのか。

 地を蹴った万里が男との距離をさらに詰める。

 男は万里の一閃を屈んで避けると、彼めがけて赤い欠片を投げた。


「失格だ」

「っ!?」


 赤い欠片が万里に触れ、体に溶け込んだ。

 直後、上空にいた時雨が苦しげに叫び、もがきながら地面に落ちた。

 アスファルトが抉れ、砂埃が舞う。


「げほっ、げほっ……」

「グルル……」

「……ああ。大丈夫だ」


 噎せる凪を気遣い、雪影が粉雪の混じる冷気を吹かせて周辺の砂埃を払う。

 だが、代わりに露わになった姿に溜め息が零れた。


「…………」

「あーあ。もう、最悪」


 万里が俯いて立っていた。刀の切っ先は地面に向けられたままで、戦意は感じられない。先ほどまであった怒りの感情も。

 だが、彼から感じる響命力が一変していた。地面に落ちた時雨の姿も。


「こんなこと、治安部隊の黒歴史入り確定じゃないですか」


 ぼやきながらも、凪は刀を構える。傍らにいた雪影も時雨に向くと、前身を低くした。

 万里がゆっくりと顔を上げる。虚ろかと思われていた表情には、しっかりとした敵意が現れていた。


「目ぇ覚ましてくださいよ、たーいちょ」


 軽い口調で言った凪が再度、地を蹴る。雪影は凪とは異なる方向に……起き上がった黒い龍に向けて駆けだした。

 万里の手前で膝を曲げて高く跳躍。振りかぶった刀を躊躇わずに振り下ろした。上司に向けて。

 金属同士がぶつかり合う音が、雪影の唸り声が響く。


「……やはり、上司に対する口の利き方を叩き込む必要があるな」

「へぇー。基獣が堕ちてるのに、会話はちゃんとできるんですねー。シラナカッター」

「ほざけ」


 怨獣化した基主は意識がないわけではない。偏った考え方の場合が多いが、会話をするだけの思考もある。

 何度も交戦している凪も知っているはずだが、棒読みをしている辺り、重い空気になるのを避けているのだろう。下手に負の感情を見せれば、今度は凪が欠片の餌食になりかねない。

 雪影は時雨を抑えてくれている。万里のもとへ行かせれば、凪が不利になるからだ。

 上空にいる時雨は水の矢を降らせ、雪影も地上から氷柱を飛ばして応戦している。ただ、力の差は歴然としているため、雪影は防戦一方だ。


「はっ!」

「っ!」


 万里の一閃を刀で受け、何とか押し返す。訓練で万里とは手合わせをしたことはあるが、今の一撃はその比ではない。

 刀を握る手が痺れる。何とか持っているのが精一杯だ。


「くそっ。怒りの矛先を向けるなら、あんたの子供を握ってるアイツでしょーが! あれ何処のゴリラだよ!」


 今の万里に正常な判断はできないのだろう。

 思わず怒りを露わにしてしまったが、万里が堕ちただけで満足しているのか、パンドラのリーダーに動きは見受けられない。

 動かないならば、むしろ好都合だ。

 凪は男から意識を万里に移し、刀を構え直す。いつ、直斗を握っている怨獣が彼を握り潰すか分かったものではない。

 しかし、再度、万里に斬りかかった凪がどれほど攻めようとも、彼は苦しむ気配を見せずに一撃一撃を受け流す。


「甘い」

「くっ!」


 ほんの僅かな脇の甘さを突かれた。

 万里が振るった鞘が脇腹を強く打つ。骨が砕ける音がしたと同時に、強い痛みが全身を駆け巡った。

 横に吹き飛んだ体は、受け身さえまともに取れず地面に叩きつけられる。


「っ、ごほっ、げほっ。ってぇ……!」


 喉の奥からせり上がってきたものを吐き出せば、地面を汚したのは血だ。口の中を満たす鉄の味と痛みに、思わず眉間に皺が寄る。

 地に伏した凪の視界に、歩み寄ってきた万里の靴先が入った。

 見上げれば、冷たく見下ろす万里がいた。雪影も時雨に絞められている。


「……ははっ。明日のニュースが見れないのは残念だ」


 どうやって書かれるのだろうか。そもそも、この騒動は落ちつくのか。

 しかし、諦めていた凪の耳に入ってきたのは、目の前の万里の声ではなく、別の者の声だった。


「ええ、本当に」


 澄んだ響命力の波が、混乱に満ちた場を凪いだ。それだけで、黒い靄を纏うマネキンの何体かが崩れ落ちる。

 直後、雪影を絞めていた時雨の首もとを、上空から急下降してきた白いドラゴンの足が掴んで地面に押さえつけた。次いで、町の中心部の方角から万里に向けて、青い火の玉が複数放たれる。

 万里は避けるために凪から離れるも、相当な使い手なのか火の玉は万里を追尾していた。

 物は試しよう、と刀に響命力を込めて火の玉を斬るように振えば、綺麗に割れて消える。

 炎が飛来した方向を見れば、庵と透真、そして、大型犬ほどのサイズになった小太郎が駆けつけたところだった。


「特等位が堕ちるなど、前代未聞ですからね。揉み消されていなければ」


 万里を見る庵の目は、普段とは違って緊張感が滲んでいる。度々、治安部隊の仕事を手伝う庵や透真は、万里の実力を嫌と言うほど目にしているのだ。

 そんな彼が堕ちたとなれば、庵にも余裕はないのだろう。

 対する万里は軽く鼻で笑うと、セレンに押さえられている時雨を解現し、自身の近くに顕現し直した。ダメージは残っているが、解放されたならば対処はいくらでも取れる。


「丁度いい機会だ。どちらが上か、はっきりさせよう」

「おや。漸く、本音らしいものが出てきましたね」

「お、おい。庵……?」

「こんなときに私闘はよしてくれよ……」


 万里からの言葉を受けた庵は嬉しそうだ。ただし、敵意は剥き出しにしているが。

 凪に手を添えて上体を起こしていた透真は、二人の間に流れるピリピリとした空気に焦りを滲ませる。

 呆れている凪が万全であればともかく、今、この場に二人を止められる者はいない。


「御巫の名に泥を塗られては困ります」

「青二才が」

「少々早いですが、引導を渡してあげましょう」


 庵の隣に下り立ったセレンが低く唸る。時雨もまた、鋭く目を細めた。

 火花を散らす両者を見て、凪は深い溜め息を吐く。またしても脇腹が痛んだ。


「はぁ……あー、帰りてぇ」

「同じく」







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