第6話 奪われた感情


 一般の人はほとんど近寄らない町外れに、その施設はあった。

 三階建ての真っ白な四角い建物。敷地を囲う白い塀は建物の二階部分ほどまでの高さがあり、上部にはフェンスと格子鉄線が張り巡らされている。

 出入り口である門は重厚な鉄の扉で、傍らには警備員が滞在する小屋が壁に接してあった。

 周囲に民家はなく街灯もほとんどないため、日が暮れた今は塀に等間隔で設置された明かりだけが頼りだ。

 いつもなら数人の警備員が不定期で巡回しているが、今は町中で大量の怨獣が出たこともあり、その数は普段より増やされている。

 各々が基獣を顕現させ、辺りを警戒する様は、まるで――


「刑務所だな」


 突然、施設の前の道に現れた男は、重苦しい雰囲気を纏う建物を見て思ったままの感想を呟く。

 近づいてくれば姿は見えるはずだが、男は影から出てきたかのように、何の前触れもなくその場に佇んでいた。

 警備員の一人が、訝しげに男を見て近づく。


「なんだ? お前――がっ!?」

「おい! 何を――っ!」


 男の足もとから飛び出した黒い獣が、最初に近づいた警備員の喉元に食らいついて押し倒した。

 周囲の警備員も異変に気づいて駆け寄ってくるが、先に現れていた黒い獣に加え、さらに男の足もとから現れた別の獣によって一瞬で噛み殺されていく。


「さながら、怨獣使い、といったところかな?」


 夜の闇の中、周囲に響くのは、肉を裂き、骨を噛み砕く音。

 誰もが一瞬にして絶命したせいか、悲鳴が上がることは一切なかった。

 男は不気味な音など気にもせず、幾つかのガラス片を片手で軽く投げては受け止めるを繰り返しながら、ぴったりと閉じられた鉄の扉の前に立つ。

 そこで、漸く獣に食われる警備員達を振り返って見た。


「欠片に詰まった感情は一つだけ。その分、思いも強い。お前等のような感情だらけの奴に負けるものか」


 感情を有する人間は、複数の思いを持つが故に動きに鈍さが出ることがある。

 例えば、最初に近づいた警備員。彼は男の出現に対する驚きと不安、正体の分からないものに対する緊張と困惑、恐怖から動きが鈍っていた。

 確認もせずに排除のための攻撃をするのは問題だろう。

 しかし、それによって自分の命を落とすことになった。

 一方、男が出した黒い獣……欠片を埋め込んだ怨獣は、他者への憎悪しかないため、攻撃をすることしか考えていない。故に、相手が何であっても躊躇わずに食らいつくのだ。

 警備員が従えていた基獣も消えた今、男を止めるものは何もない。

 男が欠片を持った手で扉に軽く触れた瞬間、重厚な鉄の扉は触れた箇所から黒く変色し、やがて人一人が余裕で通れるほどの穴を開けた。


「……ふむ。さすがに、この扉は怨獣化できるほど柔ではないか」


 手の中で砕けた欠片を払い、男は奥へと進んで行く。その脇を黒い獣が駆け抜け、侵入を阻むためにやって来た警備員を噛み殺した。

 施設の構造は頭に入っている。相応の場所にいたおかげで。

 中には入らず、脇を通って裏手にあるグラウンドに出る。

 そこには、同じ服を着た数十人の男女が集まっていた。男の襲撃を受け、避難しているようだ。

 彼らを守るように警備員が立ちはだかっているが、男にとっては何の障害にも感じない。

 むしろ、好都合だ。


「やれ。できるだけ、殺さないように」


 指示を受け、傍らに控えていた輪郭の不明瞭な黒い獣達が一斉に地を蹴る。

 向かってきた基獣の急所に噛みつき、振り飛ばした後、基主に食らいついた。

 だが、先ほどまでのように一撃で殺すようなことはせず、あるものは腕や足を食い千切り、あるものは腹に噛みついてから肩も噛んだりと嬲っている。

 凄惨な光景と断末魔の叫びに、この施設で『あるプログラム』を受けている男女の顔色が恐怖に染まっていった。


「そうそう。それでいい。まだここにいるということは、更正プログラムは終わっていないんだろう? なら、もう一度、派手に暴れに行こうか」


 この場にいる男女は、怨獣化した基獣の基主達だ。

 浄化によって怨獣化は解かれている。だが、同じことが起こらないよう、基主達の心のケアをするためにこの施設でしばらく過ごすのが決まりだ。

 片手を差し出した男だったが、恐怖と嫌悪で一杯の基主達がすぐに答えることはない。

 ただ一人を除いて。


「ふざけないで!」


 少女の怒りに満ちた声が上がった直後、ぶわり、と薄紫色の鱗粉が辺りを包んだ。

 見れば、一人の少女が基主達の前に出ていた。頭上には巨大な黒い蝶がいる。

 鱗粉に触れた黒い獣の動きが鈍った。何かに抗うように頭を振ったり、地面に倒れたりしている。


「へぇ。なかなかの使い手だね。けど……」

「っ!」


 施設の屋上から、黒い影が飛来して蝶に飛び掛かった。

 輪郭はやはりはっきりしていないが、鳥のようなものであることは分かる。

 空中でもみ合っていたものの、力で押し負けた蝶が少女の目の前に叩きつけられた。

 同時に、基主である少女にも痛みが走り、その場にしゃがんだ。


「っ、ううっ……」

「苦しいだろう? 怖いだろう?」


 男が少女に問い掛けながら、彼女の基獣に歩み寄る。

 そして、基獣の傍らに片膝をつくと、ポケットから取り出した赤い欠片を近づけた。


「けど、これを取り込めばそれもなくなる。最初は気分が悪いかもしれないが、なに、すぐに慣れるさ」

「そ、れ……」


 欠片を見た少女が、何かに気づいて驚きから目を見開く。

 その反応を見た男は、あることを思い出した。

 少女の基獣が、以前、どうして怨獣になったかを知っている。


「『伊知崎美里』」

「な、んで、私の名前……」


 少女……美里は、男の口から自身の名前が出たことにさらに驚いた。

 男とは初対面であり、何処かで見た覚えもない。

 だが、男が何故知っているかの理由は、飛来した炎の塊によって遮られた。


「あぶな……!?」


 咄嗟に基獣の顕現を解き、迫った炎の熱に腕を翳す。

 男は素早く飛び退いたため、塊に触れることはなかった。続けて放たれた炎の塊も避けてから、元を確認するために空を見上げる。


「早いね」


 夜空に浮かぶのは、一頭の純白のドラゴン。口の端から火の粉を零しながら、男の出方を窺っている。

 そして、その背にいるのは――


「セレン。今度こそ捕まえよう」


 普段の穏やかな雰囲気など一切纏わない庵がいた。

 庵がそう言った直後、セレンはまた口を大きく開くと、今度は火炎放射器かのように炎を吐き出す。

 炎が男を囲い、逃げ場を奪った。

 着陸したセレンの背から降り、美里を見た庵は声を張り上げた。


「生存者を中に!」

「は、はい!」


 グラウンドは一部が凄惨な状態だというのに、庵の顔色は少しも変わらない。遺体を目にしてもだ。

 しかし、今の美里に気にする余裕はなく、慌てて周りの人達に呼びかけて施設の中へと移動する。

 中には恐怖で堕ちそうになっていた基主もいたが、美里が再び顕現した基獣の力で幻覚を見せ、室内へと導いた。

 その様子を見ていた庵は、手を貸す必要はないと判断すると男へと目を向ける。


「まったく。あの緩い感じの治安部隊の副隊長さんといい、お前といい、丸腰相手に慎重すぎないか?」

「…………」


 男の言葉に耳を貸す必要はない。

 ただ、どう対処をするかだけを考える。

 大人しく炎に囲まれている男だが、これですんなりといくはずがない。


「もっと他に気をつけないと、足もとを掬われるぞ? 例えば……そう。小さい『リス』とか」

「……?」


 思考が足首の違和感で停止する。

 何かと見れば、一匹のリスがいた。さらに、ズボンの足首の辺りや靴に血が滲んでいる。

 リスは庵と目が合うと何処かへと駆けて行った。

 その姿を追えば、グラウンドの片隅に佇む珠妃を見つけた。

 戻ってきたリスを肩に乗せた珠妃は、口にしていた棒付きの飴を離して言う。


「へぇ。『感情の一部を取られている』っていう噂、本当だったんだ」


 ズボンのせいで傷は見えにくいが、溢れる血から察するに傷口は相応に大きいはず。普通の人であれば、痛みに悶えるほどに。

 けれど、庵は痛みに顔を歪めることなく淡々と返した。


「確認する必要はないはずだけどね。それは、だから」



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