第2話 ばら撒かれる混沌


 それは、有栖がパンドラの匣のリーダーと出会う、およそ一時間程前のことだった。


 学校が終わり、町中のゲームセンターで遊んでいた学生の数人が、帰宅するために施設から出てきた。

 遊んでいた余韻か、互いにふざけあいながら歩く姿はよくある光景だ。

 周りの通行人達もさして気にすることなく、唯一、通行の邪魔になったときだけ迷惑そうな顔をしながら通り過ぎていく。

 すると、一人の学生があることを思い出して嫌そうに顔を歪めた。


「あー、そうだ。今日、帰ったら課題しねーと」

「めんどくさいよなー。別になくてもよくね?」


 先程までは、ゲームに興じることで現実から目を背けられていた。だが、それもいつまでもは続かない。

 彼らに待ち受けるのは学生としての本分だ。

 嫌だという気持ちは共通のせいか、学生達の間での話題はゲームから学校生活での不満に変わっていく。

 また、彼らが通り過ぎたファミリーレストランでは、客が店員に何か文句を言っている。周囲の客は何事かとちらちらと視線を送ったり、逆に、迷惑そうに顔を背ける客もいた。

 さらに、すれ違った女性は泣いており、肩を支える友人に「私の何がいけなかったんだろう……」とぼやいている。支える友人は何とか励まそうと「あんな奴、すぐ忘れちゃいなよ!」と言っていた。

 男は、悠然と町を歩きながら鼻歌を零した。ポケットに手を入れ、指先に当たった固い感触に口角を上げる。

 一見、平穏な日常の中にも、多種多様な負の感情は蠢いている。

 その場に『これ』を投じれば、辺りは忽ち混乱の渦に取り込まれるだろう。想像しただけで、腹の奥から感情の昂りが込み上げて疼いた。

 そのとき、ちょうど前から歩いてきた青年と肩がぶつかった。


「ってぇな! おい、おっさん! どこ見てんだ!」

「ちょっとぶつかっただけだろう? そんなに怒らなくてもいいじゃないか」

「はぁ!? ぶつかっておいて謝罪もなしかよ!」


 さほど強く当たったわけではないのだが、青年は虫の居所が悪かったのか、胸倉を掴まんばかりの勢いだ。

 男は被害を受けないよう自然と少し距離を開けたものの、言葉は相手を逆撫でするものだった。

 通行人も何事かと視線を向ける者が多く、それを一瞥した男はまたにやりと笑う。


「気持ち悪ぃな。何笑ってんだよ」

「君の基獣は、どんな姿になるんだろうね?」

「はぁ?」


 今度は青年が数歩引いた。身の危険を感じて。

 だが、男は気にした様子もなく、ポケットに入れていた手を出すと『何か』を空中に高く放り投げた。


「この国に巣食う化け物を、俺に見せてくれ」


 青年は反射的に男が投げた物を目で追う。

 西に傾いた太陽の光を受けて輝いたそれは、小さなガラスの欠片のようだった。

 しかし、欠片は落下することなく、空中で粉々に砕け散る。

 キラキラと輝く砂が降り注ぐのを、青年だけでなく、通行人も呆然と見上げていた。


「さぁ、『箱』はまだ開いているぞ」


 砂は周囲の人達に触れた瞬間、皮膚に溶け込んでいく。

 すると、次々と人が地面に崩れ落ち、頭や肩を抱えて苦しみはじめた。

 基獣が基主の危険を察知して顕現したが、主も理解していないことのためか狼狽えるばかりだ。

 やがて、基獣も苦しみだし、じわじわと黒い影に包まれて姿形を変えていく。

 突然の怨獣化に倒れていなかった人々は逃げ惑い、悲鳴や怒号が辺りに木霊した。

 怨獣へと堕ちた基獣の主達はゆらりと立ち上がると、我を失っているのか逃げる人に襲いかかっている。

 さらに、怨獣が暴れることによって周辺の建物や道路なども被害を受け、一瞬にして町は混乱の渦に飲み込まれた。

 あっさりと崩れ去った平穏を、男は鼻で嘲笑う。


「本当の混沌は、これからだ」


 恐怖はまた別の恐怖を生む。町に溢れかえった怨獣の影響で、九十九や基獣も感化されるものが出てくるだろう。

 あとは安全な場所から眺めていればいいだけだ。

 男は立ち去ろうと身を翻したが、新たな声が喧噪を打ち消すようにはっきりと聞こえた。


「鬼さん、見ーつっけた」


 リズムをつけてはいるものの、やや気怠さを孕んだ声だ。

 直後、迫った強い響命力に振り向けば、眼前に白い獣が口を大きく開けて飛びかかってきていた。


「っ!?」


 咄嗟に身を屈め、横へと転がるように跳んで避ける。

 だが、獣が伸ばした爪に僅かに掠めたのか、頬に小さな痛みが走った。


「最悪。俺が巡回のときに出てきやがって」


 獣の主……治安部隊副隊長の凪は、店側へと転がった男を見て心底嫌そうに吐き捨てる。

 そんな凪の隣に戻った白い獣の正体は、巨大なユキヒョウだった。上の犬歯が口の端から覗くほどに長く、どっしりとした前足は爪だけでなく打撃の威力も高そうだ。

 男は親指で頬を拭うと、口元に浮かべた笑みを消すことなく立ち上がった。


「危ないなぁ。こっちは丸腰なんだがね?」

「はぁ? 物騒な欠片ばら撒く奴が丸腰ぃ? 冗談はお縄についてからにしてくれ」


 凪は周囲の怨獣を基獣に任せ、ジャケットの内ポケットから手錠を取り出しながら男に歩み寄った。ゆっくりと、男の様子を窺いながら。

 本人も言ったように、男は丸腰に見えるが、凪は彼が欠片を放り投げたのを目にしている。

 その欠片が怨獣の原因であることは明白のため、下手に投げられないよう気をつけなければならない。また、いくら基獣が相手をしているからとはいえ、いつ別の所から怨獣が襲いかかってくるか分からない以上、周囲にも気を配る必要がある。

 最も、治安部隊の巡回は凪一人ではなく数人で動いていたため、少し離れた場所では仲間が怨獣の討伐に当たっているところだ。事態の収束も早いだろう。


(さすが、治安部隊の副隊長か。雑そうに見えて、仕事は早いと有名だ。ただ――)


 男は内心で凪を褒めつつ、次にどう動くべきかと考えていた。

 そのとき、凪の基獣に弾き飛ばされた怨獣が近くのウィンドウに叩きつけられ、激しい音を立ててガラスが割れた。

 怨獣諸共店内に転がり、飾られていたマネキンや服が怨獣に覆い被さっている。

 音に反応した凪は自身基獣がやらかしたことだと分かるなり、眉間に皺を寄せた。


「あ、やば。やり過ぎたか。雪影ゆきかげ、外に出せ!」


 ただでさえ、建物への被害が大きいのだ。これ以上、増やすわけにはいかない。

 ユキヒョウ……雪影は、凪の声を聞くとすぐに怨獣の端に食らいつき、外に引きずり出す。一緒にマネキンや服まで付いてきたが、いずれにせよ使い物にはならないだろう。

 あとで怒られるだろうな、と始末書を覚悟しながら男へと視線を戻した凪だったが、すぐに別の後悔が生まれた。

 目の前の男が、新しい欠片を外に転がっていたマネキンに向かって投げたからだ。


「しまっ……!」


 しかし、欠片に直接触れるわけにはいかない。まして、基獣で止めるなど、自ら怨獣になりにいくようなものだ。

 遮るもののない欠片はマネキンに当たると、そのまま溶け込んでいってしまった。

 次の瞬間、マネキンの周りを黒い靄が包み、自分では動くことのないマネキンが小刻みに震えだした。

 軋む音を立てながら立ち上がったマネキンは、普段、動くことがない分不気味だ。


「ちっ。ホラーかよ」

「いやぁ、君もまだ若いね。ほんの小さな油断が大きなミスを招く。よーく肝に刻んでおくといい」

「……ご忠告どうも。けどな――」


 年上としてのアドバイスに軽く返し、マネキンの近くにいる雪影を見やる。

 牙を剥いて唸り、いつでも攻撃に移れる態勢だ。体の周囲には粉雪が舞っている。

 また男へと視線を戻して言葉を続けたのと、雪影が動いたのは同時だった。


「こんなの、大きなミスじゃねーんだわ」


 雪影が前足で地面を強く叩く。地面と接した足の下から青い光が発して雪が舞い上がり、雪影を包み込む。

 そして、雪影がマネキンに向かって大きく吠えると、雪影を包んでいた雪がマネキンに強く吹きつけた。

 マネキンは瞬く間に雪に包まれ、端から徐々に凍りついていく。口がないために悲鳴こそないものの、もがく様は見ていて気持ちのいいものではない。

 やがて、マネキンの全身が凍りつくと、雪影がどっしりした前足で踏みつけた。

 踏んだのは一ヶ所だけだったが、マネキンは飴細工だったかのように粉々に砕け、風に吹かれて消えていく。


「風化か……」

「こんなのでも、治安部隊の副隊長任されてんだ。隊に泥を塗るような真似はしねーよ」

「なるほど。怨獣など恐るるに足りない、ということか。……なら、これはどうかな?」

「ああ?」


 男が少し腕を上げて上空を指す。

 だが、罠の可能性もあるため、凪は上を向かずに雪影に見てもらう。視覚共有をすれば自ずと視えるからだ。

 脳裏に映ったのは、空から落ちてくる無数の黒い影。


「なんだ?」

「君は確か、一級だったね」

「それがどうした」


 姿を消そうとする夕陽に照らされているものの、その正体は把握できない。

 男は、怪訝に顔を顰める凪にのんびりとした口調で確認を取る。疑問系でなかったのは、間違いないと確信していた部分もあるからだ。


「強大な恐怖を前に、君の隊への忠誠心がどこまで保つのか、見させてもらおう」


 そう言った直後、男の姿は黒い煙に包まれた。

 雪影が捕らえようと地を蹴ったが、その進行を阻んだのは空から降ってきた黒い影だ。

 一体、また一体と、凪と雪影を囲うように次々と着地する。衝撃で地面が抉れ、礫が周囲に飛び散った。


「おいおい。俺の忠誠心試してどうすんだよ」

「グルルル……」


 雪影は頭を下げ、いつでも飛びかかれる態勢に入る。囲まれている以上、どこから来るか予想がつかないからだ。

 ゆっくりと立ち上がった『それ』らは、今までも目撃情報や出現が確認された、黒いローブを纏う人形だった。



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