第12話 パンドラの箱
その研究を始めたのは、基獣を持たない、一人の男だった。
彼は基獣こそ具現化できなかったものの、優れた頭脳を持っており、若くして様々な研究の成果を上げていた。
そんな彼が目につけたのは、問題視されていた基獣の怨獣化についてだ。
基獣がどうして怨獣へと堕ちるのか、理由は分かっていたものの、それを未然に防ぐ方法や『浄化』以外の治療法は見つかっていなかった。
「基獣は怒りや悲しみなどの、所謂、『負の感情』によって怨獣化するならば、人の感情をコントロールできれば減るんじゃないのか?」
「そうかもしれないけど、実際、人の感情をコントロールするなんて不可能な話だろう? そんな、薬飲んだら安定しましたーみたいなことにはならないだろ」
「薬か……。形としてはいいかもしれない」
目的とする形が見えたのか、彼はまず、様々な人間を集め、感情による脳波の変化や響命力への影響を調べた。
結果、感情の波の大きさは響命力と比例し、基獣へと直接流れ込むと分かった。
ならば、あとは感情を強く込めた響命力を形に出来ればいい。
幸い、響命力が籠った結晶の発見はされていたため、それに感情が移行もしくは複製できれば重畳。
そして、実験を繰り返す内、それは突然完成した。
怒りで叫ぶ男が椅子に縛られている。頭には無数のコードがテープで貼られており、コードの先は傍らのテーブルに置かれたガラスケースに繋がっていた。
ガラスケースの中には、淡く輝きを放つ無色の結晶がある。成人男性の拳大程の大きさだ。
光は徐々に強さを増していき、それに伴って男からも怒りの色が消えていく。
そして、溢れていた光が結晶に吸収されると、結晶は深紅に染まり、縛られていた人も平静を取り戻している。
急いで研究員の一人が結晶の響命力を調べれば、波長は怒りに満ちていた男の感情の波と一致していた。
「で、できた……」
「やった! 完成したぞ……!」
「よし、すぐに別パターンも採取だ!」
一つの成功例が出来れば、あとは応用だ。
別の結晶には違う感情を吸収させ、波長を調べる。色はそれぞれ異なったが、どれも特定の感情と一致する波長を放っていた。
だが、研究は終わらなかった。
あくまでも結晶化は第一段階。
研究員達が己のしていることの恐ろしさに気づくには、まだ早かった。
「――第二段階では、結晶を使用した際にどういう反応を示すか。これは、結晶に収まった感情が強く現れ、失神する者が現れたから、そこで結晶を砕いて影響力を小さくした」
影響が小さいことで、すぐに反対の結晶を当てれば中和されて元に戻るのだ。
庵の説明を聞いていた有栖は、拭えない違和感を抱えたまま、けれどそれを言うのは今ではないと堪えた。
「でも、今度はその実験の最中に別の問題が起こった」
「問題?」
「実験の対象者は限られているからね。しかも、結晶は消耗品。一人から何度も感情を結晶に反映させるたびに、その人からは感情が薄れていったんだ」
感情は一時的なもので、外部的な要因で出るのではないのか。
これでは響命力を宿す結晶に感情を吸い込まれているのと同じだ、と異論を唱える者も現れ始めた。
危険視した一部の研究員はこの時点で研究から手を引いたものの、まだ実験は終わらなかった。
「そして、それから視点を変えた実験では、敢えて結晶に負の感情を吸い込ませ、それらを消した人間の生活がどうなるかというものだった」
「怨獣を生み出さないようにするために、原因を取り除いたということですか」
「そう。怒りや悲しみ、憎しみ……そういったものを結晶に吸収させて、すべて取り去った人間を集めて生活をさせたんだ」
日本の誰にも知られていない森の奥に、その施設はひっそりと佇んでいた。
そこでは研究員達による二十四時間体制の監視の下、およそ一年間の実験が行われたのだ。
「それ、どうなったんですか……?」
「平和だったようだよ。不気味なくらいにね」
「不気味……」
「例えば、誰かと肩がぶつかったとするよ。そのとき、雪ちゃんはどうする?」
「謝ります、ね」
真っ先に思い浮かぶのは、相手に謝罪する自分の姿だ。
例えわざとでなかったとしても、謝らなければ相手に不快感を残し、トラブルを招くこともある。
過半数であろう有栖の答えに庵も頷いた。
「大半はそうだろうね。他にも、怒ったりとか。けれど、彼らはそもそも怒りや謝罪といった感情がない。だから、肩がぶつかっても何も感じないんだ」
「…………」
何事もなかったかのように、一瞬、お互いを見はするが平然と去っていく。
その後、当人達に話を聞いても「そんなこともありましたね」程度の出来事になっていた。
「あと、罵倒されてもどう反応すればいいか分からない。傷つけられても痛みが分からないから、ただ傷口だけが疼いていたり、苦しさが分からないから何処までも動き続ける。それから――」
「す、すみません……。もう、大丈夫、です……」
到底、普通の人とはかけ離れた様子に、想像しただけでゾッとした。庵の「不気味」だと言う言葉にも納得だ。
顔色の悪い有栖を見て、庵は一瞬だけ悲しげな顔をしたものの、すぐに困ったように笑みを浮かべた。
「……ごめんね。怖がらせるつもりはなかったんだけど」
「いえ……私の方こそ、ごめんなさい。全部、聞けなくて……」
本来であれば、研究の結果はすべて聞いておいたほうがいいのだろう。庵が知っているように。
そんな研究があったとは知らなかったとはいえ、有栖にはこれ以上聞ける勇気はなかった。
「それが普通だろうね。現に、実験はその異様さに気づいた、黙認していた一部の政府から中止の勧告が届いた。結果、組織は解体となったんだ」
「政府が黙認していたんですか? こんな臨床試験、普通は認められないはずじゃ……」
有栖が抱えていた違和感は、臨床試験が行われていたからだ。
基本的に臨床試験は、被験者に十分な説明をした上での自由意思によって行われるものだが、庵が言う研究は倫理的に許されていいものなのか。
「大人は狡いよね。自分達の利己的な判断で、黒を白にもできる。けれど、それが実害しかもたらさないと分かるなり、簡単に切り捨てるんだ」
「…………」
「今、怨獣のそばに落ちている欠片は、組織が解体されたとき、最後まで反対していた当時の研究長が持ち出した物が大半だ。まぁ、何か別の方法を見つけたのか、足りなくなったら補充しているみたいだけれど」
研究長は結晶だけでなく、データや資料までも持ち逃げしていた。気づいたときには手遅れで、今も行方は分かっていない。
有栖は改めて欠片を見る。
小さなガラス片だが、それが及ぼす影響はかなり大きい。だからこそ、庵は欠片を直接触らないようにしているのだ。
「今、僕と透真は被害の拡大を防ぐためにも、彼を追っているんだ」
「榊先輩も?」
「うん。彼に隠し事はできないからね」
苦笑する庵は、本来であれば透真を巻き込みたくはなかったのだろう。
また、行方不明の研究長を探しているのは二人だけではない。治安部隊も動いている。
「多方面から調査をして分かったのが、その研究長が同志を募って一つの……『パンドラの箱』という組織を作り上げたらしい」
「パンドラの箱……」
「治安部隊が追跡していた組織の一員が、『“希望”を掴むのはパンドラの箱だ』と言って自害したらしくてね。そこで発覚したんだよ」
それは、相手が初めから画策していた宣戦布告だったのか、組織の一員が勝手に発言した落ち度かは分からない。
何にせよ、ただ事では済まない事態になったのだと、庵達からすれば大きな一撃ではあった。
だが、組織の存在は分かったとしても、“希望”とは何のことなのか。
「あの、その人の言う“希望”って、何のことなんですか?」
「それについては、まだ確かではないから話すのは難しいんだけど、この国を守ることも壊すこともできるものかな」
「守ることも、壊すことも……」
「邪魔するぞ」
片手を口元に当てて考える有栖だったが、思考は控えめにされたノックによって遮られた。
直後に開けられた扉から現れたのは、片付けをしていたはずの透真だ。
「庵。治安部隊の人が、状況報告をしてほしいんだと」
「はぁ……。皆、邪魔するのが好きだね」
状況報告なら教師でもできるだろうが、あの場にいた生徒の一人としての話も聞きたいようだ。また、庵は治安部隊とも関わりがあるため、その面での話もあるのだろう。
溜め息を吐いた庵に、透真は有栖を一瞥してから呆れたように言った。
「そんな雰囲気でもないだろ」
「あはは。盗み聞きなんて流石だね」
「あ?」
「それじゃあ、僕は行くよ」
僅かに滲んだ透真の苛立ちを無視して、庵は保健室を出て行った。
一人になった部屋で、有栖は先ほどの話を脳内で繰り返す。
「……私にできることって、何だろう……」
特等位の基獣がいるとはいえ、扱いはまだまだ未熟だ。それでも、聞いた以上は傍観できるはずもない。
「まずは、ふたりとうまく動けるようにしないと」
小さく挙げた両手を握りしめて言えば、白銀と緋月が応えるように胸の奥が温かくなった。
◇ ◆ ◇ ◆
保健室を出て歩いていた透真は、少し先を歩いていた庵の横に並んで、先ほどは言わなかったことを伝えた。
「今回は隊長も来てるぞ」
「
「人形を見つけたんだって?」
「……ああ。そうだよ」
有栖の前に現れた人形の怨獣。その出現は、今回が初めてではなかった。
また、人形が現れたとき、必ず近くに目撃される人物がいる。有栖や庵は対面こそしなかったものの、それが今回も見つかった。
「結界の修繕に出ていた先生の一人が、不審な男を見たって言ってた。多分、そいつが箱のリーダーだろうな」
「部下がいるんだから、直接来なくてもいいのに……」
屋上にいた珠妃を思い浮かべながら言えば、透真の雰囲気が僅かに剣呑なものに変わった。
以前から彼女の動向は気にしていたが、確たる証拠がなかったため断定することができなかったのだ。今も証拠を掴んだわけではないが、組織の動きから見ても時間の問題だろう。
「あの子に接触したみたいだけど、大丈夫そうか?」
「うん。僕もいたからね。それに、研究の危険性については話したから、傾くことはないと思うよ」
「先に会われて、同情でもされちゃ堪ったもんじゃないしな」
いくら人の感情を利用しているとはいえ、今の彼らの目的は「基獣の有無や位によって変わる扱いの不平等さをなくすこと」だ。場合によってはそちらに荷担する者も現れる。
有栖に彼らの目的を話さなかったのは、元々、基獣がいなかった彼女にとって、彼らの想いは痛いほど分かるだろうからだ。
「まぁ、最終的にどうするかは彼女次第なんだけどね」
「どっちだよ」
「“希望”は人によって変わる」
有栖には名言をしなかったそれ。
しかし、庵には何のことなのかは目星がついている。
庵はそれを脳裏に思い浮かべつつ、決してパンドラの箱に渡すまいと再度強く誓った。
「僕らの“希望”は再起だけど、彼らの“希望”は再誕だからね」
二つの言葉は似ているようで違う。現状あるものを壊さずに元ある形へ戻すか、一度壊して新たに生まれ変わらせるか。
透真は足を止めて保健室を振り返ると、結局は巻き込む形になることに小さく溜め息を吐いた。
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