第10話 掴めない尻尾
グラウンドの方から澄んだ響命力が溢れ、それまで辺りを満たしていた澱んだ空気を一掃していく。
南館の屋上にいた庵は直接見ずとも変化を肌で感じ取っており、目の前の女子生徒に聞こえないよう小さく安堵の息を吐いた。
とはいえ、彼女――珠妃は庵の方には向かずフェンス越しにグラウンドを見たままであり、果たして庵がいることに気づいているのかさえ不明だが。
グラウンドでの騒動を一部始終見ていた珠妃は、感情を特に露にすることなく、口の中で転がしていた飴玉を噛み砕いてから漸く口を開いた。
「こんな所に来てていいの? “生徒会長サマ”」
「他の役員は対応に追われていますし、そっくりそのままお返ししますよ。“元副会長”」
珠妃の呼び方には若干の嫌みが含まれているが、庵はさして気にもせず、腹の底が見えぬ笑顔のまま返す。
珠妃はやはり視線を動かさない。
そこで、庵のポケットの中でスマホが振動し着信を告げる。
今はあまり珠妃から意識を逸らしたくないのだが……、と思いつつ電話に出れば、相手はグラウンドにいるであろう透真だった。
《俺だけど、小太郎に『例の物』を持って行かせたから、あとは任せた》
「了解。ありがとう」
手短に答え、透真からの言葉は待たずに切る。あとで文句を言われるかもしれないと思いながら。
ただ、『例の物』を回収できたなら文句も聞いてもいいだろうと考えを改め、向かってくる小太郎が分かるよう潜めていた響命力を僅かに滲ませる。
すると、早くも力を拾ってくれたのか、昇降口から小太郎が現れた。
くわえていたハンカチを受け取り、中身を落とさないようにゆっくり開く。
中から出てきた『例の物』――水色のガラス片は、役目を果たしたからか黒ずんでいた。
小太郎はポンッと小気味良い音を立てて姿を消した。基主である透真のもとに帰ったのだろう。
ハンカチ越しに欠片を摘まみながら、先ほど微かに聞こえた破砕音を思い出した。
「先輩がよく口にされている飴みたいですね」
「そんな鋭利な飴は食べたくないなぁ」
砕けたガラス片は、飴を砕いた物によく似ている。飴の近くにあれば見間違えそうだ。
しかし、飴と違って溶けないガラスを口にすれば当然ながら怪我をする。
ぼんやりと答えた珠妃に、庵はわざとらしくおどけたように言った。
「そうなんですか? 持ち歩いているので、てっきり大丈夫なのかと思いましたよ」
「何かの見間違いじゃないの? そんなの持ち歩くわけないでしょ」
私が持っているのは普通の飴よ、とポケットから個包装された飴を取り出して見せた。
庵は一瞬だけ表情を消し去ったものの、すぐに元の真意が読み取れない笑みを浮かべて言った。
「それはすみません。書類ばかり見ていて視力が落ちたのかもしれませんね」
「眼鏡買ったほうがいいんじゃない?」
「……似合うと思います?」
正直なところまだ視力の低下はさほど感じないのだが、ふと過った一人の少女の反応が気になった。周りも騒ぎそうだが。
それを見透かしたのか、珠妃は何処か呆れたように息を軽く吐いて言う。
「さぁ? 大事な子に判断してもらいなさいよ」
「彼女は曖昧な返事しかしてくれなさそうなので」
(美里と言い、他の女の子と言い、なんでこんなの好きになったんだろう……)
どれほど想いを寄せたところで、彼が目をかけている異性はたった一人だけであり叶うことはない。
最も、彼が例の少女に執着を見せるのは果たして恋心によるものか、それとも少女が自分と同じ特等位であると早くから見抜き、親近感を抱いたからなのかは分からないが。
珠妃はこっそりと、今は学校にはいない元友人にほんの僅かな同情をしつつ、再び小さく息を吐く。
どうせ好きになるのなら、分かりやすい隼人や透真のほうが一緒にいて楽そうだが、やはり外見、育ち、位、どれを取っても秀でているからか。
(想いが通じたとしても、釣り合い取れなきゃ後がしんどいだけじゃん)
恋人になったとして、その後を考えれば気が滅入る。
特に、庵の家は国内でも指折りの名家だ。礼儀作法やしきたりなども厳しいと噂で聞く。
恋は盲目、とはよく言ったものだ。
そんな珠妃の心情を知ってか知らずか、庵は欠片をハンカチに包み直しながら話を元に戻した。
「この欠片は僕が持っておきます。前回のは、何処かから入り込んだネズミが持ち出したようなので。では」
まだ何か話をするかと思いきや、庵は用は済んだと言わんばかりに颯爽と立ち去った。
庵の姿が昇降口の奥に消えたところで、漸く珠妃は大きく息を吸って吐いた。
今まで……正確には、透真からの電話が入って以降、庵は珠妃を逃がすまいと響命力で圧してきていたのだ。
呼吸がしづらく、溜め息すらまともに吐けず、小さく溢すのがやっとだった。
「はぁ……。まるで、見えない網に掛かったみたい」
もがけばもがくほど絡まり、首を絞めていく。
だからこそ、不用意に口を開くことはしなかったのだが。
口の中で砕いた飴は殆ど残っていない。舌をつつくのは小さくなった飴の欠片だ。
――先輩がよく口にされている飴みたいですね。
庵の言葉が脳内で反芻する。
彼はあの欠片が誰による物かを分かっていて、けれど確たる証拠がないからか断定はしない。それとも、泳がせておいて黒幕を引きずり出そうとしているのか。
煩わしそうに、また、込み上げる苛立ちを消すように飴の欠片を噛み砕き、ポケットに手を突っ込んで指先に当たった棒を摘まんで取り出す。
棒の先についた丸い飴玉の包装を剥いで口に入れたのと、新たな声が掛けられたのはほぼ同時だった。
「また邪魔をされたか」
声の主は昇降口の裏から現れた。入口とは反対側にいたその人は、二十代前半の青年だ。
男性にしては長めの黒髪が風に吹かれて揺れ、前髪で存在を薄めていたサングラスが露になる。
夏に近づいてきた今でも黒いジャケットを羽織った彼だが、暑さを感じていないのか脱ぐ素振りも見せず珠妃に歩み寄った。
珠妃は内心で彼が出てきたことに驚きつつ、小さく頭を下げた。
「申し訳ありません。今回も――」
「いや、いい。面白いものは見られた」
そう言って、珠妃の隣でグラウンドを見渡した青年は口元に笑みを浮かべた。
グラウンドでは教師や生徒会役員が事態の収束のために動いている。じきに治安部隊も到着するだろう。
しかし、青年の目に映っているのは忙しなく動く彼らではない。
辺りを一瞬にして清めた強大な力。
神々しいまでの光を放って現れた純白の一角獣。
怨獣に近しい存在を焼き払った、炎を纏う大鳥。
そして、それらを顕現した一人の少女。
「特等位の複基獣……それも、能力の引き出しも可能とはな。いっそ、うちに勧誘するか?」
「……お言葉ですが、強すぎる力を持てば身を滅ぼしかねません。まして、彼女は――」
「ははっ! 冗談だ」
表情こそ揺らぎはないものの、止めようとする珠妃には珍しく焦燥の色が見えた。
青年は心底可笑しげに笑い、口を閉ざして不満げな視線を寄越す珠妃を一瞥すると、ポケットから漆黒の欠片を取り出す。
目を凝らせば煤のような物が滲み出るそれを強く握り締めた。
「ただ、あの御曹司から『
グラウンドに漸く庵が姿を見せた。
透真に肩を小突かれ、軽く笑って宥めている。
余裕ある態度をいつも崩さない彼を、自身の前に膝をつかせるのに良い餌ができた。
彼の唯一の失敗はそれだろう。
手の中で欠片が砕けた。
だが、破片は肌を傷つけることなく、指の隙間から煤のような気体へと変わって零れ、風に流されていく。
「残された“希望”を掴むのは、俺達『パンドラの箱』だ」
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