第7話 人形
いつもなら然して気にしない階段が、今はとても煩わしい。たった一階分の距離が、いつもより長く感じる。
教室を飛び出した有栖は、迷うことなくグラウンドに向かっていた。
足が縺れそうになりつつも階段を駆け下り、グラウンドに繋がる出入り口を視界に収める。
ドアが開かれたままの出入り口に差し掛かろうとしたとき、上から二つの黒い影が降ってきた。
「っ!?」
突然のことに悲鳴すら出なかった。
目の前に現れたのは、全身を黒い布で覆い隠した二人組だ。前が見えているのかと聞きたくなるほどに深く被ったフードのせいで、性別を判別するのも難しい。
有栖よりも頭二つ分ほど大きなその者達は、黒い手袋を嵌めた片手を有栖に向かって上げる。ゆったりとした広さのある袖のせいで分かりにくかったが、上げたことで出た腕の線は簡単に折れそうなほどとても細かった。
嫌な感覚がした有栖は、踵を返して反対のドアから中庭へと出た。遠回りにはなるが、校舎に沿って走ればグラウンドに出られる。
後ろを見れば、フードの二人組はまだ追ってきていた。まるで地上を滑っているかのようにするすると走る姿は異様だ。
(あれは人間……? にしては動きがおかしい気が……)
走りながら追っ手の正体を考える。
細い腕。見えないフードの奥。聞こえない足音。
どれも普通の人間ではあり得ないものばかりだ。しかし、人間でないとすれば何なのか。
だが、その思考は前方で沸き起こった黒い影と、中心から盛り上がって出てきた獣の影によって遮られた。
輪郭が不鮮明な獣は、辛うじて四足歩行ということが分かる程度。犬なのか虎なのか、それとも別の動物なのかは見分けがつかない。
前後を塞がれ逃げる手段を失った有栖は、ぐっと奥歯を噛み締めて腹を括った。脳裏を火の粉が赤い羽と共に舞う。まるで、呼んでくれと言っているかのように。
「っ、緋月!」
有栖の前で炎の球体が発生し、地面と垂直に円盤状に形を変える。中心から炎が盛り上がり、炎を纏う一羽の大鳥が飛び出した。
一度飛翔した炎の鳥は、上空で翼を大きく広げる。纏っていた炎が弾け、火の粉となって降り注ぐ。
火の粉は有栖にかかることはなく、布で全身を隠す二人組と黒い獣だけにダメージを与えた。火が燃え移った箇所はじわじわと布を燃やしていく。
だが、二人組は気にした様子もなく、腕を高く掲げると勢いよく振り下ろした。
直後、燃え広がっていた炎がかき消され、地を蹴った黒い獣が緋月に食らいつく。
ずきん、と左肩と右腿に痛みが走った。
「いっ……。空に逃げて!」
「――ッ!」
痛みを堪えて指示を出すも、言葉にならない緋月の甲高い悲鳴が辺りに木霊する。黒い獣を振り落とそうと、緋月は暴れながら高く飛ぶ。
校舎から誰か出てきてもおかしくはないが、グラウンドにいる怨獣に集中しているのか姿は見えない。ただ、恭夜達が来ないのは不思議だったが。
(たしか、恭夜は追ってきたような……)
すぐ後ろから有栖を呼び止めようとする声は聞いた。
だが、彼の姿は一向に現れない。
何か障害でもあったのか、と思いながら校舎を一瞥した有栖の背後に、空から大きな塊が落ちてきた。
一瞬、緋月に振り落とされた獣かと思ったが、ゆっくりと振り返ると、そこには地面に横たわる緋月の姿があった。
「嘘……。緋月!」
「クゥゥゥ……」
力なく鳴いた緋月の傍らに膝をつき、食らいつかれていた箇所を確認する。
赤い羽根で分かりにくいが、翼の付け根と腿からは止めどなく血が流れていた。
道理で同じ場所が痛むはずだ、と合点がいく。基主と基獣の感覚は完全には共有はしないが、傷が深ければ深いほど痛みは大きく伝わる。
これ以上は危険だ、と有栖は緋月を解現し、こちらを窺う黒い獣とフードの二人組に向き直った。
黒い獣は有栖から視線を逸らさず、ゆっくりと歩きながら退路を塞ぐ。
(まだ慣れてない私じゃ戦うのは難しい……。けど、ここを切り抜けないと……)
白銀を呼び、一気に駆け抜けるか。だが、途中で足に食らいつかれれば終わりだ。
ならば、どうすればいいのか。
必死に頭を働かせる有栖だったが、相手が待ってくれるはずもなく、痺れを切らせた黒い獣が真っ赤なあぎとを開いて飛びかかってきた。
「っ!」
痛みを覚悟し、顔の前に腕を翳して目を固く閉ざす。
獣の唸り声が近づいたとき、上空からゴウ、と何かが降ってきた。
「ギャウウウウウ!!」
「……え?」
黒い獣の唸りが悲鳴に変わり、何事かと有栖は腕を下ろして見る。
上空から降り注ぐのは、火炎放射器から放たれたような炎の柱だ。熱さを感じないのは、その炎が普通の炎と違うことを表す。
炎に飲まれ、黒い獣の姿は跡形もなく消え去った。基主らしき二人組が解現をしたのか、それとも消されてしまったのか。
唖然とする有栖の耳に、渡り廊下の方から新たな人物の声が届いた。
「誰の許可を得て校内に侵入した上に、誰の許可を得てその子に手を出しているのかな?」
聞き覚えのある声。しかし、普段の穏やかな声音とは違って、冷たい刃のように鋭い。
二人組が振り返ると同時に体をずらしたことで見えた先には、険しい表情でこちらを見据える庵の姿があった。
怒りが滲む空気に有栖は息を飲む。彼の纏う霊力が周りのものを圧倒し、動きを制している。
庵は有栖を視界に収めると、何事もなかったかのように表情だけを和らげた。
「今回は間に合ったようで良かったよ」
一瞬、有栖は庵の言葉の意味が分からなかった。
だが、襲撃者から視線を逸らさないで言ったところを見ると、彼らを逃がさなかったという意味合いだろう。
淡々とした庵は、小さく挙げた左手を払うように下ろす。
直後、空で何かが羽ばたく音が聞こえ、庵以外の誰もが上を見ると黒い影が中庭に向かって降下してきた。
「ひゃ……!?」
大きな影――純白のドラゴンは、中庭の端から有栖達に向かってくる。
反射的にしゃがんだ有栖の頭上を、ドラゴンが一瞬で駆け抜けた。
途中、黒い獣に食らいつき、離すことなく上空へ舞い上がると、口内で炎を起こして黒い獣を燃やす。
獣が炭に変わって端から崩れ落ちていくと、黒い獣の主らしき二人組も鈍い音を立てて次々と倒れてしまった。
しかも、全身を覆っていた黒い布に出た体のラインは異様に細く、腕や足は棒ではないのかと思わせるほど。
布の端からは、黒い塵のような物がさらさらと溢れ落ちている。
庵がそれに近づいて無造作に布を掴み上げると、布に絡まっていた物が乾いた音を立てて地面に落ちた。
「人、形……?」
コンクリートの上に落ちたのは、木で作られた人形だった。関節だけがくっきりしたマネキンのような物で、頭部には黒ずんだ赤いガラスの欠片が埋め込まれている。
庵は小さく息を吐くと、まるでそれが出てくることを知っていたかのように言った。
「まったく。うまく手懐けたものだね」
「御巫先輩は、これを知っているんですか……?」
「……一応ね」
答えるべきか否か。
一瞬、思案した庵だったが、すぐに有栖の質問に答えた。
布を捨てて動かなくなった人形の首根っこを掴み、頭部のガラスの欠片を見ながら言葉を続ける。
「人形を九十九にし、人為的に怨獣化させた物だよ」
「じゃあ、さっきの黒い獣は人形の力の一部……?」
操っていたのが人形だとは知らなかったこともあるが、黒い獣が怨獣だと思っていた。
だが、獣の操り手が九十九ならば怨獣であるはずもない。
「そう。即席の人形に考える脳はないから、ちゃんとした輪郭を保っていなかったんだ」
「そんなことが出来るんですか? 九十九は長い年月を掛けて人の想いが詰まった物だからこそ、九十九として具現化するんですよね?」
「具現化については日々研究が進んでいるからね。現に、目の前で起こっているから、出来なくはないんだろう」
基獣などの研究がされていることは誰もが知っている。
だが、これといった成果が世間に公表されていないため、どの程度まで研究が進展しているのかは分からない。
庵ならば知っているのだろうか、と彼を見上げていると、庵はふいに表情を和らげた。
「基獣が具現化できたからかな? ちゃんと話してくれるようになったね」
「…………」
「……って、はぐらかされてくれる子でもないか」
無言で庵を見る有栖の瞳に揺らぎはない。
かといって、研究について彼女に教える気も今はなかった。
小さく息を吐いて、庵は口元だけで微笑んで線を引く。今までもしてきたように。けれど、今までしたよりも優しく。
「君は、まだ知らなくていいよ」
「御巫先輩?」
目の前にいるはずの庵が、酷く遠くにいるように感じた。これまでも身近に感じることはなかったが、まるで、壁があるどころか世界が違っているかのようだ。
「時が来たら、ちゃんと全部話すから」
彼は何を見ているのだろうか。何を追っているのだろうか。
次々と浮かぶ疑問を、有栖が口に出そうとしたときだった。
――グオオォォォォォォ……!!
空気が震撼するほどの咆哮が木霊する。窓ガラスが揺れ、近くの木々に潜んでいた小鳥達が一斉に空へと羽ばたく。
グラウンドから響く咆哮に、有栖ははっとして校舎の向こうにあるグラウンドに視線を向ける。
「小虎ちゃん……!」
「雪ちゃん」
駆け出した有栖を止めたのは、庵の意思に応じて目の前に降り立った純白のドラゴンだ。
先ほどまで屋上の縁にいたが、改めて近くで見るとその大きさに圧倒される。
滅多に顕現することのない庵の基獣。それが顕現しているということは、彼だけでは収集がつかないことを意味している。
「本来なら、グラウンドにいる怨獣も僕が相手をするべきなんだけど、元凶が近くにいる上に僕以外にも浄化できる人がいるなら任せたい」
「や、やってみます」
有栖が教室を飛び出したのは、元はといえば小虎を落ち着かせるためだ。
庵に改めて言われずとも向かっていたが、彼が止めたのにはある理由があった。
「基獣は自分自身だ。体の作りが違うから難しいだろうけど、『こう動く』っていうのを思い浮かべるといいよ」
そのためには、まずは基獣の動きをよく見て覚えないといけないんだけどね。
苦笑してそう続けた庵は、遠回しに今の有栖では基獣を把握しきれていないと言っているようだ。
確かに、具現化させたばかりでろくに基獣を見れていない。緋月は怪我を負ったため、しばらくは顕現できないが、白銀は顕現できる。
今からでも顕現させていこうかと考えた有栖に、庵はさらに補足した。
「大丈夫。今までいろんな基獣を見てきた君なら、うまくやれるはずだよ」
「……あ」
「見学も授業の一環。外から見ていると分かることもある。出来るかい?」
授業を見ていたからこそ、基獣の動きをよく観察できる。有栖は意識していなかっただろうが、その動きは記憶の中に残っているはずだ。
庵を見上げてしっかりと頷いた有栖は、グラウンドに向けて地を蹴った。
だが、すぐに足を止めて振り返ると、少し声を張り上げて言う。
「あっ、あの!」
「ん?」
「ありがとうございます!」
「……どういたしまして」
頭を下げてから、有栖は再び走り出した。
その背が見えなくなる前に、庵も背を向けて歩き出す。
「さて、今度こそ逃がさないよ」
向かうのは様々な響命力が溢れるグラウンドではなく、ある一つの響命力が色濃く滲む『屋上』だった。
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