第3話 死というもの


「有栖はまだ実習に慣れてないし、昴は避けるだけにしとくからやってみろ」

「う、うん。分かった」


 白銀、と呼べば有栖の傍らに光が発し、一頭の真っ白い馬が現れた。緋月を顕現させていないため、大きさは普通の馬と同じだ。

 額に備わる角は捻れながらも真っ直ぐに天を指し、恭夜とその前に立つ昴を見据える瞳は晴天の空をそのまま映したようだ。

 先日、基獣の具現化を果たした有栖だが、最初に待ち受けていた試練は初めての実習だった。

 今までの授業を見学していたため内容は把握しているが、いざ、自身が参加するとなると基獣にどうやって指示を出せばいいのか悩んでしまう。怨獣と対峙したときは無我夢中で、感覚を思い出そうにも今一つ掴みきれない。

 白銀も有栖の心を映したかのように戸惑いを露にしており、先程から有栖と昴を交互に見つめている。

 対する昴は基主である恭夜と同じく有栖と白銀を見据えたままで、動じる様子はない。


「攻撃……えっと、た、体当たり?」

「……?」


 しどろもどろになりつつ白銀を見て言うも、白銀は不思議そうに首を傾げている。

 有栖が描く体当たりのイメージが不明瞭で、しかも授業とはいえ戦闘に対する躊躇いがあったからだ。

 一向に動く気配のないふたりに、恭夜は小さく息を吐く。昴も待ちくたびれたのか腰を下ろした。

 いくら成績優秀とはいえ、机上論だけで感覚は掴めない。特に、基獣の扱いに関しては瞬時の判断力が必要とされることもある。

 ここは手本を見せた方がいいのか、しかし、今まで戦闘のイメージをしたことがない相手にどうやって教えるべきか。

 有栖から目は離さずに考える恭夜だったが、その思考は視界の隅から飛び出してきた影によって中断された。


『お雪!』

「わっ!?」

「おい」


 突然、授業に乱入してきたのは、よく学校に出入りをしては生徒やその基獣、校内にいる九十九に遊んでもらっている小虎だった。

 ただ、今日はどこか切羽詰まった表情で、具現化してからはほとんど一緒にいる小幸の姿がない。

 有栖の胸元に飛び込んだ小虎は、何事かと周囲の目も集まっているのを気にせず、有栖を見上げて言った。


『お雪! お雪、助けて!』

「ど、どうしたの?」

『おばあがな、おばあが帰ってきたんや』

「前野のおばあちゃんが?」


 入院していた彼女の退院を小虎は誰よりも待ち望んでいたはずだ。

 だが、小虎は喜ぶどころか今にも泣きそうな顔で混乱している。

 ただ事ではない、と有栖と恭夜は顔を見合わせ、再び小虎へと視線を向けた。


『帰って来たけど、おかしいねん! 起きんのや! 何言うても起きんの!』

「それって……」


 帰宅したが眠ったまま。呼び掛けても起きない。

 それらが物語る意味を有栖も恭夜も察したが、果たして小虎は納得してくれるのだろうか。していないからこそ、ここへやって来たのではないのか。

 すると、小虎は自身の頬を軽く叩きながら言った。


『おいら、夢見てるんかいな? なぁ、おいらのこと起こして!』

「落ち着け、小虎」


 これは夢ではない。だが、夢であってほしいからこそ、小虎は有栖にすがっている。

 恭夜が何とかして小虎を宥めようとするも、彼は『おいらはいつもどおりや!』と聞く耳を持たない。

 すると、小虎の乱入から今までを見ていた大和田が歩み寄ってきた。


「おい、どうした?」

「先生。小虎ちゃんの主さんが……えっと、主さんに何かあったみたいで……あの、話を聞いてもいいですか?」


 小虎を前に『それ』を口にしていいものかと躊躇い、ぼかしつつも許可を求めた。

 大和田は教員としてここに長く勤めているため、小虎のことも主のことも、実際に話したことはほとんどないが一応は知っている。

 しかし、「体調を崩しているらしい」としか知らない大和田には何事か明確な理由は分からず、許可を出してもいいものかと小虎を見た。


『どうやったら起きれるん? なぁ、はよ起こして……』

「……分かった。ただ、何かがあったらすぐに呼ぶように」

「はい」


 譫言のように繰り返す小虎は疲弊しきっている。

 彼の言う『おかしなこと』は最悪の状態であり、出来れば可能性があるとしてもあまり口に出したくないものだ。

 しかし、それについて念を押しておかなければいけないほどに、今の小虎が危ない状態だということは有栖にも分かった。

 返事をしてから、有栖は恭夜と共に場所を脇に移す。

 校舎の脇にある花壇に小虎を下ろし、有栖はその隣に座って小虎の頭を撫でた。


「小虎ちゃん。ゆっくりでいいから、何があったか聞いてもいい?」


 恐らくは有栖達が察したもので合っているだろうが、小虎に状況を再認識してもらおうと優しい声音で問う。

 小虎は小さく頷くと、自身が目を覚ましてからを振り返った。


『今朝な、おじいとおばあがどっかに行く夢を見たんよ。で、起きたらにーちゃんとねーちゃんが家に来て、しばらくしたらおばあが帰って来たんや』

「それで?」


 恭夜は小虎の前に立ったまま続きを促す。

 普段なら『にーちゃん、急かさんといて!』とでも返しそうなところだが、今の小虎にはそこまでの余力はないようだ。


『おいら、どないしたらええのか分からんくて、おばあの近くに行っても起きてくれへんし、呼び掛けても突ついても起きひんのや』


 帰って来た祥子の様子がいつもと違うことは小虎にも分かった。

 また、時間が経つと祥子の息子夫婦だけでなく、祥子の兄弟姉妹やその家族もやって来た。小幸は慣れない空気に怖じ気づき、部屋の奥に引っ込んでしまった。

 だが、祥子や周りがいつもと違うだけで、自分が近くに行けば起きてくれるだろう。呼び掛ければ、きっとまた目を覚ましてくれる。

 そう思って、小虎は祥子が寝かされている部屋に入った。


 ――おばあ! 皆来とるのに寝てるなんて、朝早いし眠いん?


 部屋にいた親戚は小虎を咎めることもなく、ただ顔を歪めて小虎のやることを見ていた。

 その感情の名前を小虎は知らないが、今にも泣きそうだと思った。その理由も小虎には分からなかった。

 祥子の顔の横に座って話し掛けるも、祥子が起きる気配はなく、小虎は前足で軽く祥子の肩を揺すってみた。しかし、やけに硬く感じる体はひんやりとしていて、祥子の目も開くことはなかった。


 ――……なぁ、おばあ。おいら、ここおるで。ここ、おばあの帰りたがってた家やで。


 後ろで誰かが泣いている。

 何が悲しいのだろう。何故、祥子は起きてくれないのだろう。

 頭の中で疑問ばかりが浮かぶ小虎の耳に入ってきたのは、後ろで泣いているらしい親族の言葉だった。


 ――可哀想に……。おばあちゃんに大事にされてきたものねぇ……。

 ――九十九はこういう場面に当たるのが多いんだと。ほら、人間と違って、響命力が尽きなければ死なないから。

 ――じゃあ、小虎はどうするんだ? 新しく具現化したっていう九十九もいるんだろ? 言っとくが、うちは引き取れないよ。

 ――九十九の響命力はそうそう尽きないけど、でも、このままじゃ……。

 ――今そんな話をしている場合か。しかも、姉さんの大事にしてる九十九の側で。


 親戚は口々に好きなことを言う。

 まだ、祥子は目の前にいると言うのに。

 何故、自分の新しい主の話になっているのだろうか。

 まだ、祥子の響命力は微かながら感じられると言うのに。

 堪えきれなくなった小虎は祥子の枕元からは離れずに体の向きを反転させると、親戚に向かって声を荒げた。


 ――おいらの主はおばあだけや! やのに、なんで皆次の主の話なんてするん!?

 ――それは……小虎。おばあちゃんは、もう死んだんだよ。

 ――死、んだ……?

 ――そう。おじいちゃんのときと同じ。亡くなったら、もう起きてくれないんだ。

 ――……嘘や。

 ――嘘じゃない。

 ――……あ、そうか。おいら、まだ夢見てるんか。……あかんなぁ。はよ起きて、おばあのとこ行かんと。

 ――小虎!


 制止の声を振り切って、小虎は家を飛び出した。

 どうすれば起きられるのか分からず、町を駆け抜けて病院にも行った。だが、祥子の病室には祥子の姿はなく、彼女が寝ていたベッドは綺麗に整えられていた。

 荷物すらない部屋を見て、ここは夢の中だからいないのも当たり前か、と自己完結してまた町をさ迷う。気がつけばいつも遊びに来ている学校の側だった。

 鳴り響くチャイムの音を聞き、ここにいる生徒で親しい少女の姿が浮かんだ。


 ――せや、お雪に会ったらなんとかなるかも。


 そう気づくよりも早く、足は地面を蹴っていた。

 ここが夢であれば有栖の存在があるかどうかも分からないが、小虎にはそこまで考える余裕はなかった。


『――なんで皆、おばあのこと死んだとか言うん?』

「小虎ちゃん……」


 恐らく、小虎は死についてまだうまく理解できていないのだろう。忠義が亡くなったときには聞いているだろうが、あのときはまだ具現化したばかりで赤子同然だ。聞いていたとしてもさほど重要なことと捉えていない可能性もある。

 どう説明するべきか、と有栖は言葉に悩む。有栖もまだ「死」というものに直面した数はほとんどない。

 果たしてうまく話せるだろうかと思いながらも、ゆっくりと切り出した。


「あのね、小虎ちゃん。前野のおじいちゃんが亡くなった時、前野のおばあちゃんからどんな風に聞いたか覚えてる?」

『おじいがおらんくなった時……。……いつか、おばあもおじいみたいになるって。魂だけが遠くに行くんや、って。たくさんの魂が廻る“流れ”があるけん、そこに乗って、また時期が来たらいろんなものに変わるって』


 ずっと前に祥子から聞いた話だ。当時はうまく理解できなかったが、昨日も同じような話を祥子はしていた。

 命に限りがないと、この世界はいろんな生き物で埋まってしまう。また、ずっと生きていると本当に大事なものが見えなくなって、きっと駄目になってしまうのだと。

 話の終わりが見えた有栖は、小虎の話に補足した。


「死ぬって言うことはね、生きているものすべてに訪れるものなの。それに抗うことはできないけど、死があるからこそ、生きている今を大事に思えるんだよ」

『じゃあ、おばあが「もうすぐ会えなくなる」って言うてたんは、おばあが死っていうもんに反抗できんかったけんなん……?』

「え?」


 まさか、祥子は自身の死期について知っていたのだろうか。それも、亡くなる前日に。

 驚いて言葉を失ってしまった有栖だったが、すぐにはっと我に返った。


「そっか……。じゃあ、今回は前野のおばあちゃんの番がきたんだね」

『おばあの番……』

「前野のおばあちゃんはね、新しい命に生まれ変わるために、一度遠いところに行ったんだよ」


 また新しい生命として誕生するまで、果たしてどのくらい時間が掛かるのかは分からない。そもそも、本当に生まれ変わるのかも。

 しかし、一説として噂されているのならば、生まれ変わる可能性はゼロではないのだ。


「でも、生まれ変わるにはこの世界に未練が残ってたら難しくなっちゃうから……もうしばらくは会えないから、今はおばあちゃんの側にいてあげて?」

『おばあの側に……』


 ――おじいちゃんとは、もう会えなくなるの。そして、私も……いずれは同じところに行くの。

 ――おばあも?

 ――ええ。そのときは、こうして側にいてちょうだいね?


 いつか交わした約束が、何故か急に思い出された。

 あの祥子の願いに、自分はなんと答えたのか。


『……あかん! おばあのとこにおらないかん!』


 ――おいらがおじいの代わりにおばあのこと守ったる!


 本来の主は『その時』まで祥子のことを頼むと言っていた。

 そして、小虎はそれに頷いた。


『おじいのとこに行くまで、おばあを守るんがおいらの役目や! 男と男の約束やで!』


 花壇から飛び降りた小虎は、慌てて自宅へと駆け出した。

 塀の向こうに消えると、恭夜が有栖の頭にぽんと手を乗せる。 


「俺達も世話になってるし、行くか」

「……うん」


 幼い頃、毎日のように通っていた駄菓子屋。

 温かい笑顔で迎えてくれていた人の死は、受け入れるには少し時間が掛かりそうだった。

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