第2話 別れの時


 誰かに呼ばれて、小虎はゆっくりと目を開いた。

 ぼやける視界で声の主を探していると、ふわりと頭に乗った手が優しく撫でる。もっと、と手にすり寄れば、小虎を呼んでいた声の主からは小さく笑みが漏れた。


「甘えん坊さんねぇ」

『……おばあ。おいらな、おいらがおじいの所に来た夢見とったんよ』

「懐かしい夢を見たわね」

『そう。それで、おじいが小さい子供だったんがにーちゃんになって、おばあ……ねーちゃんが来て、にーちゃんとねーちゃんの子供が産まれて、そしたらにーちゃんとねーちゃんはおじいとおばあになっててん』


 寝起きのせいで思考がうまく働かない。見たままを掻い摘んで伝えれば、彼女は小虎を撫でる手を止めずに話を聞いていた。

 昔を懐かしむよう、思い出すように目を閉じながら。

 小虎の隣で丸くなっている小幸は眠ったままだ。


『そんでな、おじいが帰ってこんくなって、皆泣いててん。それ見てたら、胸の辺りがぎゅーって苦しくなるし、おじいにもう会えんって思ったら、おいらどないしたらええんか全然分からんくなるんや』

「そう……」

『おばあも、いつかおじいみたいになってしまうん……?』

「……そうねぇ」


 縋るように見上げてくる小虎に、本来であれば「まだ先だ」と言ってやれるのだろう。

 だが、誰かに明確に言われたわけではないにしろ、それを口にはできないと思った。

 祥子は震えそうになる声を一度深く息を吐いて落ち着かせ、見上げてくる小虎を真っ直ぐに見つめた。


「よく聞いてね、小虎」


 祥子の夫のときにも死についての話はした。だが、まだ幼いであろう小虎には理解が追いつかないのだろう。小幸に至っては赤子同然だ。


「この世界に産まれてきたものはね、皆、いつかおじいちゃんみたいに遠くに行くことになるの」

『ずっとはおれへんの?』

「そう。限りがないと、この世界はいろんな生き物で埋まってしまうからね。それに……ずっと生きていると、本当に大事なものが見えなくなって、きっと駄目になってしまうわねぇ」


 永劫の命を手に入れたとして、生き続けるとどうなるのか。

 そう考えたところで、祥子は笑みを零した。

 若い頃は自分も日々を何となく過ごしてしまったことはある。だが、子供が産まれて、その子供がどんどん大きくなり、自分は老いていくのを感じると、途端に毎日が惜しくなった。

 楽しいことも辛いことも、この人生でしか得られないものだと知ったのだ。


「おじいちゃんがいなくなって小虎が感じているのも、『悲しい』、『寂しい』っていう感情よ」

『悲しいと寂しい……これが……?』

「そうね」

『おばあが家におらんとなんもやる気せんのも、寂しいけん?』

「ふふっ。きっとそうね」


 小虎は自身が感じているのがどんな感情なのか、未だ合致していない。そのため、小虎はなんと表現すればいいのか分からないときには祥子に聞きにくる。

 だが、それももう叶わないのだろうなと、祥子は口には出さず、小虎の背中をゆっくりと撫でた。


『おばあ、どないしたん?』

「え?」

『おじいがおらんくなったときと同じ顔しとる』

「…………」


 あの日、夫が亡くなって、家族や親戚には悲しみから泣く人ももちろんいた。だが、祥子は泣くまいと、夫は笑顔で送り出してやるのだと決めて堪えていたというのに、どうやら小虎には見抜かれていたらしい。


「小虎、よく聞いてちょうだい」

『なに?』

「私もね、もうすぐおじいちゃんの所に行くの」

『なんで?』

「そうねぇ。あの人が寂しがってるでしょうからね」


 理由については祥子自身も曖昧で、はっきりとしたものではない。けれど、確かにその日は近いと言える。

 それは本能的に感じているのか、それとも、基獣を顕現させたとしてもどこか弱々しい姿を見ているからか。

 一方で、小虎は突然告げられた別れの時期に焦りと困惑の色を滲ませた。


『おいらは? おいら、おばあおらんかったら嫌やで』

「小幸がいるでしょう?」

『せやけど……』

「大丈夫。あなたは、今はもう一人じゃない。守るべき人が……ものがある。だから、あなたはまだ行けないの」


 小虎とは別に九十九がいたら、自分がいなくなっても小虎はそれを守るために残ると言ってくれるはず。

 そう願っていた矢先、小虎自身が招き猫を持って近所の学校に赴き、たまたま出会った一人の少女によって小幸が具現化した。

 具現化について直接言っていなかったにしろ、やはり九十九も基獣と同じく主の意思を反映するのかもしれないと思った。


『おいら、まだまだおばあに教えてもらいたいことようけあるねん。せやから、まだおじいのとこ行かんといて』

「小虎……」

『せや! おじいに「まだ待っといて」って言うとくわ! おばあ、仏壇でようおじいと話しよったやろ? おいらのお願いも聞いてくれるかもしれへん!』


 善は急げや!

 そう言って、小虎は小幸を揺すり起こしてから祥子の膝から飛び降りると、外に出ようと器用に窓を開ける。

 小幸は何が起こっているのかときょろきょろしていたが、小虎に『急いで帰るで!』と言われると慌てて小虎の後を追った。

 だが、その小虎は窓から飛び出ようとした直前で何かを思い出して踏み留まり、振り返って祥子に言った。


『おばあ、また明日な!』

「にゃあ!」

「気をつけてね」


 笑顔で返してやれば、小虎は嬉しそうに笑んでから窓枠を蹴った。

 一人になった祥子は、細く開いたままの窓を見つめた後、視線を膝の上に戻す。

 先ほどまで小虎と小幸が座っていたそこは触れればまだ温かく、一人になったことを強く実感させる。


「……小春」


 どうしようもなく寂しくなって、基獣である鶯の名を呼ぶ。

 布団を触っていた手の傍らに小さな光の球が漂い、それらが収束するとシャボン玉のように弾けた。中から現れたのは一羽の鶯だ。

 小春と呼ばれた鶯は、主である祥子の手に飛び乗る。

 基獣も歳を取るのか、それとも主の響命力に合わせて変わるのか、小春の羽色は昔に比べるとやや色褪せたようにも見えた。

 小さな頭を人差し指で軽く撫でてやれば、小春は目を閉じてそれを受け入れる。


「いろいろとありがとうね」


 礼を言えば、「こちらこそ」と答えるように小春が小さく鳴き、姿を光の粒子へと変えて消えた。

 微かに残った光の粒子に触れようと手を伸ばすも、細く開けられたままの窓から入り込んだ風が掠め取り、やがて風に馴染んで見えなくなった。


「ごめんね……」


 呟いた謝罪は小春へのものではない。

 先ほどまでいた二匹の姿を思い浮かべ、悲しげに微笑んだ。


「……ありがとう、小虎。小幸」


 できれば、直接伝えたかった。

 ぱたぱたと真っ白い布団に落ちた滴が灰色の染みを作った。



   ◇ ◆ ◇ ◆ ◇



 帰宅してすぐ、和室に置かれている仏壇の前に座り、小虎は思いの丈を語った。

 感情についてまだ勉強したいから、人間の社会について知りたいから、祥子はまだそちらに行けないのだと。

 答えはもちろんない。それでも、祥子がしていたように語りかければ、遠い地にいるという彼に伝わるのではないかと思ったのだ。

 だが、気がつけば小虎の周りは真っ白な風景に変わっていた。


『あれ? おいら、また寝てるん?』


 話している内に眠ってしまったのだろう。夕方に祥子のところで見たときよりも、今は夢だとはっきりと分かる。

 伏せていた小虎は『よいせっ』と立ち上がって伸びをすると、周りに何かないかと見回す。

 霧でもかかっているのか、どこを見てもただただ白い世界が広がっているだけだ。


『もうちょい楽しめる夢やったらええのに……』


 文句を垂れてもしょうがないが、思わず素直な感想が口から零れてしまった。

 ただ、何故か妙な胸騒ぎがする。何もないからこそそう感じるのかもしれないが、できれば早く目を覚ましたい。

 しかし、起こす人が現実の小虎の周りにいないのか、一向に覚める気配はなかった。


『うー……う?』


 起きるきっかけを探そうと小さく唸りながら当て所なく歩いていると、ふと、前方の霧の中に人影を見つけた。

 ようやく自分以外の姿を見つけられた安堵感から、小虎は迷わずそちらに駆け寄る。

 やがて、霧が薄れてきたのか、人影がはっきりとしたものに変わっていく。


『なぁ、そこの人! おいら起きたいねんけど、なんかええ方法……え?』


 人影に向かって声を掛けるも、霧がなくなって見えた姿に小虎は足を止めた。

 小虎が近寄っていた人影は、亡くなったはずの祥子の夫……忠義ただよしと祥子だった。

 何故、二人がここに、と開いた口が塞がらない状態の小虎を二人は微笑んで見ている。


『おいらのお願い、おじいに届いたん……?』


 夢に入る直前まで、小虎は仏壇の前にいた。

 願いが届いたのかと問う小虎だったが、忠義から答えが返ってくることはなかった。

 代わりに、忠義と祥子は小虎に背を向けるとどこかへと歩いていく。


『え!? な、なぁ、おじい! おばあのこと、もうちょっと待っとって! なあ!』


 ――このままではいけない。


 本能がそう告げていた。

 慌てて小虎は二人の背に声を上げ、振り向かない二人にじれったさを覚えて白い地面を蹴った。

 だが、駆けだした足はすぐ後ろから飛んできた声によって止められた。


「駄目よ!」

『え……?』

「あなたは行ってはいけないの」


 親しんだ声は、目の前にいる祥子のものだ。

 何故、目の前にいる彼女の声が後ろからするのか。

 思わず振り返った小虎だったが、そこには誰もいなかった。


『お、おばあ……?』


 また二人が去っていた方向を見るも、既に二人の姿はどこにも見当たらない。

 やがて、白い世界が暗くなっていく。

 言葉では表しきれない戸惑いと不安で立ち往生していた小虎は、ぎゅっと強く目を瞑る。

 頭の中がぼんやりと霞み、ぐらぐらと揺れた。

 はっきりとしない意識のまま、小虎は目を開いて叫んだ。


『おばあ!』

「にゃっ!?」


 急に立ち上がって叫んだ小虎に、隣で寝ていたらしい小幸が驚いて飛び起きる。

 どうやら、目を覚ますことはできたようだ。振り向けば見慣れた仏壇が聳え立っており、辺りもいつもと変わりない和室だった。

 窓から見える外は夜明け前で薄暗い。

 果たして、あれは夢で済む話だったのだろうか。胸騒ぎはまだ収まらない。

 すると、鍵を掛けているはずの玄関から物音がして、小虎は小幸に和室にいるように言ってそちらへと足を向けた。


「――あと何分くらいありそう?」

「向こうも車の手配とかあるから、まだ……あ」

『にーちゃん、ねーちゃん。どないしたん? まだ朝早いで?』


 玄関に行けば、そこにいたのは祥子の息子夫婦だった。

 この家に来るのは二、三ヶ月に一度か二度程度だが、連絡自体は頻繁に寄越していた。それは、高齢で一人暮らしをする母親を案じてのものだったのだろう。

 小虎も彼らは……特に、祥子の息子である博人ひろとに関しては産まれた頃から知っているため、警戒心を解いて早朝からやって来た二人を見上げた。

 だが、二人は顔を見合わせると何故か表情を暗くさせた。

 そこに胸騒ぎの正体を見つけた気がして、小虎は聞きたくないと思いながらも訊ねる。


『……どないしたん?』


 予感が外れてほしい。

 いつものように、「小虎は今日も可愛いね」と笑って頭を撫でてくれないだろうか。

 彼らの表情から曇りがなくなってほしい。

 なんでもないと言ってくれないだろうか。

 しかし、博人から紡がれた言葉は、小虎の願いを簡単に砕いてしまった。


「小虎。落ち着いて、よく聞いてほしいんだけど――」


 ああ、これは悪い夢や。

 話を聞いても尚、納得することなどできなかった。

 呆然とする小虎に博人の妻であるけいが何かを言おうとしたが、博人に「今はそっとしておいてやれ」と言われると、小虎の頭を撫でてから家の奥に入って行った。

 室内は何やらばたばたしていたが、小虎は動くことができずに玄関で座ったまま扉を見つめる。


「にゃあ……」

『おじいの時と同じや。……いや、ちゃう。ちゃうよ。そんなはずあらへんよ。やって、おいら、おじいにお願いしたもん……』


 小幸は息子夫婦に慣れていないからだろう。和室にいたはずだが、心細くなったのか小虎に擦り寄ってきた。

 だが、そんな小幸を見ることなく、小虎は以前、忠義がいなくなったときを思い出していた。そして、酷似する現状を否定する。

 玄関の向こうで、聞き慣れない車のエンジン音が停まった。

 家の奥にいた息子夫婦が慌ただしく玄関までやって来ると、博人が外に出て行く。

 恵も後に続くかと思ったが、彼女は小虎を見るとしゃがんで二匹を抱き上げた。


「辛いけど、しっかり見送ってあげてね」


 彼女の目には涙が浮かんでいた。

 それはやはり、過去に見た人達のものと重なり、現状を肯定しろと暗に示してくる。


『嫌や……』


 認めたくない。受け入れたくない。

 弱々しく否定の言葉を紡いだ小虎だったが、開かれた玄関から入ってきた姿は強く現実を突きつけた。

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