第16話② 乗り越えた先に
「っ、ぐ!?」
「恭夜!」
容赦なく襲いかかった管が恭夜の体を弾き飛ばし、地面の上を滑った。
昴も動かないままで、コンやヒナも幻覚で正気を失っている。
基獣がいなければ、人間自体は弱いものだ、と隼人は下唇を噛んだ。治安部隊ならば、相応の武器を携帯しているため多少の対抗はできるが、隼人達は学生にすぎない。
恭夜を向いていた怨獣が有栖に向き直った。
麻痺だけではない、恐怖が全身を縛り上げて震える。呼吸さえ難しく、息が上がる。心臓の鼓動を落ちつけさせるように胸を押さえるも一向に落ちつかない。
放課後に現れた炎の鳥は現れない。やはり、あれは有栖の基獣ではなく、別のものだったのだろうかと自問する。
では、あのとき、脳裏に浮かんだ言葉はなんだったのか? また、その言葉を思い出そうとしても、なぜか浮かんでこなかった。
代わりに浮かんだのは、炎の鳥ではないものだった。
(――違う。『あれ』は、違う……!)
距離を詰める怨獣を見上げながら、有栖は脳裏に浮かんだ光に包まれた獣の姿を必死に振り払う。
だが、姿は消えることなく、当時、見えるはずのなかった輪郭を鮮明にしていく。
どうにかして姿を消そうとしていた有栖だったが、ふと、庵の言葉が蘇った。
――基獣の存在を否定することは、自分を否定することと同義になる。雪ちゃんが基獣を出せないのは、何か理由があるんじゃないかと思うんだ。
庵は有栖の過去に何があったか知らないはずだ。だが、随分と痛いところをついたものだった。
基獣を出せない理由があるとすれば、過去の、恭夜を傷つけた事件がきっかけだろう。あの日、恭夜に瀕死の重傷を負わせたのは、紛れもなく有栖の出した基獣だったのだ。
まだ幼く、基獣の知識もほとんどない中での具現化。自分の心の写しだというのに、コントロールなど分からずに暴走してしまった。
あれから基獣を顕現させることが恐ろしく、気がつけば顕現の手段も分からなくなっていた。
(私が弱くて、恭夜を傷つけた。でも、顕現ができなくなって、今も私一人が何もできなくて、皆が傷ついて……)
このまま自分が怨獣に殺されたとして、そのあと、恭夜達も無事で済むかは分からない。
必死に守ってくれた人達を見殺しにしていいのか。いいはずがない。けれど、あの基獣を顕現させれば、また暴走してしまうかもしれない。
不安と恐怖から浮かんだ言葉を発せない有栖の耳に、助けを呼びに行ったはずの小虎の声が届いた。
『お雪ぃぃぃぃ!』
「小虎ちゃん!?」
『安心してええで! なんかあったら、おいらがおるけん! なんてったって、おいら「厄除け」、「無病息災」の九十九やで!』
果たして厄除けと無病息災が基獣の顕現に関わるのかと思ったが、有栖の緊張を解きほぐすのにはちょうど良かった。
『それに、足止め食らってたけど、もうちょいでかいちょーさん着くって!』
やはり、庵には邪魔が入っていたようだ。
放課後といい、今回の件は一筋縄ではいかないようだ、と隼人は内心で舌打ちをした。
すると、怨獣が小虎へと向きを変え、管をしならせて小虎を襲った。間一髪のところで管を避けたが、靄が小虎を包もうとしている辺り、長引けば小虎が危ない。
有栖は気持ちを落ちつかせるように、深呼吸を一つして目を閉じる。胸の奥が熱い。
暗闇の中で、脳裏に浮かんでいた光の獣が現れる。
(大丈夫。前みたいに、もう何も知らない小さな子供じゃない)
あのとき、基獣の知識などまったくなかった。けれど、今は基獣について学び、扱い方も知っている。
(大丈夫。前みたいに、一人じゃない)
あのとき、止められる人はいなかった。けれど、今は近くに止められる人がいる。
痺れて動けない状態ではあるものの、一人でないことは不安を消すのに十分だ。
有栖は意志をはっきりとさせ、浮かんだ名前を呼んだ。
「私は、もうあなたを怖がらないから。――
有栖の背後で眩い光が発し、中から一頭の動物が飛び出して有栖の前に着地する。
かつん、と固い蹄が地面を打ち鳴らした。その動物の横腹に有栖は手を添えた。
現れた基獣から溢れる響命力に、争っていたヒナもコンも動きを止める。
「え。嘘だろ」
「あれって……」
隼人と凛は有栖が顕現させた基獣に愕然とした。
有栖の隣に佇む基獣は、一頭の純白の馬。ただし、普通の馬とは違い、額には天に向かって真っ直ぐに伸びる角がある。
神話などで語られる「ユニコーン」は、甘えるように顔を有栖へと寄せた。
有栖達に触れていた靄がユニコーンを恐れているのか、一斉に引いて怨獣へと戻っていく。怨獣は小虎から有栖へと向き直って様子を窺っていた。
そこに、新たな声が響いた。
「にゃあ!」
『小幸ぃ! かいちょーの案内、おおきに!』
職員棟と南館の間から姿を現したのは小幸と庵だった。
小虎に駆け寄った小幸が小虎に顔を押しつけて甘えれば、小虎は頭を撫でてやって褒める。
二匹の傍らに立った庵は、現状に驚いて言葉を失っていた。
「これは……」
「もー。庵さん、タイミング悪すぎ」
まだ痺れの残る隼人が不満を漏らしつつ、コンの具現化を解いて戻す。自我を失っていたコンだったが、有栖の基獣の響命力で隙ができたのか解現はできた。
それを見た凛もヒナを戻し、まだ怨獣はいるものの、基獣を失わなかった安堵から溜め息を吐く。
隼人の言葉を受け、庵は申し訳なさから視線を落とした。
「すまない。どうやら、今回の件はただの嫉妬騒ぎじゃないみたいでね」
隼人からの連絡を受け、庵は即座に向かおうとした。だが、行く手を正体不明の複数の怨獣が阻んだのだ。黒いボロ布を被ったそれらを振り払うのには随分と手間がかかった。
恐らく、他の生徒会役員のもとにも相応のものが送り込まれているだろう。
庵は隼人の隣に歩み寄り、手を取って立たせると有栖の基獣へと視線を移す。
「それはそうと、今、雪ちゃんが具現化したのは、放課後に見た基獣とは違うようだけど……」
「なんでしたっけ? 放課後のは鳥っぽかったんでしたっけ」
「その様子だと、本人に聞いたほうが早そうだね」
「ごもっともで」
庵は一瞬だけしか見ていないが、放課後に有栖が具現化した基獣は大きな鳥だ。それは強い響命力を放っていたものの、有栖から感じた響命力は今までと同じで高位ではなかった。
だが、今、有栖から溢れる響命力は、彼女が第五位であることを疑うほどの強さを放っている。響命力の強さが変わることはあるが、あったとしても一段階分変わるかどうかであり、有栖の場合は異例中の異例だ。
一体、彼女の中で何がこれほどまで強い響命力を隠していたのか? 理由なら本人に聞いたほうが早いだろう。ならば、早々にこの場を片づけるしかない。
庵が基獣を顕現させようとしたが、それよりも早く有栖の基獣が動いた。
ユニコーン――白銀は天高く前足を上げて嘶く。
振り下ろした前足で地を叩いた瞬間、前足を中心に白い波紋が辺りに広がった。
「――ッ!!」
白い波紋に触れた怨獣から言葉にならない絶叫が上がる。
耳障りな悲鳴に有栖以外の誰もが耳を塞ぐ。
苦悶する怨獣を見て、基主を思い浮かべた有栖は顔を悲痛に歪めて小さく呟いた。
「ごめんなさい。先輩」
それを合図に、白銀が有栖の隣から駆けだした。
怨獣を額の角で一突きすれば、巨大な漆黒の蝶は小さな蝶の密集体だったかのように、無数の蝶に姿を変えて散った。だが、その無数の小さな蝶も一体ずつ姿を消していき、残った一羽が地面に倒れていた。
基獣の主である伊知崎美里の姿は見当たらないが、この敷地内にいることは間違いない。
有栖は基獣のもとに歩み寄ると、傍らに月明かりを受けてきらりと光るガラスの欠片を見つけた。
「……?」
ガラスの欠片は中心が黒ずんではいるものの、端の色から察して、ガラスではなく紫水晶のようだ。
白銀が有栖の隣に戻ってくると、落ちた紫水晶を不思議そうに見下ろす。
拾い上げて近くで見ようとした有栖だったが、その手を誰かが優しく掴んで止めた。
近くには誰もいないと思っていた有栖は、大きく肩を跳ねさせて自身の手を掴む主を見る。
「っ!?」
「驚かせてごめんね? それ、怨獣を討伐したあとに落ちている物なんだ。火傷するから、素手で触れないほうがいいよ」
有栖の手に自身の手を重ねて止めたのは庵だった。彼は油断しきっていたせいで驚いた有栖に笑みを零しつつ、止めた理由を手短に説明した。
白銀が疑わしげな目で庵を見ていたが、有栖がそれに気づくことはなかった。
ただ、庵は白銀の剥き出しの警戒心に気づいており、視界の隅に留めつつ内心で小さく笑みを零す。
(警戒心の高さは雪ちゃんと同じか)
さすがは基主の心の鏡だ。と感心しつつ、紫水晶を残してぱっと消えた基獣に有栖には聞こえないよう息を吐く。基主のほうも無事、確保できたようだ。
一方、有栖は恭夜や凛を見てまだ麻痺が残っていることや、意識は取り戻したものの怪我を負った昴を確認すると庵に向き直って困ったように微笑んだ。
「すみません。夕方の基獣も、私の基獣で合っていたみたいです」
「…………」
どこか吹っ切れた様子の有栖に思考を奪われてしまった。
庵から視線を外した有栖は彼に背を向けると、先ほどはまったく浮かばなかった名前を呼んだ。
「――
有栖の正面で炎の塊が生まれ、それが四散すると中から一羽の赤い鳥が飛び出した。
赤い孔雀のようなその鳥――ユニコーンと同じく、神話で語られることのある不死鳥は、放課後に現れたときのように炎は纏っていないものの、同一の基獣であることは響命力から分かった。
空を旋回していた緋月だったが、静かに地上に降り立つと両翼を広げて火の粉を周囲に撒き散らす。
火の粉はこの場の全員に降り注ぎ、恭夜や凛、隼人の体から痺れを取り、昴の傷を癒していく。
痺れの引いた手を見て、隼人が興奮したように声を上げた。
「すっげ! 俺、『複基獣』なんて初めて見た!」
有栖は隼人の言葉を聞いて、以前、祥子の見舞いに行く際に小虎と話していたことを思い出した。
複基獣は言葉どおり、一人の基主から生まれた複数の基獣のことを指す。発生する原因は未だ明確にはされておらず、また、複基獣の基主も数が少ない。
恭夜と小虎が話していたときは、まさか自分が複基獣の基主になるとは思いもしなかった。
庵は驚きつつも、感心したように言う。
「家柄のお陰もあって複基獣の基主は何人か見たことはあるけど、特等級の複基獣は初めてだよ」
ユニコーンも不死鳥も実在しない動物だ。必然的に位は最上位である「特等位」に値する。
複基獣を顕現させるには、相応の響命力が必要となってくる。
庵が今まで見た複基獣は第二位までだが、基獣それぞれがその位に値するため、一体として考えると第一位に匹敵する強さを持っているのだ。特等位二匹ともなれば、その強さは計り知れない。
庵はそばにいる白銀に手を伸ばす。
だが、白銀はふい、と顔を背けて触れられるのを拒んだ。
「…………」
『かいちょーさん、何かしたん?』
「にゃあ?」
やり場のない手を何事もなかったかのように下げるも、小虎と小幸から容赦ない言葉が飛んできた。
できればそっとしておいて欲しかったが、九十九に気遣いを求めるのはハードルが高いようだ。
全員の治癒を確認した有栖は、どっと押し寄せてきた疲労感からその場に膝をついた。同時に、顕現を維持できなくなったためか白銀と緋月の姿が消える。
「御雪ちゃん!?」
「雪!」
『だっ、大丈夫か!?』
さすがに、特等位を一度に顕現させたのだ。しかも、治癒という、基獣の中でもごく一部のものしか使えない芸当をしてみせた。
今まで基獣を顕現させていなかった有栖にとって、相当な疲労となったことは間違いない。
庵が有栖を自宅まで送ろうと手を伸ばしたときだった。
「……おや」
すっと有栖と庵の間に割って入ったのは、先ほどまで地面に伏せていたはずの昴だ。
手に触れたふわふわの毛を撫でてやるも、昴からは牽制するような視線を向けられる。
その昴の向こうで、有栖を横抱きで抱え上げたのは恭夜だ。
「すいません。こいつを休ませたいんで、もう帰っていいですか?」
「……そうだね。後始末は僕と隼人君に任せて」
昴の体から手を離し、密かに握りしめる。隼人が「げっ」と嫌そうな声を上げたがこの際無視だ。
隼人も戦闘で相応に体力を使っている。有栖に比べれば基獣の扱いに慣れている分マシだが、ここは別の人達を呼んでもいいのではないかと思った。
「えー。俺も疲れてるんですけど……」
「……しょうがないわね。私も手伝ってあげる」
「マジで」
凛が手伝ってくれるとは珍しい。明日は雨か、と彼女の申し出に驚きつつも気分が幾分か楽になったのも束の間。
「購買のケーキで手を打つわ」
「タダじゃないのかよ!」
「雪と時原の分もね」
「しかも人数分!」
まさか条件付きとは思わず、しかも競争率の高いケーキを出されたことで頭を抱える。
残っていた小虎が『おいら達のは?』と、小幸と共に期待の籠った瞳で見上げてきたため、「ケーキ以外でな」と心の中で泣きながら返しておいた。今月の財布は寒くなりそうだ。
「じゃ、荒れてるグラウンド直してくから」と言って歩き出した凛に、小虎と小幸も上機嫌でついて行く。
隼人は深い溜め息を吐くと、庵が怨獣のいた場所に落ちたままの紫水晶の傍らに膝をついたことに気づいた。
ハンカチを取り出した庵は紫水晶を拾い上げると、落とさない程度にハンカチの上でそっと転がす。
「それって、最近、怨獣に埋め込まれてるやつですよね?」
有栖に「怨獣を討伐したあとに落ちている物」と説明したことは、半分本当で半分は嘘だ。
小さな欠片は、怨獣討伐後に必ず落ちている物ではない。最近になって、「ある組織」が関わっているであろう怨獣のそばに、この欠片が落ちているのだ。色や大きさは違えどどれも同様に黒ずんでおり、嫌な響命力を纏っている。直接触れた者が火傷を負ったことは本当だ。
今回の一件がただの嫉妬騒動ではないと示す理由の一つであるそれを、庵はハンカチに包んでポケットに仕舞ってから、「あの三人には秘密だよ」と言った。
「あの三人にはっていうか、俺にも話してくれてないですけどね」
「ごめんね。これに関しては、僕がやらなきゃいけないことだから」
話しているのは透真くらいだ。だが、彼にもあまり首を突っ込まないようにと釘は刺している。
隼人はこれ以上の追究は無意味か、と小さく息を吐くと、「何か道具ないの?」と戻ってきた凛を手伝うことにした。
一足先に学校を出ていた有栖と恭夜は、お互いに口を開くことなく、静かな夜道を歩いていた。もう時間も遅いこともあって、民家の電気は点いていないところがほとんどだ。
やがて、沈黙と羞恥に耐え切れなくなった有栖が先に口を開いた。
「……きょ、恭夜。下ろして」
「…………」
足を止めた恭夜は、有栖を見下ろしながら「歩けるわけないだろ」と視線だけで突っぱねる。
だが、有栖が再び「恥ずかしいから下ろして」と言えば、溜め息を吐いて隣を歩いていた昴の背中に横向きに座らせた。
「一度に基獣を顕現したんだ。疲れてんだから、無理はするな」
「……ありがとう」
横抱きからは解放されたため、これで我慢するしかない。歩きたい気持ちはあるが、恭夜の言うとおり、基獣の顕現で疲れが溜まっている。
視線を落とした有栖の頭に、ぽん、と恭夜の手が乗った。
見れば、恭夜が優しく微笑んでいた。
「良かったな。基獣、ちゃんと具現化できてたぞ」
「……っ!」
過去に恭夜を傷つけてしまってから、基獣を恐れて出せなくなっていた。
今回は誰も傷つけずに済んだ。最後は疲れてしまってコントロールに不安はあったものの、二匹とも素直に戻ってくれた。
頭を撫でる優しい手に、緊張が解けた有栖は涙を流した。
「う、ん……っ。ありが、とう……!」
「ここで泣くなよ。俺が泣かしたみたいだろ」
まるで昔の泣き虫な有栖に戻ったようだ。
懐かしい光景に恭夜は笑いながら有栖の頭を少し乱雑に撫でた。
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