第14話 トラウマ


 ――恭ちゃん……。


 意識を手放す直前に聞こえたのは、幼い頃に呼ばれていたあだ名だった。

 涙声で震えていたが、それが尚更、泣き虫で毎日のように泣いていた幼馴染の過去と重なって、体は冷えていくのに胸の奥だけがじんわりと温かくなる。


(ああ、そうだ。いつの間にか、泣くことはほとんどなくなったけど……)


 真っ暗な世界に一人立ち、恭夜はぼんやりと過去を思い返していた。映像が次から次へと流れるのは走馬灯だろうか。

 やや気弱だがお人好しな幼馴染は、成長と共に涙の数は減っていった。だが、それはゼロではないのだ。

 基獣のいない彼女がこの学校で過ごすのは辛いだろう。昨日のように、庵に好意を抱く者からの嫌がらせもあるかもしれない。小虎に頼まれたように、九十九に助けを求められて手を掴み、面倒事に巻き込まれるかもしれない。

 だからこそ、自分が彼女のそばにいて守ってやらないといけないのだ。

 よく繋いでいた左手を見つめ、想いごと握りしめる。


(俺は、あいつの所に戻らないといけないんだ)


 真っ暗だった世界で、目の前に小さな炎が灯った。揺らめく温かな炎に手を伸ばす。

 指先が炎に触れた瞬間、炎は瞬く間に大きく膨らんで恭夜を包み込んだ。


「っ!?」


 咄嗟に目を瞑るが、火傷をするほどの熱さは感じない。それどころか、ずきずきと痛んでいた首元の傷が少しずつ引いていく。

 真っ暗な世界が瞼の向こうで明るくなっていくのが分かる。

 夢が覚める前の、意識の浮上にも似た感覚に、恭夜はゆっくりと目を開いた。


「…………」


 真っ白い天井が目に入った。薬品の匂いが鼻につく。

 目だけを動かして周囲を確認すれば、薄ピンクのカーテンが天井から吊り下げられ、自身が寝ているベッドを周囲から隔離していた。

 保健室か、と一人納得して息を吐いた恭夜だったが、ふと、右手が何かに掴まれていることに気がついた。


「あ、りす……?」


 寝起きのせいか、幼馴染の名を呼ぶ声が掠れた。

 恭夜の傍らで、ベッドに上体を預けて眠っている有栖の姿があった。冷えることを考慮してか、繋がれた右手はベッドの中に入っているため、彼女の左手も布団の中にある。

 右腕を枕代わりにして眠る彼女を見て、恭夜は意識を手離す直前を思い出すとはっとして上体を起こした。


「そうだ、怨獣が……!」


 怨獣に襲われて、昴は怨獣の幻覚で混乱して恭夜に襲いかかったのだ。

 恭夜はそのまま意識を手離したが、その後、残された有栖は無事に逃げ切れたのだろうか。ここで眠っているということは誰かが助けてくれたのか。

 様々な疑問が浮かぶ中、怪我はないか確認するために有栖に触れようとしたところでカーテンが開かれた。


「起きたかい?」

「会長……」


 カーテンを開いて中に入ってきたのは、有栖が起きていたらすることはないであろうやや冷めた表情の庵だった。

 相変わらず、気に入らないとはっきりと態度に出す人だな、と思いつつ、布団の中で繋いだままの手を少し強めに握る。

 異性としてかはともかく、有栖を気に入っている庵にとって、幼馴染であり、自分よりも親しく接している恭夜は面白くないのだろう。

 庵は表情を和らげて有栖を見下ろすと、恭夜の懸念を払拭するように言った。


「雪ちゃんに怪我はないよ」

「そう、ですか」

「彼女が基獣を具現化して怨獣を退けたんだ。怨獣は完全に消滅していないだろうけど、どこかに消えたまま姿は見せていない」


 一瞬、我が耳を疑った。てっきり、庵が駆けつけて助けてくれたのかと思ったが、どうやら怨獣を退けたのは有栖のようだ。

 驚きから言葉を失う恭夜だったが、有栖が基獣を具現化した、という事実を飲み込むと神妙な面持ちへと変わった。

 まるで、基獣の具現化に対して不安を抱いているような様子に、庵は少しだけ見た具現化された基獣を思い出しながら訊ねる。


「あれはではなかった。なのに、今までどうして具現化できなかったんだい?」

「それは……」


 問い詰めるようにきつい言い方になってしまったが、それほど、有栖が具現化した基獣は“特異”だったのだ。

 基本的に、基獣は具現化された時期が早いほど高位のものが多い。現に、特等位である庵は『記録史上最年少』といわれる五歳で具現化を果たしている。

 恭夜は未だ庵の基獣を目にしたことはないが、それは美しくも力強い基獣だと噂で聞いた。また、凶暴さを秘めているとも。

 言葉を濁す恭夜を見て、庵は小さく息を吐く。


「君に聞いても仕方がないか。どちらにせよ、具現化はできたわけだしね」

「…………」


 僅かに嬉しさを滲ませた庵を見て、恭夜は下唇をぐっと噛んだ。

 脳裏で蘇る光景は、有栖の中では悪夢となって基獣の具現化を阻んできていた。それが今、自身の怪我がきっかけで解き放たれてしまった。

 果たして、彼女は基獣を受け入れられるのだろうか。


「俺の、せいなんです」


 その言葉は、予想よりも簡単に、けれど重々しく出てきた。

 庵の表情が真剣なものへと変わる。話を聞く姿勢をとってくれたことに感謝しつつ、まるで懺悔のように過去のことを口にした。


「小さい頃、有栖は今よりももっと消極的で、よく男子に苛められて泣いてたんです。それで、小二くらいのとき、有栖と公園で遊んでたらいつもの男子が絡んできて、無視してたんですけど……」


 相手にされない苛立ちから、彼らは自身に振り向かせようと有栖に足を引っ掛けて転ばせた。転倒して膝を擦りむいた痛みから泣き出したのを見て恭夜が男子に抗議するも、彼らは一向に謝る気配を見せなかった。

 宥める者もいない中、泣きじゃくる有栖に異変が起きたのはすぐのこと。

 有栖の背後で眩い光が発した。縦に伸びた楕円形の光から姿を現した『それ』は、自分達の倍はある大きさの獣のようだった。種類が認識できないのは、輪郭が眩しい光のせいでぼやけていてよく見えなかったからだ。

 『それ』が有栖の傍らに立つと、青い目で少年達を見据えた。


 “彼女を傷つけたのはお前達か”


 獣が直接喋ったわけではない。だが、僅かに細められた瞳は確かにそう言っていたのだ。

 幼い自分達でも分かるほどの、他を圧倒する大きな力。まだ基獣も持たない少年達が降参するのも早かった。

 少年達は悲鳴を上げ、我先にと逃げ出すのとほぼ同時に光の獣が地を蹴って追いかける。


「ひっ!」

「ごっ、ごめんなさいぃぃぃぃ!!」


 泣きながら走る少年達が公園を飛び出していく。

 だが、泣きじゃくる有栖には状況を理解できず、光に包まれたままの獣も公園の出入り口で止まると、困惑したようにその場をうろうろとしていた。

 恭夜は唖然として見ていたが、すぐに我に返ると泣き止まない有栖に歩み寄った。


「あ、有栖。もう大丈夫」

「うわあぁぁぁん!!」

「大丈夫。あいつら、もういないから。ほら、帰ろう?」

「うっ、ひっく……ふっ、うわぁぁぁぁ!!」


 ――おかしい。あの光る獣もそうだが、いつもと違う。


 いつもなら、頭を撫でながら宥めてやれば段々と落ちつくはずだが、今日は収まる気配がない。

 子供ながらに異変に気づいたとき、ぞわりと悪寒が走った。

 勢いよく振り向けば、公園の入口で右往左往していた光の獣が足を止めていた。そして、その青い双眸と目が合った。


 ――やばい、来る。


 幼い本能がそう告げた。頭の中で鐘が煩く鳴っている。

 硬い物が地面を打つ音に弾かれたように、硬直していた恭夜の体が動いた。


「っ、有栖……!」


 慌てて有栖を突き飛ばした直後、頭を下げて突進してきた獣は恭夜の背に鋭い何かを突き立てて掬い上げ、背後へと高く放り投げた。

 今までに感じたことのない激痛に息が詰まり、悲鳴を上げる間もない。

 宙に飛ばされた恭夜は、霞む視界の中、青い空に浮かぶ紅色の雲を見た。


(あ、れ? 今って、もう、そんな夕方だっけ……?)


 たしか、先ほどまでは青く晴れた空だったはず。今も空は青いのに雲だけが赤い。

 直後、体を駆け抜けた激痛で腹に手をやれば、ぬるりとした感触があった。真っ赤に染まった手を見て、紅色の雲が自らの血が散ったものだと理解した。

 体が地面に叩きつけられ、何かが砕けた嫌な音が響く。

 その時に最後に聞いた声も、また有栖の悲痛な声だった。


「っ、恭ちゃん!」




「――俺、それからのことは覚えてないんですけど、多分、あれが有栖の基獣だというのは間違いないと思います」


 目を覚ましたとき、有栖が今と同じようにベッドに寄り掛かって眠っていた。違うのは、涙に濡れた顔の両親もいたということくらいか。

 何があったのか、あれは有栖の基獣なのかと問えば、両親は肯定も否定もせず、ただただ、死の淵から帰ってきた息子を強く抱きしめた。

 その後、退院をしてから何度もせがんだ末に事情を聞けば、有栖の泣き声に気づいて様子を見に来てくれた近所の人が救急車を呼んでくれたようだ。

 大量出血で命の危うい恭夜と、その血に濡れながらも傷一つない有栖。

 何があったかと大人達が優しく訊ねるも、有栖はショックの大きさからか泣きながら謝るだけで、これ以上の話は精神的に苦痛を与えるだけで危険だと判断された。また、心を読める基獣を持つ医師が接しても拒絶をされて読めなかった。

 ただ、当時、すぐ近くで怨獣が出現していた報告があり、この一件は怨獣に襲われた有栖を恭夜が庇って大怪我を負った、ということで落ちついた。


「少しして、気持ちの整理がついてから、互いの両親にも本当のことは話してるんです。有栖が、どうしても俺の親にも謝らないといけないって言って」


 どちらの両親も初めこそ驚いていたものの、ゆっくりと状況を飲み込み、正直に話してくれた有栖を許してくれた。引き離されると覚悟はしていたが、それも今後の二人の基獣具現化に影響を及ぼすかもしれないからと杞憂に終わった。

 そして、そのあとすぐに有栖の基獣について検査をしてもらったが、具現化の兆しが一切見られないと言われた。恐らく、過去の一件で恭夜に対して瀕死の重傷を負わせてしまったことで、拒絶反応を起こしているのだろうと。


「有栖は、基獣がいなくても死ぬわけじゃないから大丈夫だって言ってました。具現化して、また俺か、別の人を傷つけるくらいなら、いないほうがいいって」


 基獣がいないことで、世間からの目はやや冷たくはなる。だが、完全に突き放されるわけでもなく、普通に生活する分には問題はない。

 ただ、基獣がいなかったからこそ、有栖は高校進学で弾かれかけていた。庵が目をかけてくれなければ、彼女は今頃、恭夜の知らない場所で学生生活を送っていただろう。

 話を一通り聞き終えた庵は、感情の読めない表情で呟く。


「本当に、腹立たしいくらい邪魔をしてくれるね」

「はい?」

「なんでもないよ」


 小さな声は恭夜の耳にはうまく入らず、聞き返した彼に庵は初めてにっこりとした笑みを彼に向けた。

 恭夜は今まで向けられることのなかった笑顔に違和感を覚えつつ、今回の首元の怪我が跡形もなく消えていることに今更ながらに気づいた。シャツに血はついているため、怪我をしていたのは間違いないはずだ。

 恭夜を抱えていた有栖も血がついているはずだが、替えの制服を用意してくれたのか汚れは見受けられない。


「あの、怪我が治ってるんですけど、これって会長が……?」

「いや、それも僕じゃなくて、さっきも言った雪ちゃんの基獣。鳥系の基獣のようだったけど、姿ははっきりしていなくてね」


 庵から先ほどの笑顔が一瞬で引いた。

 どこか苛ついた言い方の庵に内心で「大人げないな……」と思いつつ、恭夜は彼が出した有栖の基獣の特徴に首を傾げる。


「コイツの基獣、鳥とは違いますよ」

「……え?」


 恭夜が記憶している有栖の基獣は、光に包まれていて何かは分からなかったが、『四足歩行の動物』であることは間違いない。

 鳥系であれば凛のヒナが該当するが、もしヒナが助けてくれたのならば庵の前から姿を消す理由はないはずだ。知られたくない理由があるならば話は変わるが。

 きょとんとする庵を放置して、恭夜は帰るために有栖を起こすことにした。血がついたシャツは両親に見つかる前に処分すればいいだろう。ただ、それまでに見つからなければいいのだが。


「有栖。寝てるとこ悪いけど、帰るぞ」

「ん……。恭ちゃん……?」

「…………」

「バカ! 昔のあだ名出すな!」


 思案していた庵がぴくりと反応したのが見えて、恭夜は慌てて寝ぼけたままの幼馴染の肩を揺すった。有栖がまだ半分寝ている今、下手に彼の逆鱗に触れたくないのが本音だ。

 気持ち悪さに顔を歪めていた有栖だったが、やがて意識が覚醒したのか温かな左手に気づいてはっとした。


「え!? わ、なん……ご、ごめん!」


 言葉がうまく回らない有栖は、繋いだままの左手に気づいて慌てて離す。

 手を繋いでいたこともそうだがあだ名も恥ずかしかった、という指摘は飲み込むことにした。離れた温もりを少しだけ惜しいと思ってしまった気持ちを押し込めて、恭夜は小さく溜め息を吐く。

 庵はおろおろとしていた有栖を見て、落ちつかせようと頭を撫でてやった。


「基獣を具現化したことで疲れているんだろうね。今日はゆっくり休んだほうがいい。あとは、僕達生徒会のほうで処理しておくから」

(あ。隼人死亡フラグ立ったかも)


 ただでさえ多忙な生徒会で、怨獣の取り締まりに加えて先ほどのあだ名の件もある。さぞ、彼の中では苛立ちが募っていることだろう。

 内心でここにはいない友人に合掌した。

 だが、有栖は庵の言った「基獣を具現化した」という言葉に首を傾げる。恭夜も違うと否定した直後のため、何を言っているのかと庵を見た。


「あの、さっきの鳥は――」

「あ、ごめん。電話だ」


 火に包まれた基獣は、自分のものではない。庵の言葉を否定しようとしたが、それは一本の着信によって遮られてしまった。

 取り出したスマホのディスプレイに表示された名前を見て、庵は苦笑を零した。


「さすがは透真だ。もう何か掴んだかな」


 副会長である透真の位は庵に次いで高い。怨獣の出現に気づかないはずがなかった。

 恭夜を運んでから連絡はしていたが、彼から連絡がきたということは、何か動きがあったのだろう。

 通話ボタンを押してカーテンの向こうに消えた庵だったが、すぐに「そうだ。ちょっと待って」とスマホ越しに透真に言うと、再びカーテンを捲って姿を見せた。手にはビニール袋に入った真新しいシャツを持って。


、ご両親が心配するから着替えたほうがいい。上着は雪ちゃんのと含めてこっちでクリーニングに出すから。じゃ、まっすぐ帰るんだよ」

「あ、ありがとうございます」


 寝ている間に着替えさせても良かったのだが、庵は保険医に事の説明と消えた怨獣捜索の手配などで手が塞がっていた上、有栖にさせるのも気が向かなかったのだ。

 まるで教師のような言葉を残してカーテンの向こうに戻った庵に、恭夜はどもりながらも礼を言った。

 保健室の扉が開いて静かに閉ざされる。

 残された有栖と恭夜は互いに口を開かず、沈黙が部屋を満たす。外から聞こえてくる運動部の活動する声は、先ほどまで怨獣がいたとは思えない日常の一部だ。

 やがて、沈黙に耐えかねた有栖が思い出したように言う。


「そうだ。あのね、小虎ちゃん達、見つかったみたい。東雲君がふたりを見つけたって、恭夜が寝ているときに連絡きて……あ。凛ちゃんにも伝えてるから大丈夫」

「ああ、そういえば、探してる途中だったな」


 恭夜が気を失っていたのはおよそ三十分くらいだが、その間に隼人のほうで九十九二匹の捜索は続けられていたようだ。

 怨獣のことですっかり忘れていたが、本来ならば怨獣に狙われているであろう小虎達を隼人に預ける予定だった。それが有栖の前に現れたともなれば、標的については少し考え直す必要があるかもしれない。最も、狙っていた九十九のそばにいたのが有栖のため、彼女を襲えば出てくると思ったのかもしれないが。


「もう小虎達が隼人のとこにいるなら、俺達は帰るか」

「そうだね。邪魔になっても悪いし」


 恐らく、隼人はこれから生徒会の仕事に取りかかるだろう。小虎達には申し訳ないが、二人は一足先に帰ることにした。

 有栖は保険医に帰宅する旨を伝えるために保健室を出て、恭夜は制服を整えつつスマホの連絡アプリで隼人に「先に帰る」とメッセージを送信した。

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