第13話 炎の鳥
「うーん……。やっぱり、いないかぁ……」
中庭や高校の南東にある第一体育館、第二体育館の影やプール、部室棟の裏まで見て回ったが、小虎達の姿はどこにも見当たらなかった。
グラウンドでは陸上部を中心にいくつかの運動部が練習をしている。通りがかった生徒にも聞いてみたが、全員が「知らない」「見てない」と首を振った。
やはり、校内には入っていないか、と有栖は外に出るために正門に向かおうと足を動かす。
高校の東の端を歩きながら、連絡アプリで恭夜と隼人に校内に小虎達はいないみたいと知らせれば、恭夜から「じゃあ、一度合流するか」と返ってきた。隼人からは「凛に頼んで、ヒナにも探してもらおうか」と提案があった。
ヒナならば上空から広い範囲を見渡せる。ただし、飛べる鳥類として顕現してくれればの話だが。
一度、顕現した姿は解現してから数時間が経たなければ変わらない。それでも、可能性が広がるならば頼むのもありか、と有栖は隼人の提案に同意した。
【じゃあ、俺から連絡しとくわ。終わったら連絡してもらう】
【うん。お願いします】
【それまで俺達で探しておくぞ。隼人はどこだ?】
【隣の中学校ー。いろんな子に聞いてるとこ】
【変態。タラシ】
【なんで!?】
どうやら、隼人は東側に道路を挟んで建っている九曜学園の中学校に行っているようだ。高校生が入るのはやや躊躇われるが、隼人はあまり気にしていない。
冷やかす恭夜と隼人の怒りを表すイラストのスタンプ返しに笑みを零しつつ、有栖はスマホを仕舞って正門に再び足を向ける。
北館の東側から北側にある駐輪場に差し掛かったとき、曲がり角の向こうから吹きつけた空気砲のような風の塊に目を瞑った。
「っ!」
咄嗟に腕を前に翳し、風に混じる砂埃が目に入るのを防ぐ。
ただの風とは思えない吹き方と僅かに混じる不穏な響命力。
風が止み、腕をゆっくりと下ろして目を開く。
「な、に……?」
目の前に佇む『それ』に愕然とした。
角の向こうにいたのは、黒い霧に包まれた“巨大な塊”だ。校舎の一階分ほどの高さのそれは、地面から少し浮いている。上の辺りには紫色の光の点が集まって楕円を象ったものが二つ並んでおり、それが黒い霧の目であることが分かった。
中に何が潜んでいるのかは見えないが、異様な空気が辺りを満たして寒気がする。とても九十九や誰かの基獣とは思えなかった。
駐輪場に生徒の姿はない上、北館の生徒は見えていないのか、騒ぎになっている様子もない。
(もしかして、これが小虎ちゃん達が言ってた影?)
黒い霧に包まれた全身。基獣のいない、位が五位の者でも分かる不穏な響命力。
有栖が太刀打ちできる相手ではないことは明白だ。
幸い、北館と南館を繋ぐ渡り廊下がすぐそばで、少し走って戻れば校舎内へ逃げ込める。
霧に隙はあるかと見ていた有栖は、ふと、霧から青紫色の靄が出てきたことに気づいた。
「あ、あれ?」
靄がゆっくりと漂い、怖じ気て数歩下がった有栖の足に触れた瞬間、足から力が抜けてその場に座り込んでしまった。
狙ったかのように靄は有栖の足から腹、肩、頭と順に包んでいく。靄が触れた箇所がひやりと冷えて力が抜ける。
ぼんやりとした思考で現状を把握しようとした有栖の耳に、どこからかくすくすと笑う女の声が届いた。
(この声は、たしか……)
声の主と一致させようと記憶を探る。
昼休み、屋上庭園、悲痛な顔の少女。
記憶が写真の如く切り取られた映像で流れていく。そして、美しい顔立ちの彼女の表情が嫉妬で歪んだ。
「……ごめ、なさ……」
「謝っても許さない」
姿は見えないのに、声だけははっきりと聞こえた。
座り込み、地面に両手をついて押し潰されそうになっている有栖の背後から。
「あんたなんて、死んじゃえばいい」
嫉妬が純粋な殺意に変貌を遂げて降り注いだ。
目の前の黒い霧に包まれた何かが、言葉にならない甲高い咆哮を上げる。黒い霧からホースのような細長い管が飛び出し、鞭のように宙でしなった。
次に訪れるであろう衝撃に備えて身を固くする。
だが、衝撃が訪れる代わりに、閉ざした視界の向こうからは獲物に襲いかかる狼の唸り声と聞き慣れた声が聞こえた。
「昴、やれ!」
狼、昴の声に混ざって霧からは絶叫が上がった。
耳障りな甲高い悲鳴が校舎に当たって跳ね返り、辺りに反響する。
有栖に纏わりついていた靄が引き、体の自由を取り戻す。まだ倦怠感は残っているが、動く分には問題はない。頭を振って意識をはっきりさせると、有栖はゆっくりと立ち上がった。
霧の塊の向こうにいる恭夜はそれを確認すると、昴に向き直って指示を飛ばす。
「昴! 中を引きずり出してやれ!」
昴はヒナのように霧を吹き飛ばす翼は持ち合わせていない。だが、鋭い牙と爪は相手を捕らえるには十分だ。
威勢良く一吠えして霧の中に飛び込んだ昴だったが、中の物体もそう簡単に出てはこなかった。中で暴れているのか、昴が霧から弾き飛ばされ、地面に着地した昴が再び霧に飛び込むもまた弾かれる。
中から黒板を引っ掻いたときの音に似た耳障りな悲鳴が上がる辺り、ダメージは確実に与えられている。ただ、霧が晴れない以上、中身を確認できない。
隙を見て霧の横を駆け抜けた恭夜は、有栖の前に立って霧を見据えた。
背中を向ければ何が起こるか分からないため、恭夜は有栖に背を向けたまま訊ねる。
「あれはなんだ? 霧が邪魔で本体が見えないんだけど、最初っからあれ?」
「うん。会ったときからもう霧に包まれてて、私も見てないの。でも、多分、あれが小虎ちゃん達の言ってた九十九の襲撃犯だと思う」
「げっ。じゃあ、この嫌な感じ……やっぱり、怨獣か?」
九十九にしてはサイズがかなりの大型で、この辺りにあった物とは思えない。また、基獣だとしても霧から漂う不穏な空気や響命力から普通の状態ではないことは分かった。それが、「怨獣だから」という理由がつけばすべて納得がいく。
有栖にスマホで隼人に連絡するように言おうとした恭夜だったが、左肩に一瞬だけ走った痛みに顔を歪めた。
直後、辺りに木霊した悲鳴は、霧から弾き飛ばされた昴のものだった。
「ギャンッ!!」
「昴!」
地面に叩きつけられた昴は左肩から血を滲ませている。なんとか立ち上がったものの、左前足は地面につけられずに僅かに浮かせたままだ。また、体の複数箇所を打たれたのか、体は小刻みに震えていた。
霧から飛び出た黒いホースのような管からは血が滴り落ち、管が昴を突いたのだと分かった。
基獣の痛みは基主にも伝わる。基獣が感じた痛みそのままではないが、恭夜の左肩には未だ鈍く痛みが残っている。
恭夜が昴に駆け寄って体を支えてやれば、昴は霧を見据えて牙を剥いたまま恭夜に身を寄せた。
霧の主もこちらの出方を窺っているのか、動く気配はない。今の内にできることはやってしまえ、と恭夜は有栖に向かって声を張り上げた。
「有栖。隼人に連絡! というか、生徒会室この上だろうが……!」
北館の四階にある生徒会室からこの場所は見えるはずだ。また、怨獣がいるともなればじっとはしていないだろう。
しかし、一向に姿を見せない生徒会役員に苛立ちを滲ませつつ、どうやってこの場を切り抜けようかと思考を巡らせる。
(昴はこの状態だし、霧が自主的に去ってくれる様子もない。有栖が隼人に連絡してるし、あいつが来るまでなんとか保たせるしかないか……)
横目で有栖を見れば、スマホで隼人に電話をしている様子が確認できた。
外に出ている隼人だが、彼から生徒会に連絡もいくだろう。最も、庵ならば連絡がなくとも察知できているだろうが。
「変なのに足止め食らってなきゃいいんだが」
そうぼやいてから、恭夜は昴の横腹を撫でて他に異常はないかと見る。自身への痛みは左肩以外はないが、伝わらない小さな傷が致命傷となることもあるのだ。ただ、痛がる素振りがない辺り、打撲などはあるだろうがその他は大丈夫だろう。
もう少しだけ頑張ってくれ、と内心で昴に言った恭夜だったが、ふと、霧から少しずつ滲み出てきた青紫色の靄に気づいた。
「これ……」
初めは視認するのも難しい薄い色だったそれは、時間の経過と共に色濃く、量を増していく。紛れもない、有栖を包んでいた靄だ。
これに包まれた有栖が身動きできずにいたのを思い出し、触れる前に対処をしなければと考えた恭夜だったが、一足先に昴が恭夜を庇うために一歩前に出た。
直後、足が靄に触れた昴は身を大きく痙攣させて倒れる。
「昴!?」
まさか、毒の類なのか。地面に倒れた昴はぴくりとも動かなくなった。
物理的なダメージは基主に伝わるが、毒や幻覚などは基獣にしか分からない。だが、それによって基獣が死んでしまえば、基主もただではすまないのだ。
恭夜は靄に触れることも厭わず昴の頭を抱えて膝に乗せる。靄に触れた箇所がやけに冷たく感覚を奪っていくが、今すぐに倒れるほどでもない。
体が動かされたことで、昴の目がゆっくりと開かれる。
虚ろな黒い瞳が恭夜を捉えた。
「おい、大丈――え?」
一瞬、何が起こったのか理解できなかった。
基獣は基主から生まれたものであるが故に、基主に感情などはすぐに伝わる。だが、今、昴から伝わってきたのは向けられるはずのない明確な『敵意』だった。
恭夜がそれを認識するよりも早く、昴は恭夜の喉元に食らいついた。
「恭夜!!」
有栖の悲鳴が遠くに聞こえ、体が後ろに押し倒される。視界が大きく揺れ、青く晴れた空が広がった。隣に聳える校舎がいつもより高く感じた。
昴は恭夜からの響命力が途絶えたことで光に包まれて消える。残ったのは、首に噛みつかれた跡とそこからの出血だけだ。
隼人への連絡をとうに済ませていた有栖が恭夜に駆け寄り、出血を押さえようと上体を起こして抱える。震える手でハンカチを取り出し、気道を潰さない程度に傷口を押さえた。
霧は未だその場に佇んだままだ。
「だ、誰か……」
助けを呼ぼうにも、声が震えてうまく出せない。
ハンカチは瞬く間に赤く染まっていく。恭夜の呼吸は荒く、体温も下がっていくのが制服越しに伝わる。
「あ、りす……にげ、ろ……」
「やだ……。やだ、『恭ちゃん』……」
血だらけの恭夜の姿が過去のものと重なる。
幼い頃のあだ名に恭夜が僅かに反応するも、もう声を発することさえできなかった。
霧が蠢く。管がゆらりと揺れ、二人に近寄る。目の前に立った霧が管を振り上げたとき、有栖はぎゅっと目を瞑って恭夜を抱きしめた。
(私に、基獣がいたら……!)
管が空を切る音がする。
脳裏を駆け巡るのは走馬灯か。過去へと遡る光景に、有栖は死を覚悟した。
だが、最後に辿り着いた光景に息を飲み、自然と浮かんだ言葉を叫んだ。
「……――っ!」
脳裏で散ったのは赤い花びらか、それとも火の粉か。
有栖達と霧の間にバスケットボールサイズの炎の塊が渦を巻いて生まれ、一瞬にして霧と同じ大きさまで膨らんで爆ぜた。
霧が熱風で吹き飛ばされ、中にいたものが炎に包まれて悲鳴を上げる。
肌を撫でた暖かい空気と悲鳴に有栖が目を開けば、そこには炎に包まれた巨大な赤い鳥がいた。凛の基獣かと思ったが、辺りを見回しても彼女の姿はない。
やがて、炎に包まれた黒い影は炎に飲まれて消えてしまった。
しかし、未だ北館裏は日常を取り戻せていない。有栖の目の前に佇んだままの炎の鳥が、意識を失ったままの恭夜から流れる血が、それを打ち消しているのだ。
愕然とする有栖を炎の鳥が長い首を捻って振り返り見る。炎の中に浮かんだ深紅の目が有栖と恭夜を捉えた。鳥は無言のまま体を反転させて有栖達に向き合うと、そっと頭を有栖達に近づける。
「え……」
「…………」
警戒からぎゅっと恭夜を抱きしめた有栖を見てか、鳥の頭が有栖の少し上で止まった。
小さく首を傾げる鳥から敵意は感じられない。むしろ、こちらを心配するような雰囲気がある。炎も近くにあるというのに熱くなかった。
安心して預けてほしい、と有栖の中に鳥の感情が流れ込んでくる。
正体の分からないものに預ける不安はまだあるものの、有栖は警戒を解いて恭夜を抱きしめる腕から少しだけ力を抜いた。
鳥の顔が恭夜に近づく。首元の傷口を一通り見てから、鳥はゆっくりと目を閉じた。
恭夜と鳥の間に柔らかい光が発し、傷は光に触れた箇所から瞬く間に塞がっていく。
「すごい……」
あっという間に傷は跡形もなく消え、荒かった恭夜の呼吸も落ちつく。
驚く有栖に鳥は少し得意気な顔をすると、褒めてと言わんばかりに有栖の頬に自身の頬を擦り寄せた。触れた炎は羽毛のように柔らかく、暖かかった。
「……ありがとう」
微笑んで礼を言えば、鳥は小さく鳴いて有栖から離れる。何かに気づいてぱっと東を向いた後、姿を見られたくないのか一瞬で消えてしまった。
僅かに残った火の粉と夕焼け色の羽根が辺りに舞う。
ぼんやりとそれを見ていた有栖を現実に引き戻したのは、焦ったような庵の声だった。
「雪ちゃん!」
鳥が最後に向いていた方から庵が走ってきた。その額には汗が浮かび、息も切らしている。
生徒会室から走ってきたにしては疲労が滲んでおり、有栖の目の前で足を止めた彼は息を整えるために一度大きく深呼吸をした。汗を拭う余裕すらないのか、不安げな顔で片膝をつくと有栖の頬に手を伸ばす。
指が絆創膏をなぞり、庵の表情が一瞬だけ険しくなった。
「あ、あの、これは……」
「うん。分かってるよ」
さすがに手当てをしていたら今ではないとは分かる。頷いた庵は、すべてを知った上で触れているのだと言外に示していた。
昨日の件に関しては、珠妃によって生徒会に伝わっている。ただ、その後、美里にどんな処分が下ったのかは聞いていない。
視線をさ迷わせる有栖を見てか、庵は安心させようと表情を和らげ、頬に添えていた手で有栖の頭を撫でる。有栖が抱えたままの恭夜を一瞥したとき、何か言いたげな顔をしていたが、それもすぐに消えた。
「ごめんね。僕がもっと早くに駆けつけていたら良かったけど、情けないことに幻覚の足止めを食らっていてね」
「幻覚……」
「恐らく、あの怨獣の影響だろうけど、まさかあっさりと罠に掛かるとは思わなかったよ」
どうりで、庵の到着が遅かったわけだ。校内の、それも生徒会室がすぐそばのこの場所に怨獣が現れれば、彼が気づかないはずがない。
また、生徒会室からの距離はそう遠くなく、階段を駆け下りれば五分もしない内に到着する。遅くなってしまったのが幻覚による足止めがあったなら納得がいく。
庵は目を覚ます気配のない恭夜を見て、小さく息を吐いてから言う。
「ひとまず、保健室に行こう。出血してた割に傷はないみたいだけど、彼が目を覚ますまではまだ時間が掛かりそうだしね」
「……はい」
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