第12話 影の襲来と対策


 帰宅して、母親に右頬の傷について訊かれたが、「学校で引っ掻いて怪我しただけ」と小虎に言ったように半分だけ嘘をついた。

 宿題や晩ご飯、入浴を済ませた後、有栖は自室に戻って明日の予習に取りかかる。後ろでは、小虎と小幸がじゃれ合って遊んでいた。九十九が狙われている今、夜間に外出する気はないようだ。

 小虎と小幸は今夜も有栖の所に泊まると言って聞かず、家族の了承も得られたため、そのまま好きにさせている。

 二匹の声を気にすることなく勉強を進めていた有栖だったが、ふと、カーテンを引いた向こうで窓が小刻みに揺れる音に気づいた。風にしては強すぎる。

 手を止めて窓を見る有栖に倣い、二匹も遊ぶ手を止めてそちらを向いた。


『おいらの友達かな?』

「ということは、九十九?」

『毎晩のように遊びに出とったけんなぁ。あんな事あった後やし、来てなくて心配になったんかな?』

「そっか。じゃあ、ちょっと顔を見せてあげないとね」


 小虎と小幸は犯人の影を見ている。他の九十九にもそのことが知られているなら、姿が見えないと心配にもなるだろう。

 有栖は窓辺に歩み寄り、カーテンを開ける。

 しかし、窓の外は真っ黒で何も見えなかった。


「……あれ?」


 外が暗いせいで室内の光景が窓に映っている。だが、有栖の家の周りには他の家もあるため、何も見えないというのはおかしい。

 もしや、九十九がかなり巨大で、見えているのは体の一部なのだろうか。だが、基獣と違って、大抵は元の大きさと比例する九十九にここまで巨大なものはいるのか。

 不審点から窓は開けずに目を凝らして見ると、外の黒い影は細かい粒子の集まりのようにも見えた。まるで黒い霧だ。


「なんだろう……?」


 九十九にしては様子がおかしい。

 窓を開けて確認したほうがいいのかと鍵に手を掛けた有栖の耳に、背後にいた小虎の焦った声が届いた。


『お、お雪! すぐに窓から離れて!』

「にゃあ!」

「え?」

はよう!』


 小虎と小幸が有栖の裾を咥えて引っ張り、窓から離される。

 黒い影は霧が晴れていくように消え去った。代わりに、窓の向こうにはいつもと同じ、向かいの家の明かりが見えた。

 有栖の足に擦り寄ったままの二匹が震えている。


「ありがとう。ふたりとも、大丈夫?」

『お、おう! おいら達は平気やで!』

「にゃあ……」


 小虎は強がってみせるが、小幸はその場に座り込んでしまった。

 二匹の前にしゃがんで頭を撫でてやれば震えが収まっていき、やがて、小虎が先ほどの影について口を開いた。


『さっきのなぁ、学校で九十九を襲ってた影と同じ響命力しとったんや』

「え……」


 では、あの影は小虎達を狙ってここまでやって来たのか。庵の張った結界を潜り抜けて。戻ってくる気配がないのは、まだ階下にいるであろう家族の基獣に気づいたからか。

 怨獣が基獣に怯えて逃げることは、種類によってはあると聞いたことがある。例えば、怨獣にとって基獣が天敵に当たるものであったり、位が高く対抗できないと察知したときだ。

 やはり、二匹は然るべき人達に預かってもらうほうが良いのだろうかと黙考した有栖に、小虎が遠慮がちに言う。


『おいら、やっぱり、犯人が捕まるまではお雪のそばにおらんほうがええんかな……?』

「…………」


 有栖の身を案じての言葉だ。自分達が狙われているのならば、親しい人は巻き込みたくない。

 小虎も考えていないわけではなかった。有栖に甘えて、そばに置いてもらっているという自覚もしっかりある。


『お雪が危ない目に遭う前に、おいら、ちゃんとしたとこ行くよ』

「小虎ちゃん……」

『お雪の怪我、これ以上増えてほしくないねん』


 右頬の怪我は、出血はとっくに止まっているが、完全に消えるまではまだ時間はかかるだろう。しばらく、顔を洗うときに滲みそうだ、と入浴しながら思った。

 小虎の悲痛な声に、有栖の胸が締めつけられる。自分に基獣がいれば、ふたりを守ってあげられるのに、と。

 だが、そう簡単に基獣が現れてくれるはずもない。

 有栖は視線を落とすと、膝の上に置いた手を握りしめた。


「ごめんね。私が、もっとしっかりしていたら良かったのに……」

『そんなことあらへん! お雪はおいら達にようしてくれたもん! 気にせんといてーな!』

「にゃあ!」

「……ありがとう」


 励ましてくれる二匹に有栖は微笑んで返すしかできなかった。

 時計を見れば、既に十一時を過ぎていた。予習はまだすべて終わってはいないものの、今日はもうできそうにもない。

 教科書とノートを片づけ、有栖は二匹に「もう寝よっか」と促してベッドに入った。

 小虎は有栖の枕元に寄り添い、小幸はその背に顎を乗せる。


「明日、ちゃんと皆に相談しようね」

『……うん』


 影は戻ってきていない。位としては普通だが、それでも両親の基獣が良い牽制になっているのだろうか。

 有栖は明日の朝、両親にも礼を言うべきかと思いつつ目を閉じた。



   ◇ ◆ ◇ ◆



「「家に影が来た!?」」


 翌朝、登校した有栖は、既に教室にいた隼人を見つけると昨夜のことを説明した。

 一緒にいた凛と声が揃い、二人は顔を見合わせた後、無言のまま「揃えるなよ」と視線でいがみ合う。

 恭夜には登校の途中で話したが、彼は彼で「だから俺は反対したんだ」と昨日の帰りで猛反対していたことを上げた。


「もしかして、その怪我はそれでついたやつとか?」

「ううん、これは違うの。小虎ちゃん達が引っ張ってくれて、窓から離れたらどこかに消えていって、それっきり戻ってもこなかったよ」


 起きてから両親に基獣が異変を感じていなかったかと問えば、二人とも首を振っていた。どうやら、基獣が牽制をしていたわけではないようだ。

 ならば、なぜ影が逃げていったのかと疑問に思ったが、答えを見つける方法はない。

 隼人はなにかを考えていたが、少ししてすぐに「よし」と完結したのか口を開いた。


「じゃあ、俺が九十九預かってやるよ」

「不安」

「同じく」

「なんでだよ!?」


 間髪入れず凛と恭夜が不満を零した。

 隼人の基獣は見た目こそ愛らしいイタチだが、位は第二位とこの四人の中では最も高い。基獣学での実戦でも相応の強さを見せている。

 それでも不安と言われるのは、基獣ではなく隼人自身にあった。


「あんたの場合、小虎達の手綱を握れなさそう」

「うん」


 凛の冷静な判断に恭夜が頷く。

 隼人は妹や弟がいることもあって、面倒見はかなり良い。ただ、それはあくまでも対人間だ。九十九ともなれば勝手は微妙に違う。

 しかし、隼人も生徒会役員を中学の頃から続けているため、九十九や基獣の扱いに関しては自信がある。


「俺だって、九十九の一匹や二匹くらい面倒見られるぜ」

「舐められて終わりじゃない?」

「うん」

「うるっせぇ! 恭夜も頷いてんじゃねーよ!」

「いや、そうでもない」

「そこは頷けよ!」


 まさか否定されるとは思わず、声を荒げる。

 唯一、有栖だけが状況に慌てており、冷やかす気配はない。


「もー、ホント、なんなのお前ら。ちょっとは御雪ちゃん見習ってよ」

「お前がな」

「泣いていい?」


 扱いがぞんざいすぎる。

 すると、状況を見ていた有栖が戸惑いつつも場を収めようと口を開いた。


「ご、ごめんね。私が基獣を持っていたら、うまくできたのかもしれないのに……」

「ん? ああ、御雪ちゃんが気にすることじゃないって」

「そうそう。最初からこうすれば良かったのよ。あの会長、変なところで気が回りきってない」


 有栖を気にかけている庵だが、たまに詰めが甘いと思うことがある。昨日の美里の件は仕方がないとはいえ、小虎達については事前に防げたはずだ。

 憤りを滲ませる凛に苦笑を零しつつ、有栖は一応、フォローを入れておくことにした。


「御巫先輩は忙しい人だし、ここまで気を回してくれているだけでもすごいよ」

「ホント、あんたのお人好しは脱帽もんだわ」

「え」


 昨日といい、苦手意識のある庵に対する気遣いといい、有栖の将来が若干、心配になった。

 そこで始業のチャイムが鳴り、それぞれが机に戻る中、隼人は有栖に確認する。


「それじゃあ、俺が預かるってことでいいんだよな?」

「うん。迷惑をかけちゃうけど、ふたりのこと、お願いします」

「おう。任せとけ」


 ここに二匹はいないため、隼人に預けるのは放課後になってからだ。

 自身の席に戻りながら、また学校の外で待っているであろう二匹を思い浮かべる。


(これで、あの二匹も安心できるかな)


 あとは犯人が捕まれば万事解決だ。

 ほっと胸を撫で下ろし、有栖は前を向いた。

 一方、九十九を託されることになった隼人は、教師が前で話す内容そっちのけで机の中でスマホを操作する。


“今日から、例の九十九は俺が預かりますね。どうも、御雪ちゃんとこに犯人っぽいの出たみたいなんで”


 スマホの連絡アプリで会話にも出ていた人物にメッセージを送れば、あちらもホームルーム中であるにも関わらず、既読のマークがついた。


(おお。さっすが、気に入ってる人のことになると早いな)


 さすがに返信はなかったが、彼にとって特に気にしていない相手のことであれば既読すらつかないのだ。もちろん、休み時間などで手が空いていれば別だが。

 スマホを制服のポケットに戻し、隼人は有栖の頬に貼られた絆創膏を思い出す。

 先ほど、怪我が影によるものかと訊ねたが、昨日の出来事を知っている隼人にとっては我ながら愚問だった。訊かないと不自然かと思っての質問だったが、気づいていた凛から向けられた視線は痛かった。


(そういや、怪我のことまで報告してなかったな……。……まぁ、あの時は見えてなかったですって言えば通じるか)


 昼休みの一件はコンを通じてしか見えなかったため、誤魔化しは利くだろう。そもそも、見るようにと指示がなければ隼人も昼休みの件を知ることはなかったのだ。

 追究されたときの言いわけができた隼人は、小さく「よし」と呟いて教師の話に耳を傾けた。



   ◇ ◆ ◇ ◆



 放課後になり、有栖はさっそく小虎達を隼人に預けるべく、恭夜と隼人と共に待ち合わせの場所としていた正門前に向かった。凛は委員会があるから、と一緒には来ていない。

 三人が正門に着き、待っているであろう小虎の姿を探す。

 だが、視界に小さな虎と子猫の姿は入らなかった。


「いない、な」

「どこ行っちゃったんだろう……」

「もしかして、何かに巻き込まれたか?」


 有栖の姿を見つければあちらから寄ってくるだろうが、一向に二匹の声は聞こえない。

 隼人が嫌な予想を口にすれば、有栖の表情が陰る。


「…………」

「いっ!?」


 恭夜が無言で隼人の足を踏んで黙らせ、安心させようと有栖の頭を撫でた。痛みに声を上げて非難の視線を向けてくる隼人は無視だ。


「多分、その辺で遊んでるんだろ。手分けして探そう」

「う、うん」

「頼んだぞ、昴」

「ワンッ!」


 恭夜が基獣を顕現し、じゃれつく昴を宥めてから西側に向かって走って行った。

 その後ろ姿を見ていた隼人もコンを顕現させて、「それじゃ、俺もその辺見てくる。なんかあったら連絡ね!」と言って恭夜とは反対に進んだ。

 残された有栖は自身の力でのみ探すことになるが、小虎達が有栖を見れば向こうから寄ってくることもあり得る。


「早く見つけないと」


 小さく呟いてから、有栖はもしかしたら校内に入っているかもしれない、と踵を返した。




「……あれ?」

「どうかしたか?」


 生徒会室で仕事に取り組んでいた庵は、ふと、校内に引き返す有栖を見つけて手を止めた。

 たしか、隼人が小虎達をしばらく預かるという話になり、放課後に引き渡す予定だったが、なにか異常事態が起こったのだろうか。

 声を上げて手を止めた庵に斜め向かいにいた透真が首を傾げる。


「あの九十九は正門の所にいた気がするけど……見間違いだったかな?」

「は? ……ああ、あの張子と招き猫の。いや、俺もここに来たときはいたの見たぞ」


 まだ生徒会室に来て十分ほどだが、来たばかりのときは正門で二匹仲良く並んでいるのを見た。庵が微笑ましそうにそれを見ているのも。

 しかし、何かあったのか二匹の姿は正門にはなく、有栖が連れている気配も、高校の北側を歩く隼人が連れている様子もない。

 庵はスマホを取り出すと、通話履歴から隼人を選んで発信を押す。数度の呼び出し音のあと、隼人が電話に出た。


《お疲れさまでーす。庵さん、見てました?》

「うん。何かあったの?」

《それが、九十九二匹がどっか行っちゃってて、三人で手分けして捜索中です。御雪ちゃんなら、校内見に行ってますよ》

「みたいだね。二匹には校内へ入らないようにと言ってはあるけど、さっそく忘れちゃったかな」


 昨日の今日で忘れたとは思いたくはないが、事実ならば強制的に弾き出すしかなくなる。

 だが、二匹を見つけていない以上、まだ判断はつけられない。


《さぁ? どうなんですかね。入らなきゃいけない状況なら話は別でしょうけど、でも、放課後で帰る生徒もいる前で襲われることはないと思いますけどね》

「分かった。こちらでも皆に話しておくよ」

《お願いします》


 通話を切れば、窓の向こうにいた隼人は再び捜索に戻った。有栖の姿は校舎の死角に入って見えなくなっていた。

 生徒会役員に連絡アプリでメッセージを飛ばせば、そのグループの一人である透真はスマホを見ながら言う。


「まさか、お前まで動くとか言い出すなよ」

「え?」

「なに、『動いて当たり前』みたいな顔してんだ。治安部隊への報告書も溜まってんだから、お前はそっち」

「ええー……」


 校内の事を生徒会で片づける、と言い出したのは庵だ。そのため、現状を逐一治安部隊に報告する必要がある。ただ、状況が進展していないため、報告も書くことがないのだ。

 治安部隊は学校周辺を捜査しており、校内に足を踏み入れたのは先日の一件だけ。その後は一切、やって来ていない。

 嫌そうな声を上げる庵に、透真が溜め息を吐いた。


「お前、ホントに事務作業嫌いだな」

「うん。陣地で指揮する軍師より、前線で戦う将軍のほうが性に合ってるんだ」

「将軍も『最前線』には立たないだろうけどな」


 庵は目を離せば騒動の中心に突撃しているときがある。

 透真としては庵に大人しくいてもらいたいのだが、本人がそれを全力で拒むのだから止めようがない。それでも、毎回、止めに入るのはもはや癖と言っていい。

 イスに凭れ掛かってペンを片手で回しつつ、今回も庵を事務作業に戻させようと説得する。


「ま、校内を探すんならあいつも大丈夫だろ。だから、大人しく仕事を――」

「透真甘いなぁ」

「は?」


 夜なら危ないかもしれないが、今は部活のために人も多く残る放課後だ。

 九十九襲撃犯が出てくる可能性も低いと見た透真だったが、庵は笑うように言うとペンを置いて立ち上がった。

 そのまま出入り口に向かう庵に「まさか」と思えば、そのまさかになった。


だからこそ、危ないんだよ」

「え? あ、おい!」


 扉を開けて振り返った庵は綺麗に笑みを浮かべると、それだけを言い残してさっさと部屋を出て行った。

 残された透真は、庵が置いていった書類を見て小さく舌打ちをした。


「くそ、仕事溜まるっつってんだろうが……!」


 締め切りの期限は明日だ。

 果たして、今日中に片づくのだろうか、と透真は深い溜め息を吐いた。

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