第11話 命名
完治したと思われていた病気が再発して、あれよあれよと言う間に入院してから数日が経つ。
病室は大部屋ではなく個室のため、誰かが訪ねてこない限りは人の気配を感じられず、少しずつ寂しさが募っていく。
ベッドで上体を起こしていた前野祥子は、そんな寂しさを払拭するかのように溜め息を吐いた。
(小虎は元気かしら……)
家に残っている小さな九十九を思い浮かべる。
寂しがり屋なくせに変に強がりな張子の虎は、家族に聞いた話では昨日、勝手に家の物を持ち出して新しい九十九を具現化させてしまったようだ。ただ、具現化は偶然起こってしまったことのようで、具現化に関わった生徒は酷く驚いていたとも聞いた。
(早く元気になって、帰ってあげないとねぇ)
新しい九十九にも会いたい。そして、具現化をしてくれた生徒にも会ってお礼を言いたい。小虎に仲間を作ってくれてありがとう、と。
小さく微笑みを零せば、こんこん、と控えめなノックが聞こえた。
「はい?」
誰だろうかと思いつつ返事をすれば、ゆっくりと扉が開かれる。
入ってきたのは、幼い頃からよく知る少女と幼馴染の青年だった。祥子が夫と駄菓子屋を営んでいたときに毎日のように店に来ていた二人は、今も変わらず二人でよく一緒にいるようだ。
「あらあら。有栖ちゃんと恭夜君じゃないの」
「こ、こんにちは」
「突然、押し掛けてすみません」
「ふふっ。いいのよ。個室で他に人がいないから、とても寂しかったの」
できることも特になく、ただ窓から外を眺めては定期的にやって来る看護師や医者と話をするくらいだ。家族も仕事があるからと毎日は来ない。
だからこそ、誰かが来てくれるのは心の底から嬉しかった。
ベッドの横までやって来た有栖が、左腕に刺された点滴を少しだけ痛々しそうに見ながら訊ねてくる。
「お身体の調子はどうですか?」
「今は大分落ちついて、こうやって起きていても平気なの」
ベッドはスイッチで頭側を上げているため、辛くなれば凭れ掛かれる。しかし、今は二人が来てくれて気分が良くなった。
祥子は有栖を見ると、「そういえば」と退院してから言おうと思っていた言葉を口にした。
「ありがとう、有栖ちゃん」
「え?」
「息子から聞いたわ。小虎の『我が儘』を聞いてくれたって」
「……あ」
抽象的な言い方だったが、有栖には何を指しているのかすぐに分かった。
小虎を心配していた祥子にとって、新しい九十九の存在は何よりも救われた。今の自分では、到底、九十九の具現化は不可能だからだ。
気まずそうに視線を落とした有栖に、祥子は優しい笑みを向ける。
「大丈夫。心配しないで。私もね、九十九があと一人いてくれたらって思ってたの」
「おばあちゃん……」
「私の響命力はすっかり減ってしまったから、もう九十九を具現化させるのも難しいのよ。だから、ありがとう」
彼女の家族からも具現化について咎められることはなかった。その理由が、元々、九十九の具現化を望んでいたからだと知り、有栖の中で不安がひとつ消えた。
そのとき、肩に掛けたトートバッグの中で「それ」が小さく身じろいだ。本来の目的は正面から許しを得ることではない。
「あ、あの、前野のおばあちゃん」
「なあに?」
「その……ごめんなさい。先に、聞いてから連れてくるべきなんですけど……」
「え?」
ここまできて引き下がるわけにはいかない。覚悟を決めて、トートバッグの紐を片方外して袋を開ける。
目を瞬かせる祥子の目の前でトートバッグからひょっこりと顔を出したのは、彼女がずっとずっと会いたかった姿だった。
『おばあ!』
「あら!」
顔を覗かせた小虎は、トートバッグからうまく出られずにばたばたと暴れつつ祥子のベッドになんとか飛び乗った。
驚く祥子の前にお座りをした小虎は、『お雪にお願いしてな、連れてきてもろたんよ!』と簡単に説明する。
痩せて骨が浮き出た細い手が小虎の頭を撫でる。久しぶりの感触に、小虎は嬉しそうに目を細めた。
「あらあら。本当に、困った子ねぇ……」
『……おばあは、嬉しくなかった?』
苦笑を零す祥子を小虎が不安げに見上げる。小虎も自分がここにいることが「良いこと」でないと分かっていた。
病院に九十九は入れない決まりだ。見つかれば有栖や恭夜に迷惑がかかるからこそ、祥子は小虎の行為を褒めてはあげられない。だが、想いが痛いほどに伝わってくるからこそ、小虎を叱ることもできなかった。
祥子は小虎を抱えると、自身の想いを返すように抱きしめた。
「そんなわけないでしょう。とーっても、嬉しいわ」
夫が亡くなる前に具現化した小虎は、彼からの「祥子を頼んだぞ」という約束を律儀に守り続けている。小虎が家にいたからこそ、夫が亡くなっても寂しさに溺れてしまわなかった。
小虎は不安そうな顔を消し、安堵の表情で祥子に体を預ける。命を刻む鼓動の音が心地良かった。
そこへ、もうひとつ、トートバッグに一緒に入っていた存在が「忘れるな」とでも言うかのように鳴いた。
「にゃー」
「あら……? この猫ちゃん……もしかして、うちにいた招き猫かしら?」
ベッドに飛び乗って歩み寄る白い毛に黒や茶の模様が入った子猫を見て、すぐに自宅にあった招き猫の姿が一致した。
小虎は招き猫の九十九の声と姿に、本来の目的を思い出して声を上げる。
『あ! 忘れとった!』
「にゃああ!」
『堪忍なー』
非難するような鳴き声を上げる子猫に小虎は軽く謝った。
祥子の腕から離れて子猫の隣に座ると、小虎は祥子に向き直って子猫を紹介した。
『お雪に具現化してもろた、招き猫の九十九やねん! 名前はまだないんよ』
「ああ、やっぱり。模様が招き猫のままだから、すぐに分かったわぁ」
息子に聞いていたこともあるが、招き猫は何十年も見ていたのだ。聞いていなかったとしても分かっただろう。
微笑んだ祥子は招き猫の九十九に手招きをしてそばに寄せると、小虎にしたのと同じように抱き上げた。毛自体は柔らかいが、撫でたときのつるりとした感触はあの招き猫のままだ。
小虎が祥子の膝に前足を置いて小さく首を傾げる。
『おばあ、こいつの名前決めたって? おいら達じゃあ決めれんけん』
「そうねぇ。招き猫だから……あ、そうだわ」
「?」
祥子は思案しながら、ふと、有栖を視界に入れて何かを閃いた。招き猫の九十九を具現化した有栖と招き猫という二つのキーワードで、いい名前が思い浮かんだようだ。
また微笑んだ祥子は、子猫に視線を落として命名した。
「『
商売繁盛という願掛けもあるが、それも幸せには繋がる。
そして、命名の理由はもうひとつあった。
「有栖ちゃんの苗字は『御雪』でしょう? ほら、『ゆき』っていう同じ言葉が入っててお揃いにもなるから」
「あ」
具現化をしたのは有栖だ。まさか、自身の名前の一部を入れられるとは思わず、本当にそれでいいのかと戸惑う。
だが、祥子の中ではすっかり「小幸」で決まってしまっていた。
「どうかしら?」
『ええと思う! めっちゃええよ!』
「にゃあ」
命名された子猫改め小幸よりも先に頷いた小虎だったが、小幸も満足している様子だった。
小虎が小幸の名前を連呼する傍ら、有栖は申し訳なさそうに言う。
「すみません。気を遣っていただいて……」
「ううん。そんなことないわ。ここまで小虎の我が儘を聞いてくれたんだもの。ありがとう」
二匹に会わせてくれて。
そう続けた祥子の表情が、一瞬だけ悲しげなものになった。
すべてを言わない彼女の様子に胸騒ぎがした。
「おばあちゃん。病気って――」
「前野さーん。入りますよー」
有栖の声は、ノックと共に掛けられた声に重なって消えた。
開かれる扉の音で慌てて恭夜が二匹を掴んで、小幸はトートバッグへ、小虎は自身の背中に隠す。
早技に祥子が目を瞬かせ、有栖は咄嗟にトートバッグの口を掴んだ。
入ってきた看護師は、今まで見たことがなかった二人の姿にきょとんとした。
「あれ? えっと……お孫さん、ですか?」
「い、いえ。前野のばあちゃんとこの常連です」
「は、はい」
危うく二匹が見つかるところだった。
トートバッグの中で小幸が身じろぐが、看護師の視界にはうまく入っていないようだ。また、恭夜の背に隠された小虎も、恭夜が看護師に向いているために見つかっていない。態勢はおかしいが。
看護師は祥子が家で何をしていたかを知っていたようで、恭夜の言葉にすぐに納得した。
「ああ、なるほど。前野さん、駄菓子屋さんもやってたんでしたっけ」
「ええ。主人が定年したあとにね。この二人がずっと来てくれてて、今も家にいる九十九の面倒を見てくれているの」
「そうなんですね。そしたら、前野さんも早く治して帰らないといけませんね」
「ふふっ。そうねぇ」
看護師は世間話をしながら、ベッドの足下の方に置いていたテーブルにボードを置いて体温計をポケットから取り出す。
作業をしている合間に、有栖が恭夜のそばに寄ってこっそりとトートバッグに小虎を入れる。祥子が看護師の気をうまく逸らしてくれたおかげで、バレることなく二匹を隠すことができた。
「じゃあ、ちょっと体温測りますねー」
どうやら、今から定期的な回診に入るようだ。
時計を見れば夕方の五時を回っており、自分達も帰ってやらなければいけないことがある。
「有栖」
「う、うん。……おばあちゃん、また来てもいいですか?」
「もちろん。楽しみにしているわね」
『おばあ、おいらも?』
「え? 今の声は……」
有栖が再来の許可を貰えば、小虎がひょっこりとトートバッグから顔を出した。咄嗟に聞きたくなったのだろうが、今は顔を出していいときではない。
看護師が振り向くより先に恭夜が小虎の頭を押し込み、気まずそうな顔で「えっと、俺の昔の呼び方と一人称なんです」と誤魔化した。
明らかに声色は違っていたが、看護師は自身の仕事もあるからかそれ以上の追究はしなかった。
「いつでも来てね」と言ってくれた祥子に小さく頭を下げてから病室をあとにした二人は、トートバッグの中でごそごそと動く二匹を気遣って足早に病院を出る。
距離が離れた頃、ようやく有栖がトートバッグから二匹を出した。
『よっと!』
「にゃっ」
地面に軽やかに着地した二匹は、しかし、すぐに有栖の肩に登った。どうやら、自分で歩く気はあまりないようだ。
左肩に乗った小虎を見て、すぐ隣を歩く恭夜が不満を漏らした。
「お前な、あそこで喋るなよ」
『ええー。せやかて、おいらも来てええか聞いときたかってん』
「そのせいで俺の昔の一人称が『おいら』だからな。ふざけんな」
自分を「おいら」と言ったことなど一度もない。呼び方に文句は言わないが、自身の性格上、ありえない呼び方に鳥肌が立った。
伸ばされた手が小虎の頬を掴むより早く、小虎がその手を叩き落とした。
『暴力反対!』
「誰のせいだ、誰の」
再び頬を掴もうと手を伸ばすも、小虎はすべてを叩いて近づけさせなかった。端から見れば遊んでいるようだ。
有栖はくすりと笑みを零すと、右肩にいる小幸と顔を見合わせた。
「二人とも、仲良いよね」
「にゃあ」
「『仲良くない!』」
喧嘩するほど仲が良いと言うが、まさしくふたりはそれに当てはまるのだろう。
まだ言い合いをするふたりを止めることはせず、有栖は帰るために歩き出した。
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