第9話 明と暗


 珠妃が来てくれたことで、昼休みの一件はなんとか丸く治まった。

 未だに自分が誰かを殺そうとしていたとは思いたくないが、現場を見た二人が嘘を言っている様子もなく、また、有栖の頬にあった傷や上部が一箇所外れたフェンスを見れば嫌でも事実なのだと分かる。

 ただ、美里にとっては身に覚えのない殺人未遂よりも、例え友人であろうとも「生徒会役員」に見つかったことが何よりも恐ろしかった。

 あの後、教室に帰るまでの道のりで珠妃と何か言葉を交わすことはなく、ただ教室に送り届けられた。

 珠妃はすぐに自分の教室に戻り、その後も生徒会からの接触が驚くほどなかったということが、逆にこれから起こる事の大きさを物語るようで気が気ではなかった。


(今日は早く帰ろう。それで、さっさと課題を済ませて――)

「みーさーとー」

「っ! ……な、なに?」


 放課後になり、帰り支度を黙々としていた美里を教室の出入り口から呼んだのは、昼休みに別れて以来会っていなかった珠妃だ。

 いつもと変わりない落ちついた声と表情だが、今は不気味に思える。

 鞄を持って彼女のもとに歩み寄れば、以前ならば浮き足だっていたであろう言葉が告げられた。


「御巫会長がね、話があるんだって」


 心臓が大きく跳ねた。

 庵から呼び出されることは今まで一度たりともない。微々たる可能性を期待して喜ぶどころか、死刑宣告にも似た、どん底に突き落とされたような気分だ。

 鞄を持つ手に力が入る。足が震えて動かない。頭が痛んで目眩を覚える。

 なぜ、彼はこのタイミングで呼び出しをするのか。答えなど一つしか出てこない。

 今にも倒れそうに顔を歪めた美里の手首を、表情ひとつ変えない珠妃がしっかりと掴んだ。


「忘れてないよね? 『あとのことは、生徒会に任せて』って言ってたの。だから、そんなに手早く荷物纏めてたんでしょう?」

「あ……」


 逃がさない、と言外に示すかのように握られた手に力が入った。

 目の前の友人は、とてもあっさりとした少女だと感じたことは多々ある。いつも周りとは一線を引いた先にいて、深く踏み込んでこようとしない。かといって、こちらを見下して突き放すようなこともなく、広く浅い交友関係を器用に構築していた。

 一度、他の友人から聞いたことがある。


 ――珠妃って、何かやらかした友人がいたら、容赦なく切り捨てるんだって。


 そのときは、人当たりの良い珠妃しか知らなかったため、「やらかしたその子が悪いし、珠妃は生徒会の仕事をきちんとやってるじゃないの」と言い返せた。周囲の友人達も似たような反応だった。

 まさか、それが自分に向けられる日が来ようとは思いもしなかった。


「さて、生徒会室に行きますかー。そうだ。飴食べる? ストレスには甘い物だよ」

「あ、ありがとう……」


 嫌だ、とは言えなかった。

 あっさりとした珠妃がポケットから赤と白の包み紙の飴を取り出し、美里に差し出す。

 しかし、片手が塞がれている上に気分的にも食べることができないため、そのままポケットに入れた。その際、指先に何か硬い物が当たったが気にしている余裕はない。

 珠妃は片手で器用に包みを開けると飴を口に放り込んだ。

 彼女の肩に現れた茶色のリスが、掴まれた腕を伝って美里の肩に乗る。ふさふさとした二本の尾と額の赤いスペードを逆さまにしたような模様が特徴的なそのリスは、珠妃の基獣の木葉このはだ。

 彼女自身が本気を出すことがあまりないため、木葉の実力がどの程度なのかは分からない。ただ、生徒会役員を務める彼女の力が自身よりあることは確かだ。

 木葉が美里の首に身を寄せ、完全に逃げ場を奪う。首を擽る二本の尾が諦めろと言っているようだった。

 腕を引かれて生徒会室に向かう途中、友人にすれ違うも、彼女達は「美里、珠妃。またねー」と挨拶を交わして帰って行く。珠妃も平然とそれに返しつつ、足を止める気配はない。

 やがて、北館の四階、西の端にある生徒会室に着いた。


「失礼しまーす」

「…………」


 間延びした声で生徒会室の扉を開けて入る珠妃に続いて美里も足を踏み入れる。喉が震えて声は出ない。

 普通の教室と違って、生徒会室は長机が長方形に並べられており、正面にホワイトボードが置かれている。

 ホワイトボードには昨日の会議の内容がまだ残されており、学校周辺の九十九襲撃事件の被害状況が書かれていた。今朝、見つかった校内の一件については何も記述がない辺り、これから追加していくのだろう。

 反対の壁にはロッカーや棚が並び、中には様々な資料が保管されている。

 俯いたままの美里の耳に、入室に気づいた穏やかな声が届いた。


「こんにちは、先輩。突然、お呼びしてすみません」

「う、ううん……」


 窓辺に立って正門を眺めていた庵は、美里を視界に入れるといつもと同じ優しい笑みを浮かべた。

 以前ならば浮き足立つその表情が今は逆に恐ろしく、絞り出した声は詰まり気味になってしまった。

 庵とは反対の、部屋の後ろの窓際に着いたところで、ようやく珠妃が美里の腕を解放し、鞄を手近なイスの上に置いた。一番後ろの窓際が彼女の定位置のようだ。美里の肩にいた木葉も机に飛び乗ると、主人のもとに戻った。

 そんな珠妃に、庵はさっそく仕事を頼んだ。


「珠妃先輩、外回りお願いしますね」

「……りょーかーい」

「えっ」


 他の役員は部屋にいない。あとから来る気配もない今、珠妃に出て行かれると気まずい空気しかない。

 焦ったように、今度は美里が珠妃の腕を掴んだ。がり、と珠妃が口の中で飴を噛み砕いた音がやけに大きく響いた。


「ま、待って」

「弁解の余地はないだろうけど、努力する価値はあるんじゃない? 彼が聞く耳を持っているかは別だけど」


 困惑する美里に淡々と言うと、珠妃は美里の腕を簡単に剥がして生徒会室を早々に出て行った。

 足音が遠ざかり、外の生徒の帰る声だけが聞こえる室内。階下では吹奏楽部が楽器の準備をしているのか、賑やかな声を上書きするように楽器の鳴る音も響いてくる。

 沈黙が重く感じるのは美里だけなのか、と疑いたくなるほど庵は普段と変わりなく、先に口を開いたのも彼だった。


「二人っきりになったのに、落ちつかない表情ですね。以前なら、すごく喜んでいたのに」

「あ、えっと……」


 じりじりと詰め寄る庵から逃れるように、美里は少しずつ下がった。

 確かに、以前の自分ならば大喜びで現状を受け入れていただろう。ただし、朝に釘を刺されてすぐに昼間の件があったことを鑑みれば、この状況は何よりも避けたかったことだ。

 腕を伸ばせば届く距離にまで詰め寄られると、庵は突然、美里の腕を掴んで背後のロッカーに押さえつけた。

 激しい衝突音が教室内に響く。

 頭や背中を打った痛みのせいか、欠けていた記憶がノイズ混じりに浮かんできた。

 昼休み。

 屋上庭園。

 不安げに何かを懇願する有栖。

 そして、辺りに舞う青紫色の鱗粉とそれを撒く漆黒の蝶。

 鮮明になった記憶には、今と酷似した、しかし、自分が加害者となって有栖をフェンスに押さえつけている光景があった。


(これは、なに……?)

「良かったですね、先輩」

「いっ、た……」


 庵の声は普段からは想像もできないほどに低く、氷のように冷たい。腕を掴む手にさらに力が込められ、引き千切られるのではないかと思った。

 顔の横に強く突かれた手は固く握られており、耳元で囁かれた言葉は美里をさらに突き落とした。


「ここが、


 この人を敵に回してはいけないと、全身が告げていた。




(あーあ。御巫会長、マジギレしてんじゃん)


 生徒会室をあとにして校外に出た珠妃は、部屋に入ったときの庵の様子を思い出して心の中で美里に合掌した。怒った庵を宥めることができる者は、果たしてこの学校に、この世界にいるだろうか。

 有栖と美里の件を庵に報告したとき、彼は一瞬だけ驚いた顔をしていたが、すぐにそれを消し去ると、何か思案しながらも「そう」と短く返した。そして、放課後に入るなりスマホの連絡アプリにメッセージが入った。


 “伊知崎いちさき先輩を生徒会室まで連れてきてくれませんか?”


 メッセージからも苛立ちは伝わってきたが、実際に会ってみると早々に白旗を挙げて立ち去りたい気持ちにさせた。美里に腕を掴まれたときは、苛立ちから思わず飴を噛んでしまった。

 彼の基獣が出ていなければいいんだけど……と思いつつ、珠妃は肩に乗せた木葉の頭を撫でてやる。

 美里に申し訳ない気持ちは僅かにあるものの、わざわざ庵が注意をしていたにも関わらず害を成してしまったのが運の尽きだ。

 ひとつ溜め息を吐いて辺りを見渡していた珠妃は、ふと、正門の斜め向かいに建つ家の軒先に見覚えのある張子の虎の九十九を見つけた。

 傍らで丸まっている子猫とは対照的に、小さな虎は座った姿勢のまま正門から出てくる生徒を見つめている。


「こーとら」


 リズムをつけて軒先の九十九を呼んで近づけば、小虎は珠妃に視線を向けた。

 初めのうちは誰であるか認識できなかったようできょとんとしていたが、記憶にある顔と名前が一致したのか耳をぴんと立てて嬉しそうな声を上げる。


『あ! 「折り紙のねーちゃん」!』

「お、り、か、さ」

『間違えてしもた? 堪忍なぁ』

「別にいいけど……何かあったの?」


 申し訳ないと思っているのか、耳を寝かせた小虎をこれ以上、責める気はない。

 話題を変えつつ小虎の前にしゃがめば、彼は深い溜め息を吐いた。とても九十九が吐くものと思えないそれは、小虎にとってただ事ではないことが起こったのだと分かった。最も、招き猫の九十九は、そのただ事をよく理解できていないのか未だ眠ったままだが。

 話を聞いてくれる姿勢の珠妃を見て、小虎は朝にあった件を話した。


『あんなぁ、おいら、学校に入ったらいかんのやって。行ったら怖い人ら呼ぶって!』


 九十九がしばらく校内に立ち入り禁止になったとは珠妃も知っている。

 そういえば、小虎はよく学校に来ては遊んでいたな、と思い出した。

 立ち入り禁止ともなれば、小虎の日々はがらっと変わる。今までできていたことが、自分の納得しない内にできなくなるのは辛いだろう。

 現に、小虎は頬を膨らませると文句を口にした。


『酷いわ! かいちょーさん、虫もよう殺さんような顔してえげつないわぁ』

「あの人、ああ見えて結構、やる事荒いんだよ。どっちかって言うと短気だし」

『それにしても荒すぎやろ。高校に犯人おるかもしれんからって、特殊な結界? とかを張るとかなんとか……あ。しもた。これ、言うたらいかんのやってん! 忘れて! 今すぐ記憶なくして!』

「ええ……。なかなかハードな注文つけてくるね」


 不貞腐れていた小虎だったが、すぐに庵の言葉を思い出し、慌てて珠妃の膝に前足を置いて懇願する。小虎の異変に気づいてか、招き猫の九十九が驚いたように飛び起きた。

 だが、いくら珠妃でもそんなに都合良く記憶はなくせない。

 すると、小虎は泣きそうな顔で言う。


『かいちょーさんが、「一部の人しか知らん」って』

「……ああ、なるほどね」


 一部の人しか知らないからこそ、秘密にしておかなければならなかった。どうやら、庵は肝心の「一部の人」がどの範囲かは言わなかったようだ。

 焦る小虎を宥める方法を見つけた珠妃は、小虎の頭を軽く叩くように撫でる。


「大丈夫。あたしは知ってるから」

『そうなん?』

「そうなん。ほら、あたしってこう見えて『かいちょーさん』と同じ生徒会の人だから」


 小虎の言葉をオウム返しにしながら頷き、自身の立場が庵と近しいことを告げれば、小虎は目を瞬かせながら前足を珠妃の膝から降ろした。


『「せーとかい」の人は知ってるん?』

「ううん。全員じゃないから、もう言わないほうがいいかな」

『分かった! 気ぃつけるわ!』


 知っている人だったのは幸いだ。

 小虎はもう言わないように、と心の中で「喋ったらあかん、喋ったらあかん」と繰り返す。だが、それも正門から出てきた姿で止まった。


『あ! おーゆーきー!』

「にゃあああ!」

「おやおや」


 声を上げてそちらに駆けていく二匹を珠妃は微笑ましげに眺める。

 正門から姿を現したのは、帰宅途中の有栖と恭夜だ。

 胸に飛び込んできた小虎を抱き留めた有栖は、頭を撫でてやりながら笑顔で訊ねる。


「小虎ちゃん、良い子にしてた?」

『しとった! ちゃーんと、外で待ってたで!』

「にゃううん」

「猫ちゃんも一緒に待っててくれたんだ?」

「にゃあ」


 飛びつけず、出遅れた招き猫の九十九は、有栖の足に前足を添えて鳴いた。

 有栖が小虎を抱えたまましゃがみ、子猫も撫でてやれば嬉しそうな鳴き声が返ってきた。

 小虎は有栖の頬に貼られた絆創膏に気づいて『お雪、顔どないしたん?』と問う。「ちょっと引っかいただけ」と簡単に言えば、『女の子なんやから気をつけてなぁ』と予想外の言葉が返された。

 隣にいた恭夜はその光景に溜め息を吐きつつ、小虎が走ってきた方を見て歩み寄る珠妃に気がつく。


「……ども」

「お昼ぶりだね。あ、美里のことは大丈夫だから心配しないで」

「…………」

「停学になろうが退学になろうが自業自得。まぁ、自主退学するかもしれないけどね」


 生徒の停学や退学処分は、影響を及ぼすことはあれど、生徒会の一存では決められない。そちらはあくまでも教師陣の仕事だ。

 珠妃の友人に対するものとは思えないあっさりとした発言に、有栖も恭夜も言葉を失う。心配すらしないのか、と。


「じゃ、あたしは巡回があるからこれで。お二人さんも、放課後デートもいいけど気をつけてね」

「はぁ……。……え!? いや、別に、俺達はそんなんじゃ……!」


 ひらひらと後ろ手に手を振って去る珠妃に恭夜が曖昧に頷いて返すも、すぐに彼女の言葉の意味を反芻して慌てた。

 彼女が本気なのか冷やかしなのかは定かではないが、やはり、幼馴染といえど一緒にいれば誤解を招くと再認識させられた。同学年の生徒はほぼ中学からの持ち上がりで、説明をしなくとも誤解されることはないため、二人でいることにすっかり慣れてしまっていたのだ。

 有栖を見れば、彼女は驚きで声が出なかったのか、小虎を抱きしめたまま固まっていた。


「……有栖」

「な、なに?」

「あー……あれだ。あんまり気にすんな。幼馴染なのには変わりないんだし」


 声をかければ、はっと我に返った有栖はまだ若干、赤い顔のまま恭夜を見上げる。

 それを見てなんと声をかける気だったのかと自問し、答えが見つからずに気まずくなって目を逸らす。後ろ頭をかきながら適当な言葉を選んだが、言ってから後悔した。

 有栖は何度か目を瞬かせたあと、「そう、だね」と小さく返す。ちくりと痛んだ胸に疑問を抱きつつ。

 すると、今まで二人を交互に見ていた小虎が声を上げる。


『なー。おいらのお願い聞いてーな』

「……覚えてたのか」

「あ、あはは……。まぁ、自分で言い出したことだしね」

『おいら、そこまでアホとちゃうし!』


 忘れていることも密かに期待していた恭夜だが、小虎はそこまで鳥頭ではなかったようだ。

 苦笑を零す有栖の肩に上った小虎の代わりに、子猫が有栖の胸元に飛び込む。小虎は見た目こそ小さな虎だが、体重は元が張子の虎だったせいかかなり軽く、むしろ飛び込んできた子猫のほうが少し重いくらいだ。

 つるりとした短い毛の手触りが癖になりそうだ、と子猫を抱えて思った有栖は、小虎に「お願い」について訊ねる。


「それで、お願いって?」

『あんなぁ、おいらとこいつを「おばあのとこ」に連れてって!』

「…………うん?」


 おばあのとこ、ということは入院している病院か。ただ、病院の決まりの一つを思い出した有栖は我が耳を疑った。

 小虎曰く、招き猫の九十九が具現化したことは彼女に伝わっているが、姿を見ていないため、早く会わせてあげたいようだ。また、自分が寂しくて会いたいということもある。後者が本命のような気もするが。

 恭夜は深い溜め息を吐くと、呆れたように小虎を見て言う。


「あのな、病院は原則として九十九の出入りは禁止だろうが。基獣でもたまに言われるんだぞ?」


 衛生上の問題として、九十九は病院には入れない。病院で具現化してしまった九十九は別のようだが、小虎と招き猫の九十九はどう見ても外から来た九十九だと分かる。張子の虎はともかく、病院で招き猫はあり得ない。

 人の心の具現化といわれる基獣ですら、病院内の場所によっては顕現させてはならないとされているのだ。

 そんな場所にどうやって連れて行けというのだと問えば、小虎はいけしゃあしゃあと言ってのけた。


『お雪は基獣おらんやろ? せやから、おいらとこいつが基獣ってことで! おばあは「こしつ」らしいけん、基獣はええって聞いたで。「ないすあいであ」やん!』

「馬鹿か。二匹も基獣連れている人は早々いないし、有栖の二重人格を疑われるだろ」

『そうなん?』

「うん。諸説あるけどね」


 小虎には、基獣は「人の心が具現化したもの」という認識しかない。

 基獣学で稀に複数の基獣を持つ人がいると学んだが、それも僅か一握りくらいの話だ。少なくとも、この町や周辺では聞いたことがない。また、複数の基獣を具現化させるということは、その数だけ別の人格があるのではないかという説もあれば、種類の違う響命力を持つ特別な人だという説もある。

 ただでさえ、基獣がいないことで周囲から一線引かれている有栖に、これ以上距離を取られるような真似はさせたくはない。

 他の方法を探すべく、恭夜が訊ねる。


「前野さん、退院はいつなんだ?」

『分からん』

「マジかよ」

『はよこいつの名前も決めてやりたいけん、お願いしとんやんかー!』


 退院の見通しが立たない入院に一抹の不安を覚える。不安の意味が不謹慎でもあるため、決して口には出さないが。

 だが、小虎にはそんな不安はないようだ。

 不安よりも不満が大きいともとれる叫びに、有栖は腹を括ることにした。


「分かった。病院行こう?」

「え」

「ただ、一応、私に基獣がいないことを知ってる人と会ってもまずいから、鞄に隠れてね?」

『おおきに!』


 幸いなことに、今日は体操着を入れたトートバッグがある。着た後のため躊躇いはあるものの、中身を恭夜の方に入れさせてもらえれば、二匹を入れることも可能だろう。

 嬉しそうに礼を言った小虎は、にやにやとした笑みに変えて横目で恭夜を見て言う。


『お雪はどっかのにーちゃんと違って優しいわぁ』

「腹立つ」

『いひゃい! ぼーひょくはんひゃい!』


 いらっとくる言い方に小虎の頬を抓ってやった。そして、引っ張る手はそのままに、有栖に念を押すように問う。


「なぁ、本気か?」

「うん。私も前野のおばあちゃんのこと気になるし、それに、この子のこと、いつまでも呼んであげられないのは可哀想だし」

「にゃあ?」

「…………」


 有栖の腕に抱かれたままの子猫が不思議そうに鳴いた。

 九十九の名前は持ち主にしかつけられない。自分達ではどうしようもできないものだ。

 恭夜は観念したように深く息を吐くと、ようやく小虎から手を離した。


「分かった。協力してやるよ」

「ありがとう」

「……ん」


 まるで花が咲いたように柔らかい笑顔を浮かべた有栖を見て、顔が熱くなった。

 赤面を隠すためにそっぽを向いた恭夜だが、赤い耳までは隠しきれておらず、有栖は小虎と顔を見合わせて小さく笑った。

 穏やかで平和な空気を、憎悪に満ちた眼差しが見ているとは思いもせずに。

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